しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

彼女だけが聞くことができない。

 たとえば90歳のお婆さんが無謀な運転をして、57歳の通行人の女性を死なせてしまう。ほかに数名の怪我人が出る。

 事件の直後からさまざまな「ことば」が生み出される。生き延びた怪我人へのインタビュー、亡くなったひとの遺族の声明、加害者の息子の「免許を取り上げておけば」といった悔恨。「現場は見晴らしの良い交叉点で…」といった報道、高齢社会の課題についての専門家の論評、「年寄りから免許を取り上げろ」といった意見。

 こうしたことばが重ねられてゆくうちに、ひとびとは事件について一定の「理解」を獲得してゆく。その内容や深さは必ずしも共通していないし、たとえば事故遺族や負傷者にとってその「理解」は「納得」とは別かもしれない。しかしいずれにせよ、ひとつの事件にわぁぁっとことばが集まってゆくという事態がたしかに生じている。

 それはおそらく、罪の無い人が突然轢き殺されたという社会的な傷口を「縫合」する過程なのだろう。さまざまなことばは、縫い合わせるための糸であり、血小板である。ひとびとは何らかの仕方で、たとえば自ら語る、他人が語ったことを読む聞くという仕方で、このことばの過程に参加している。

 

 ところが、事故のもっとも渦中にいた人、つまり亡くなった人だけは、この過程に参加できない。

 それは奇妙な事態だ。亡くなったひとは、自分を轢いたひとが90歳の女性であることを知ることができない。事件の直後から急激に寄せ集まるさまざまな物語を、その中心にいる死者だけが聞くことができない。仮に、この事件をきっかけに高齢者の免許保持について法令が改定されたり、小説や映画が作られたりしても。語られることがどれほど真実であっても、虚構であっても。残された人々にとって意味深きものであってもそうでなくても。死者はそれらを聞くことができず、わたしたちはその当事者を置き去りにしたままことばを重ねてゆく。傷口を縫合するようでいて、その核心部は閉じられないままにある。

 

 この構造は戦災や災害でも同様だ。真珠湾奇襲攻撃で死んだアメリカ海軍の水兵たちは、その後母国の海軍がジャップの軍と政府を完膚なきまでに叩きのめし、アメリカが戦後世界をリードすることを知ることができない。絶滅収容所で死んだユダヤ人は、その後キャンプが解放され、わずかな同胞が生き延びたことを知ることができない。大地震で建物の生き埋めになって死んだ人は、自分の家の外でも同様の倒壊被害が広がっているのかどうかを知ることができない。

 

 この原理的な構造はひどく不正なものであるように思える。というか、実際に不正の最たるものだ。けれども、生きている人間はなにかを語り、聞き、理解してしまう。そういう構造がある。

「ズキズキ」と「ずきずき」

 授業で擬音語・擬声語と擬態語の区別を扱った。擬音語・擬声語は、「ガシャガシャ」「ワンワン」のように、音や声の様子をことばに表したもの。擬態語は「そわそわ」「うろうろ」のように、ものごとの様子を表すもの。

 書き言葉では、擬音語と擬声語はカタカナで書き、擬態語はひらがなで書く。「音が出ているならカタカナ」と教科書にあり、この区別はわかりやすいと思ってそのまま教えた。

 たとえば机を手で揺すれば鈍い音が生まれる。それは「ゴトゴト」である。それはあくまで近似であって、本当に「ゴトゴト」ではないかもしれない。ただ、ゴトゴトっぽい音が聞こえていることは確かである。

 他方、「うろうろ」している人は、「ウロウロ」という音を発しているわけではない。足音や息の音は聞こえるかもしれないけれど、「うろうろ」はそれを越えた何か、顔つきや身振りやリズム全体を含んで理解される「様子」である。これはひらがなで書くことにしよう。

 

 このように説明したのだけれど、その後、「痛み」の表現について説明したときに困った。日本語話者は痛みを「ズキズキ」「ヒリヒリ」「ガンガン」「ジリジリ」といったことばで表現する。これは擬態語であろう。したがって自分の説明に従えば「ズキズキ」はひらがなで書くべきなのだけれど、どうしてもカタカナで書きたくなる。

 実際、「虫歯がずきずきと痛む」よりも「虫歯がズキズキと痛む」と書いた方が、ズキズキ感はずっとリアルさを増すように感じる。「日焼けした肌がヒリヒリする」と「日焼けした肌がひりひりする」はどうであろうか。

 

 この語感というか字感には個人差があろうけれど、どうも、「音が出ていないなら、ひらがな」と単純に分けられるものではないらしい。これはなぜか。ひとつには、痛みは「様子」ではないかもしれない、ということが考えられる。つまり「ヒリヒリ」は擬態語ではないということ。擬態語はものの様子を表現する。このとき、表現するひとは表現する対象を一定の距離をもって捉えている。自分自身がうろうろしているときでさえ、うろうろしている自分を少し離れたところから観察している。これに比べると、痛みの実感には「距離」がない。ズキズキした痛みを感じている自分と、それを表現する自分がほぼ一体である。ズキズキとした痛みの内側から「ズキズキする…」と表現するほかない。

