しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

仮にセネガルが追いついたとしても、西野監督の判断を擁護したかどうか

ポーランド-日本戦の終盤、別会場でセネガルがコロンビアに負けつつあるため、日本は1-0で負けているにも関わらずパス回しをして時間を稼いだ。そして警告数差により決勝トーナメント進出を決めた。

 

観客からブーイングを受けるけれども、西野監督はあえて安全な敗北を保つことで、より大きな戦略的勝利を手にした。多くのひとが彼の判断が合理的であると追認し、称賛した。

わたしも、なるほどそういう判断が可能なのかと感心した。

 

けれども、セネガルがコロンビアに追いつく可能性もあった。もしそうなっていたら、セネガルが追いついたと知らされた瞬間、パス回しをしていた日本代表は再度あわてて反撃にでなければならなかっただろう。それはたいそう喜劇的な光景だっただろう。多くのメディアやサポーターは西野監督の選択を非難しただろう。

その世界線で、なおも「いや、それでもあの状況ではパス回しをするのが合理的な判断だったんだ。ただ賭けが裏目に出てしまっただけなのだ。賭け自体は十分成算があったんだ」と西野監督の判断を擁護するひとはどれくらいいるだろうか。たぶん、勝利のあとに追認するひとよりはずっと少ないだろう。自分がその環境にいたら「みっともないことをしたなぁ、セネガルを甘く見たのかなぁ」と批判的に見ていただろうとおもう。

 

勝ったら追認して負けたら擁護しないのであれば、それは結果から「合理性」を逆算しているだけなので、本当の意味での合理性ではない。

しかし現実世界では、こういった、結果から「合理性」を逆算するという心理がどうしてもはたらいてしまう。

 

ワールドカップにほとんど興味がないのですが、このようなことをぼんやり考えました。

 

サポーターがゴミ拾いするのは現地の雇用を奪ってるんじゃないかというまあよくあるアレ - しずかなアンテナ

 

「世界一のツリー」騒動の続報が出てしまった

 

昨年12月、神戸のメリケンパークで「世界一のクリスマスツリー」なるイベントが開催された。わたしはこのイベントが阪神大震災の鎮魂を謳うものであることが、端的に意味がわからないと思った。やめてほしいと思った。そのことは書いた。

 

 

このとき書いたことをいまいちど要約すると、

・「クリスマス」と「震災」は基本的に無関係

・「樹齢150年」と「神戸港150周年」を重ねるのはわかるが、これらは震災と無関係

・「議論を巻き起こす」ための具体的な手続きを用意しておらず、投げっぱなし

・「復興」や「再生」や「鎮魂」といった言葉の意味を深く考えているのが疑問

といった疑問があった。つまるところ、まずイベントありきで、そこに神戸港150年や震災鎮魂といったキーワードを後から貼り付けただけではないかという疑いを持った。疑いというより、不快感であり、怒りだった。

 

ともあれ、この事件は物理的な事故は起こさず終わった。観光客は何万人も来たということで、それはそれで成功したということなのだろう。この主催者が別の地域で似たことを再度やらかさなければいいがとだけ考えて、あとは可能な限り記憶から押しやった。

 

ところが実は終わっていなかった。ということを上記神戸新聞の記事で知った。

田中康夫氏が昨年12月28日にイベントを批判する記事を週刊誌に書き、Youtubeで批判した。その後主催者の西畠氏側が田中氏の記事と動画に対して法的手続きを取っていた。

 

 

この田中氏のサイトがすごく読みにくいのだけれど整理すると*1

・12月12日発売の『サンデー毎日』に田中氏が「ツリー」イベントを批判する記事を掲載

・1月18日、毎日新聞が西畠氏からの「通知書」の請求には応じられないとする「回答書」を送付。

・2月1日、西畠氏側代理人が田中氏に通知書を送付。慰謝料金100万円の支払いと動画の削除を要求。

・2月15日、田中氏が回答書を送付。

・3月20日、西畠氏代理人が慰謝料1550万円を求めて神戸地裁伊丹支部に訴状提出。

・5月7日、伊丹支部から神戸地裁に事件が回付される

・7月11日に第一回口頭弁論

という流れ。らしい。知らなかった。

 

