しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「ワクチンを打つ」

 

日本語ややこしい。

「うちの父はワクチン打ってきたよ」「ぼくはまだワクチンまだ打ってない」と日常的に言う。会話の相手や語り手自身が医者でない場合、「わたしはワクチンを打つ」は、動作の客観的な記述としては「わたしはワクチンを接種される」ということになる。つまり受動態で表現することも可能であるはずなのに、能動態で話してしまう。それが通じてしまう。

ワクチンの接種を受けるという動作は受動的だが、接種を受けることそのものは自分が選択したので能動的に語るのかもしれない。また、予約をして医院や接種会場に行ってあれこれ注意事項を調べて帰って…という一連の動作は自らの主体的な動作の連続である。医師に注射器でワクチンを肩に注入されるという動作だけを見れば受動的だが、それはこの一連の能動的な動作のごく一部にすぎない。

 

「歯を抜く」という表現もこれに似ている。抜くのはあくまで歯科医である。歯科医の椅子に寝転がっているとき、患者は徹底的に受動的である。ひとは普通、歯を抜かれるのである。だが「親知らずをこないだ抜いてねぇ」と話すとき、自分自身でペンチを奥歯に突っ込んで引っこ抜いたと受け取るひとはいない(ただし歯科医同士の会話であればまた別の解釈が可能である)。この場合も、歯科医での施術という狭い区間の動作ではなく、歯を抜くという決断をする、歯科医に行く、施術を受ける、治療費を支払う、帰宅する、その後の痛みに耐える、薬を飲む…という一連の動作自体を指して「歯を抜いた」と能動的に語るのだろう。

 

さらに似た表現を探せば、「レーシックの手術をしてきた」「ホクロの除去手術をしてきた」「痔の手術をしてきた」といった言い方も可能だろう。これらも手術自体は受動的だけれど全体のプロセスは能動的である。反対に、事故や急病で意識を失い、救急搬送されて緊急手術を受け、回復して退院したという場合、「事故に遭って手術してきたよ」とは言わない。プロセス全体に語り手の主導権が無いからだ。

 

「マッサージ」や「リハビリ」ではどうだろうか。「マッサージをされた」とも「マッサージをした」とも言わない。「マッサージをした」と言えば、ごく普通に語り手自身が誰かの身体を手でマッサージしたことを意味する。すると客/患者として整骨院に行ったならば「マッサージをされた」と言うべきだが、わざわざこういう言い方をすると、ちょっと卑猥なというか、やや穏やかならぬニュアンスが入ってくる気がする。むしろ多く用いられるのは「マッサージに行く」だろう。

「リハビリしてきた」も「リハビリを受けてきた」も不自然ではない。ただ、2つを比較すると、後者の方が身体が動かないイメージがある。「リハビリしてきた」だと、かなり元気になってきたという感じを受ける。「リハビリに行ってきた」であれば、「受けてきた」よりは軽症だが、「してきた」よりも重症のように聞こえる。