 この「内側の感じ」はむしろ音や声の感覚に近い。「ガシャガシャ」という音は、その音源から出てこちらに聞こえてきているけれど、それと同時にいったん聞こえている音は自分の実感の「内側」に取り込まれている。

 

 もう一つの理由は、カタカナがひらがなよりもずっとトゲトゲしさをもたらすということ。ひらがなはやわらかく、まるみを帯びる。カタカナは異物として刺さってくる。痛みは自分の身体やこころにまろやかに溶け込んでくるものではなく、むしろしつこく刺さって抜けない。そこに痛みが有る、ということを意識しないでいられない。そのためカタカナで書きたくなる。

 これは音が出ている擬音語・擬声語でもある程度同じで、たとえば「窓がガシャンと割れた」はカタカナで書きたいけれど、「雨粒がぽとんぽとんと垂れている」を「ポトンポトン」と書いてしまうと、なにかが取り逃がされてしまうような気がする。ただ、「ぽとんぽとん」は擬音語なのだろうか、擬態語なのだろうか。「ぽとぽと」なら。「ぽつりぽつり」なら。擬声語・擬音語と擬態語の境目は曖昧なのかもしれない。

 

 話がそれてきたようにも思いますので、ここらで切り上げることにします。

「生活保護は家がある人のものだから帰れ」

 私が初めて野宿する人の生活保護の申請に同行して福祉事務所に行ったときのことを少しご紹介しましょう。その方Aさんも初めから生活保護を希望していたわけではありませんでした。60歳になり年金を受給できるようになるが、住所がないので困っていると相談してきたのでした。そこで私は住所がないのは家がないからだから、生活保護でアパートに入るほうがよいのではないかと勧めたのです。いろんな経緯があったのですが、Aさんはついに生活保護を申請する決意を固めました。私は、Aさんと一緒に福祉事務所に向かいました。窓口の若い職員に生活保護の申請に来たのだと告げると、少々さげずんだような目つきで相談申込書に必要事項を記入するように言いました。Aさんは氏名などを書いて「住所」のところでふと顔を上げ、どうしたものかと尋ねました。私はいま寝ている場所を書けばいいよと答え、Aさんはその場所を書き込みました。するとその職員は「これは何だ、生活保護は家がある人のものだから帰れ」とえらい剣幕で怒鳴ったのです。これには驚きました。日本国憲法が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を平等に保障しており、生活保護法が生活保護受給権を具体的権利として保障し、保護を申請する権利を認めているのに、「住居」もないほど生活に困窮しているがゆえに、生活保護を申請する資格すら認めないと福祉事務所の職員が言ったのです。(…)

 家がないから保護ができないという福祉事務所の理屈に対しては、行政不服審査請求を行い、それが間違っていることを認めさせました。

 

笹沼弘志「日本社会を蝕む貧困・改憲と家族」、『右派はなぜ家族に介入したがるのか 憲法24条と9条』大月書店、2018年、102-3頁。

つぶを見つめる

 わたしの母には不思議な「科学のセンス」が昔からあった。「科学のセンス」とは何であるか明確に答えることができないのだけれど、情理や倫理とは別の次元で世界をクリアに把握する感覚、とでも仮定義しておく。

 

 

 このセンスは家族のなかでおそらく母だけが強く持っていて、わたしはある程度それを受け継いだ。他の家族、父・妹・弟もべつに非科学的なひとではないのだけれど、母のものの見方とはすこし違う。父は世界を歴史の視点で理解するひとである。わたしは良い意味で、無理の無い範囲で、父の歴史学的センスと、母の科学のセンスの両方を受け取ったのだろう。そうしてわたしは(臨床)哲学にすすみ、弟は芸術にすすんだ。

 

 母の「科学のセンス」の本質を考えてみると、それは「小さなものを手元に引き寄せる」という在り方であるように思える。先日、彼女は孫に庭の鉢を見せ、そのひとつに生っているミニトマトをひとつぶひとつぶ採集して、孫の手のひらに乗せた。幼児はプチトマトを食卓で見て知っていたはずだったが、手のひらでじっと実を見ていた。そこで初めて何かを発見していた。かれはトマトや植物の何たるかを何も知らない。けれども、顔の近くに引き寄せて対象をじっと見るこの姿勢は現実の科学研究者とそっくり同じだった。かれがそのようにできたのは祖母が強いてそうしたからではない。そこには自然な「流れ」があった。すなわち、枝から実をちぎり取る、それを手のひらに乗せる、トマトであると言う、眼でよく見えるようにする、という一連の仕草である。かれはそこに自然と合流して、真似したのである。

 