 以下、備忘録として自分の感想を2点、書いておく。

 もうやめてほしい、というのがもっとも大きな気持ち。本人サイトのページを見るかぎり、田中氏の文章表現は品が欠けている。西畠氏の訴訟は自分の事業を守るために必要なのかもしれないけれど、イベントに対して市内から多くの批判があったということを自身にフィードバックしていないようにおもえる。神戸という街や、その市民や、木や、死者に対して、この訴訟がどんな意味を持つのだろうか。それを説明することばを探し直さない限り、自分のやっていたことの本質は一種の「興行」で、開催地域に根付いたものではないとみなされてしまうのではないか。

 もうひとつは、そろそろ「ルミナリエ」を本気で考え直さなければならないのではないか、ということ。ツリーのイベントを「呼び込んで」しまったのは、ルミナリエという土台がすでにあったからだ。ルミナリエは当初復興と追悼のシンボルとして開催された。わたし自身、一年目のルミナリエを歩いた。あのときのことは、震災の揺れと同じく、なんともことばに言い表すことができない。本当に大切な体験だったし、いまでもその思いは変わらない。しかし二年目から何かが変わったように感じた。三年目以降は行かなくなった。

 ルミナリエに対する感情はかなりひとそれぞれなのではないかとおもう。最初の年から忌避するひともいただろうし、毎年変わらず参加してきたひともいるかもしれない。だからわたしの感想を一般化することは避けたいのだけれど、しかし現在は圧倒的にクリスマスイベントという印象を持たざるを得ない。あえて下品な言い方をするけれど、追悼というより、ラブホ業界にとって重要だろうなという感想がある。

 この変化自体はかならずしも悪いものではないかもしれない。平凡で騒々しいイベントをするだけの街になってしまったということは、そのような街に復興した証だ、とも言える。(そしてまた、光の下でわちゃわちゃと戯れる若者たちのなかに、「そのように生きていたかもしれない死者」たちをわたしは見出すことがある。これもうまく表現できないのだけれど、かれらの「代わりに」遊んでくれているような気がすることがある。なんというか、ルミナリエに来る観光客を批判する気は全くなくて、来るならぜひ無邪気に楽しんで欲しいともおもう。亡くなったひとたちもそれを拒絶はすまい。)

 

 しかしながら、変化の「けじめ」をそろそろつける必要がある。本当は追悼の意味合いがどんどん薄れているのに、表向きは追悼ということで商業イベントを続けている。その「羊頭狗肉」っぽさもまた、被災地の内側のひとびとはある程度なやみ、ときどき文句を言いつつ、受け入れてきた。ところが「クリスマスツリー」のイベントはそうした逡巡すらもはやなかった。もっと単純で醜悪なものだとわたしは感じた。それを呼び込んでしまったのは、「ルミナリエ」をもう止めてはどうかという議論を真剣に始めていなかったためではないか。

 だから西畠氏への批判はもう切り上げて(おそらく誰が何を言っても届かないだろう)、あらためて市民自身が、なぜ「ツリー」イベントを引き込んでしまったのかを話し合うことが必要なのだとおもう。(そのための手順を具体的に考えてみたこともあるのだけれど、ひとりでは身が足りない)

 

 クリスマスにはまだだいぶ遠い季節にこのようなことを考えました。

 

 

*1:震災の追悼が自分の研究課題のひとつなので、とりあえず追いかけておかざるをえない

サポーターがゴミ拾いするのは現地の雇用を奪ってるんじゃないかというまあよくあるアレ

日本からのサポーターは観戦後にゴミを拾うのでエライという話が出ている。

 

