しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

サポーターがゴミ拾いするのは現地の雇用を奪ってるんじゃないかというまあよくあるアレ

日本からのサポーターは観戦後にゴミを拾うのでエライという話が出ている。

 

日本サポーターのゴミ拾いが世界的関心事に…ロイター通信が写真を30枚以上配信 : スポーツ報知

世界から称賛された日本サポのゴミ拾い。吉田麻也「誇らしい」【ロシアW杯】 | フットボールチャンネル

 

前から思ってたのだけれど、これ結局、地元の雇用を奪ってるんじゃないかなぁ。

 

観客席が散らかれば、主催者は掃除せざるをえない。掃除には時間と人手がかかる。お金を費やして誰かを雇わざるをえない。すると掃除業務を地元の誰かが請け負うことになる。そのひとはそれで生活をする。

海外からのサポーターが片付けをしてしまうと、その仕事がなくなる。

 

こういう「風が吹かなくなれば桶屋が会社更生法手続き」の推測がほんとうに正しいかどうか、私はわからない。ただ、理屈としてはありうるんじゃないかと思っていて、それが「日本のサポーターは素晴らしい」「世界が真似する日本の美徳」みたいな別のストーリーで無視されちゃうのがなんとも気持ち悪いなとおもっている。

 

たくさんのひとびと(可能な限り全員)が、各自の時間と労力をすこしずつ無償で出し合って、共同体の業務を達成する。日本のひとびとはこの方式がわりかし好きらしいと私は観察している。(日本人だけではないかもしれないが)

ベルマーク収拾とか、ペットボトルの回収とか、町内の掃除とか。いくらでも例が出る。

こういう共同作業は通俗道徳と密接に一体化する。とりわけ、時間と労力の小出し供出にこまごまと「心を込める」のが良いとされている。たとえばペットボトルを回収するときもきちんと中を水洗いして、外側のフィルムを外し、キャップももちろん別にする。しかし社会全体で考えると、この「こまごま分担」にかかる労力は馬鹿にならない。場合によっては、分担部分の工程は最低限にして、中央で機械や熟練作業員によってガガっとやったほうが効率が良いこともあるはずだ。家事は減るし、中央で処理にあたるひとの雇用も生まれる。しかし、全体の効率より、いま目の前にあるタスクに自分が「みんなのために」手間暇かけることをよしとする。

専門化分業を拒み、生産性を下げる代わりに、共同体の連帯感を確保する、という方式なのだろう。

 

日本国内をそれで回転させるのは自由だけれど、「みんなで協力して片付ける」という部分だけを海外に持ち込んで手際よく帰国してしまうと、実は現地に迷惑になっている、ということもあるのではなかろうか。

 

仮にセネガルが追いついたとしても、西野監督の判断を擁護したかどうか - しずかなアンテナ