 これと似たことがもっと以前にあった。わたしの妹が、つまりミニトマトの実をじっと見ていた幼児の母親がまだ小学校に入る前のころ、家の玄関先で母が育てていた多肉植物の米粒のような葉体を茎からすべてむしり取ってしまった。ぷちぷちちぎるのが面白かったのだろう。母は「あーあー」と笑って多肉植物の鉢を放置していた。そして後日、妹がちぎった葉体ひとつずつが再び小さな根を直接伸ばし始めていたのを母は発見した。ほっとったら生えてきとった、すごい、と言って子供たちにそれを見せた。微細なものによく気がつくひとである。

 

 ところで、このひとはそこから追加で何も言わないのである。つまり、ミニトマト多肉植物の葉について、「かわいいね」とか「きれいだね」とか「サボテンさんもがんばってるんだね」といったコメントを一切与えない。ここがおもしろいひとであると思う。強いて言うとすれば「すごいなあ」といった感想であるが、これは彼女自身の素直な驚きの発露であって、子供たちのために、教育のために何かを言うということが全く無いひとだった。じぶんが面白い、良いとおもうものを見つけてにこにこして、それを子供たちに見せて満足するだけである。

 

 以前、これと対照的な態度を取るひとに、京都市の植物園の温室で出くわしたのを思い出す。母と祖母らしきひとが小さな娘さんを連れてきているのだが、とくにこの祖母らしき女性が、温室の珍しい花を見つけるたびに、ほら○○ちゃん見て、キレイねえ、と言っていた。どの花を見ても「キレイねえ、ほらキレイねえ」だった。幼児の体と眼がうろつき周り、何かを発見するのを待たず、それをあらかじめ先回りして花を見つけてしまい、幼児の視野をそこに誘導して固定させ、「キレイ」という形容を当てはめ、それ以上なにも言わせない。そのような態度であるようにおもえた。この教育的コメントによって、その子の感性は「花=キレイ」でどんどん固定されてしまうのではないかと不安になった。それは一面では常識的な世界観を育てるのに役立つけれど、立ち止まって眼を近づけてじっと見て、何かにおどろき、次いで不思議なよろこびを覚えるという科学者の姿勢を育てるものではない。この科学者の姿勢は、詩人の姿勢でもあり、哲学者の姿勢でもある。

 

 思い出してみると以上のようなエピソードもあったので書きました。

声と傷: 朴璐美様のリテイク

 『∀ガンダム』のロラン役、『鋼の錬金術師』のエド役で有名な声優・朴璐美さんのロング・インタビューが非常に面白かったので紹介したい。

 いろいろなことが語られているが、いちばん心に残ったのが『鋼の錬金術師』の有名な「君みたいな勘の良いガキは嫌いだよ」の収録時のエピソード。

 元記事から引用するとほぼ全文コピペすることになるため要点を書いてみると、このシーンは前日のリハーサルから感情が乗ってしまい、収録時に「ぶあああっと涙腺が崩壊してしまって」。こんなに冷静さを失ってしまっては口パクも合わないだろうと思ったが、「そうしたら気持ち悪いくらいに、ぴっっったりエドと朴が合う」。それはエドに乗っ取られたような、身体をエドに貸しているような体験だった。

 

ところが「気持ち悪いくらい」にエドにシンクロした演技の収録が、音響監督にリテイクを命じられる。

 私も(すべてを出しきったことで)放心状態だったんですが、普通に三間さんからリテイクを要求されて。「……え? 今のシーン録り直し? 嘘でしょ、私もうこれ以上のものはできない!」って。それで、「もう絶対に(あれより良いものは)できないから、さっきのテイクが本番で使われるに違いない」と思いながらリテイクをしたんですね。〔中略〕

 それで1回目のリテイクを録ったら、「はい、これいただきます」って言われて。

〔聞き手〕えっ!?

 そう。さすがにブチギレて。もう半泣き状態になりながら、「どういうことですか! 全然意味がわかんないです!」って言ったら、(三間さんがアフレコブースに)入ってきて、「たしかに、さっき本番で録ったテイクは、エドとして最高のテイクでした。だけど、我々が作りたい作品は、『子どもたちに傷を残さないように、痛いことを教える作品』。あなたのさっきのお芝居では、傷がついてしまう。だから、さっきのテイクはいりません。こちらを使わせてもらいます」と。本当に「この野郎、殺してやる…」って思ったくらい、悔しくて悔しくてしょうがなかったんですけれど、またひとつ教えられたというか。

 演者は役のことを考えるのが仕事ですけれど、演出っていうのは、やっぱり画面の向こうの視聴者のことを考えるものなんだよな、っていうことを教えられた瞬間でしたね。そのときはもう3ヶ月ぐらい納得ができなくて、「顔も見たくない!」と思ったりもしましたけど。

 

 太字は引用者による。わたしがこのエピソードで重要だと思うのは2点。ひとつは演技と演出は違うということ。もうひとつは、「声」は、ときに、それだけで聞く者の心に直接ぶつかってくるということ。認識、知覚、理解という段階を踏んで徐々に受け取られるのではなく、そのひと(ここではエドであり朴璐美さんである)の有り様をまっすぐ届けてしまうこともある。