日本サポーターのゴミ拾いが世界的関心事に…ロイター通信が写真を30枚以上配信 : スポーツ報知

世界から称賛された日本サポのゴミ拾い。吉田麻也「誇らしい」【ロシアW杯】 | フットボールチャンネル

 

前から思ってたのだけれど、これ結局、地元の雇用を奪ってるんじゃないかなぁ。

 

観客席が散らかれば、主催者は掃除せざるをえない。掃除には時間と人手がかかる。お金を費やして誰かを雇わざるをえない。すると掃除業務を地元の誰かが請け負うことになる。そのひとはそれで生活をする。

海外からのサポーターが片付けをしてしまうと、その仕事がなくなる。

 

こういう「風が吹かなくなれば桶屋が会社更生法手続き」の推測がほんとうに正しいかどうか、私はわからない。ただ、理屈としてはありうるんじゃないかと思っていて、それが「日本のサポーターは素晴らしい」「世界が真似する日本の美徳」みたいな別のストーリーで無視されちゃうのがなんとも気持ち悪いなとおもっている。

 

たくさんのひとびと(可能な限り全員)が、各自の時間と労力をすこしずつ無償で出し合って、共同体の業務を達成する。日本のひとびとはこの方式がわりかし好きらしいと私は観察している。(日本人だけではないかもしれないが)

ベルマーク収拾とか、ペットボトルの回収とか、町内の掃除とか。いくらでも例が出る。

こういう共同作業は通俗道徳と密接に一体化する。とりわけ、時間と労力の小出し供出にこまごまと「心を込める」のが良いとされている。たとえばペットボトルを回収するときもきちんと中を水洗いして、外側のフィルムを外し、キャップももちろん別にする。しかし社会全体で考えると、この「こまごま分担」にかかる労力は馬鹿にならない。場合によっては、分担部分の工程は最低限にして、中央で機械や熟練作業員によってガガっとやったほうが効率が良いこともあるはずだ。家事は減るし、中央で処理にあたるひとの雇用も生まれる。しかし、全体の効率より、いま目の前にあるタスクに自分が「みんなのために」手間暇かけることをよしとする。

専門化分業を拒み、生産性を下げる代わりに、共同体の連帯感を確保する、という方式なのだろう。

 

日本国内をそれで回転させるのは自由だけれど、「みんなで協力して片付ける」という部分だけを海外に持ち込んで手際よく帰国してしまうと、実は現地に迷惑になっている、ということもあるのではなかろうか。

 

仮にセネガルが追いついたとしても、西野監督の判断を擁護したかどうか - しずかなアンテナ

 

猫の事務所

電車の隣の座席で、女性が少年にずっと小言を言っていた。親子らしかった。仮に母子としておく。

ずっとずっと母親が何かをこまごまこまごま言っていた。男の子は、数分に一回、「わかってる」とか「受け止めるよ」とか不機嫌そうに言い返すのだけれど、子供が一言言い返すと、それを全て塗り潰さなければならないかのように母親はさらに繰り言を続けた。

子供に何かを説明して納得させることが目的なのではなく、じぶんの心のスペースを子供の鼓膜の裏まで押し拡げるのが目的なのかもしれない、とおもった。


こういうとき、宮沢賢治の『猫の事務所』を思い出す。事務所で働く竈猫が、ほかの書記の猫にいじめられている。物語の最後に突然「獅子」が出てきて「やめてしまへ。えい。解散を命じる」と宣告する。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/464_19941.html

「えい。解散を命じる。」と言えたらいいなと思ってしまう。この場合は事務室ではなく家族なのだけれど。もう家族解散!親子解散!みたいな。そんな権限はわたしにはないし、わたしは獅子ではないし、あの男の子も別にそれを望んではいないだろう。でも、それしかないじゃないかとおもってしまう。解散。


謝罪を値切ろうとするひとびと

 以前から気になっていたことなのだけれど、世の中には「謝るけど、謝ってない」という態度をとるひとが一定割合いる。

 

お詫び

この度、去る6月15日に行われた衆議院厚生労働委員会において、参考人のご意見の際、私が「いい加減にしろ」といったヤジを飛ばしたという報道がありました。
まずは参考人の方はもとより、ご関係の皆様に不快な思いを与えたとすれば、心からの反省と共に深くお詫び申し上げる次第でございます。
もちろん、参考人のご発言を妨害するような意図は全くなく、喫煙者を必要以上に差別すべきではないという想いで呟いたものです。
とはいえ、今後、十分に注意して参りたいと存じます。
この度は誠に申し訳ありませんでした。

平成30年6月21日
衆議院議員 穴見陽一 

 

 これは自民党公認 衆議院議員 穴見陽一 オフィシャル ホームページのトップページに掲載されている謝罪文。

 見た目は「お詫び」なのだけれど、あちこちに「ほんとうは謝りたくないかんじ」をかもしだしている。わたしはこれを「謝罪の値切り」と呼んでいる。誠心誠意の、「満額」の謝罪をするべきところなのに、文面のあちこちで「値切り」をかましてくる態度のこと。

 この「お詫び」の例でいえば、「不快な思いを与えたとすれば」「妨害するような意図はまったくなく」「とはいえ」というような、留保を挟む表現のことだ。「報道がありました」とだけ書いて、「それは事実です」と書き添えないことも、問題発生の責任を報道に転嫁させるような印象を与えてしまう。「ヤジ」を「呟いた」に変換するのも姑息だ。

 

 この「謝罪を値切ろうとするひとびと」は、広い意味では「謝ったら死ぬ病気のひとびと」カテゴリに含まれる。ただし値切り系のひとびとは謝らないのではない。たしかに謝る。謝るのだけれど、「でも、ほんとうはそこまで俺は悪くない」と余計なひとことを付け加えてしまう。いったん100万円の慰謝料を差し出しながら、「やっぱ80万円にさせて」と値引きするようなもので、周囲にひとしく不快感を与える。

 

 この態度は不可解だ。危機管理として悪手このうえないからだ。「炎上」のリスクが高まり、謝罪相手の態度を硬化させ、問題が長引く。自分の非を全面的に認めることが、自分の身を守る最良にして唯一の方法である状況に置かれているのに、それでも謝らない。謝ることができない。わたしはそれがわからない。これは善悪の問題ではなく、合理性の問題である。明日の保身よりも今日のプライドを優先させてしまうというのは、なんなのだろう。

 

 別の例を挙げてみる。

辞職後に高橋都彦氏が報道陣に配布した文書(全文)

 本日、平成30年6月4日、狛江市議会の同意を得て、狛江市長を辞職いたしました。

 今回、勇気ある女性職員から実名でのハラスメントの抗議文を受け取り、市政をこれ以上混乱させてはいけないという思いから辞職を決意した次第です。

 相手方がハラスメントと受け止められているのであれば、その行為はハラスメントとなります。これまで私の言動で、ハラスメントと受け止められた職員に対しまして、この場をお借りいたしまして謝罪いたします。

 また、このような事態となり、市政を混乱させてしまいましたことに対しまして、市民の皆様にもお詫(わ)びいたします。

 誠に申し訳ございませんでした。

 狛江市長としての6年間、狛江のまちを良くしたいという思いで、業務には全身全霊で取り組んでまいりました。その過程で、市民の皆様をはじめ、職員の皆様、その他多くの方々に大変お世話になりましたことに改めて感謝申し上げます。

 今後、職員の皆様には、新しい市長が就任されるまでの間、副市長を中心に職務に励んでいただきますようお願い申し上げ、私からの最後のコメントとさせていただきます。

セクハラ疑惑の高橋・狛江市長が辞職 市議会が同意:朝日新聞デジタルより

 

 わたしがもっとも引っかかったのは「勇気ある女性職員」という表現。たしかにこの女性職員たちは勇気がある。しかしそれは、彼女らの同僚や、同じ立場を共有し連帯しうる女性たちや、その他わたしを含む外野のひとびとが言う評価や称賛であって、告発された当人が「わたしを告発したあなた方は勇気がある」と言うのはきわめて奇妙だ。

 辞職の理由も「市政をこれ以上混乱させてはいけないという思い」からであり、「自分が悪いことをしたから」ではない。つまり、「市政の混乱」という、自分よりもむしろ女性たちが引き起こした事態(とおそらくかれは考えている)を収拾するために、あえて自分が犠牲にならざるをえない、という方向性を取っている。セクシュアル・ハラスメントで告発されたのが、いつのまにか彼の世界では「なんとなく良いことをした」というイメージに変換されている。「これが男の責任の取り方なのだ」とロマンチックな気分になっているのではないか。謝罪を値切りして、その差額を自分のナルシシズムに与えている。そのナルシシズムがそもそも事件の発生源であるのに。

 いずれの表現でも、悪を為したと名指しされたとき、それを否定して抗弁するのではなく、かといって全面的に謝罪するのでもない。いちおう謝罪の見た目は繕いつつ、告発者を「勇気ある」と評価する父親的位置にするりと逃げている。

 じぶんのプライドはそれで守られるかもしれない。しかしダメージはさらに拡大する。すると、さらに自分のプライドを守るための防御策を講じなければならなくなる。

 

 これらの「値切り系」のひとたちが共通して用いるロジックがある。それは「本心は良いものだったのだけれど、伝わり方(現れ方、表現の仕方、受け止められ方、報道での取り上げられ方)が悪かった」というものだ。

 穴見議員の場合は「喫煙者を必要以上に差別すべきではないという想い」であり、狛江元市長は「心に一点の曇りもなかった」。証言者の発言を「妨害する意図」は全く無かったのだけれど、喫煙者への差別を差し止めるために、つい「呟いた」。ところがそのつぶやきが、最初の善良な意思に反して、相手に不快感を与え、マスコミに必要以上に大きく取り上げられてしまった。したがって謝罪する、という論理構成である。この論法が許されるなら、体罰家庭内暴力児童虐待も許されてしまうだろう。

 心の中に最初もっていたオリジナルの気持ちは誠実で善良だったけれど、それを媒介するものが悪かったために、問題が生じてしまった…というモデルをかれらは使う。「媒介」するのは、自分の口下手さ、相手の思考回路、マスコミなど、じぶんの当初の本心とは別の主体である。このような媒介を引き合いに出すことで、責任を分散させようとする。

 しかしこの「本心」というものが、事件のあとになって見いだされたものであることをかれらは考えようとしない。たしかにそういった善良な気持ちも存在したのだろう。しかしそれは、人間の可変的な存在のなかの、たくさんの心象のごく一部にすぎない。ところが謝罪文を書く段階になって、それらの多くの心象からひとつが選び出され、それこそが事件中に一貫して自分の心を占めていた真実の気持ちであるという物語がつくられる。しかしその物語のなかに、謝罪の相手が入り込む余地がない。あくまで自分のための、自分がそこに閉じこもるための物語である。

 

北大阪地震の被災自治体のウェブサイトを比較する

スマホ版ウェブサイトをざっと見てみた。

以下、スクリーンショットをぺたぺた貼ってゆきます。

 

1. 豊中市大阪府

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「緊急情報」の欄を臨時に作り、ブルーシートの配布や避難所情報へのリンクを掲載。市長メッセージは要らんだろうとおもう。画面右上に「Multilingal」があるのも好印象。

 

 

 

2. 高槻市大阪府

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災害用ページに切り替え。かなり軽量。窓口電話番号→ツイッター→個別情報リンク一覧という順番で、情報掲示の優先度を検討しているのがわかる。欲を言えば「切り替えています」という注意書きはこの際なくてもいいだろうと思う。

 

 

 

3. 枚方市大阪府) 

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官房長官にマイカタと呼ばれてしまったヒラカタ市。このサイトもわかりやすい。必要充分という気がする。欠点を探すとすれば、市長メッセージは後回しで良いだろう点と、枚方市は外国人住民との共生を進めているのに、外国語話者向け情報が探せない点。

 

 

 

4. 池田市大阪府

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 池田市はあまり被害が大きくなかったためか、災害モードというかんじではない。ただ、通常モードのサイトのデザインもまあまあ整理されているので、災害情報を追加してもそれなりに見やすくなっている。もし池田市震源地だったら、「猪名川花火大会」はサイトから引っ込めて欲しい。

 

 

 

5. 茨木市大阪府

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高槻市と並んで被害が大きい茨木市。サイト全体を災害モードに切り替え。

構成は高槻市とほとんど同じ。簡潔でわかりやすい。どうせなら「茨木市」のロゴ画像もテキストにすべきでは。外国人住民にとっての手がかりが無いのも減点ポイント。

 

 

 

6. 大阪市大阪府

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非常に軽量で、情報が絞り込まれている。緑と赤に絞った色の使い分けもわかりやすい。英語・中国語・韓国語へのリンクを最上部に掲載。今回とりあげる自治体の中ではもっとも優れていると思う。

 

 

 

7. 箕面市大阪府

さてここからが本番なのである。

 

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ひどすぎる。箕面市だけ別格でひどすぎる。

まず、読み込みが終わらない。青いバーが中途で止まっているのをスクリーンショットでもご覧いただきたい。アクセス集中を全くさばけていない。ほんとに、冗談抜きでクソサイト。

災害用サイトに切り替えられていない。平時用のウェブサイト自体が中途半端なデザインで、画像が無駄に多用されている。複雑なデザインのサイト全体を読み込めないので、ブラウザがレンダリングに手間取っている。そのため、緊急情報へのリンクをタップしても応答しない。

 

 

少し時間をおいて、読み込みきった状態がこちら↓

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やはりクソ。紫陽花のきれいな写真なんか要らんだろう。災害時に読み込めないウェブサイトなんて、敵に撃ってみたら弾詰まりを起こす機関銃みたいなものだ。マジでクソ。

ちなみに箕面市の災害情報特設ページ自体はとても読みやすく、外国人住民向けの配慮もきちんとなされている。だから、特設ページをトップページと入れ替えるだけで良いのに。

 

 

 

まとめ

・多くの市が災害時用サイトに切り替えている。

ツイッターのアカウントを強調しているのは高槻市だけ

・外国人住民向けのデザインをはっきり意識して工夫しているのは大阪市だけ

・どの市もおおむねわかりやすいデザインだが(箕面市以外)、情報の絞り込みと外国人住民向けの案内については改良の余地がある。

大阪市が一番すぐれている。

大阪市>>高槻市枚方市茨木市>>豊中市池田市>>>>>>>>>>滝>>>>>>>>>クソ以下のクソ、箕面市

・なお上記の評価はあくまでスマホ向けウェブサイトについてのもので、市行政への評価ではない。けどウェブサイトの整理の仕方って、けっきょく災害時の対応の在り方にも反映してくるんじゃないかとおもう。

箕面市自体は静かで住みやすい町です

くじを出す

大阪大学豊中キャンパス構内。午前9時半ごろ行ってみると、校舎や図書館がみな閉鎖になり、行き場所がなくなった学生たちが校舎の周囲にぼんやり座っていた。妙に静かだった。構内のローソンのレジで、何かを買った学生にバイトのお姉さんが「くじ」の箱を差し出していた。それがとてもとても不思議な光景で、(不謹慎きわまりないけれど)面白かった。銀行強盗に襲われた銀行の窓口でオルゴールに油を注す作業を続けているような。