しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「出勤」という文化は何だったのか

職場では4月から「週4日在宅勤務、1日出勤」の体制が続き、緊急事態宣言が解除された最後の2週間は「週2日在宅勤務、3日出勤」となり、今週から完全に「週5日出勤」に戻った。

在宅勤務の良い面悪い面はいろいろなひとが既に語り尽くしているので今更書かない。在宅勤務そのものの長短や、業務の特性や働くひとの個性が当然ある。個人的には、これまで意識できていなかった、チームで働くのに必要なものごとに在宅勤務を通じて気づくことができたのは貴重な体験だった。週2の在宅勤務は実のところ続いてほしかったのだけれど、この気付きは在宅勤務が完全に無くなっても役に立つ。

 

ただ、もうひとつ、やっと気づいたことがある。「出勤」とは結局ひとつの文化にすぎなかったんじゃないのか。「労働」は人間や社会が存在するうえで除去できない本質のひとつである*1。だが「出勤」はそういった本質ではない。月曜から金曜のある定められた時刻に職場の全員が同じ空間に現前し、あれこれの仕事をこなし、ある定められた時刻に解散する。「定められた時刻にその場にいること」が出勤の核心であって、その後にきちんと働くかどうかは別の問題である。仕事の成果とは別次元で、きちんと出勤していること自体が評価の対象となる。

しかしこの「定められた時刻にその場にいること」は、たとえば「正月に餅を食べる」「お年玉をあげる」といった意味での文化と同じくらいの意義しかない。「1年」「暦」は本質的なものに近いが、畢竟「餅」「お年玉」はあってもなくても暦は存在する。餅やお年玉によって世の中のあれこれが成立しているのは確かだが、必須のものではない。「出勤」も同様で、それが無ければ労働が成立しないとは言えない。

もっとも業種によるところもあって、軍隊であれば兵隊さんが同じ時刻に同じ場所に集まって一斉に銃を撃たなければ攻撃や防御の意味が無いだろう。流れ作業式の工場であれば、ハンドルを取り付ける工員はいるがタイヤを取り付ける工員はいないのでラインが止まっていますということは非効率きわまりないだろう。しかし我が国の業種の何割かはそこまで「その時その場に」を必要としないはずなのに、なぜここまで「出勤」ということにここまでみんなこだわっていたのか。それに不思議を感じていなかったのか。そのことが不思議に感じる。なんで…なんで、ぼくは当たり前に出勤してたんだろうか?

たぶん「定められた時刻にその場に必ずプレゼンスしている」ことのしんどさこそが重要なのだろう。その定められた時刻というのは毎日午前9時や8時45分でなければならず、しかも一つの会社だけでなくどの企業や機関もみなそうでなければならず、そうしてみんなで通勤電車に乗ってしんどい思いをする。しんどい思いをのりこえているから出勤に意味があるが、なぜしんどい思い自体に意味があるかというと、それがなくなれば出勤に意味がなくなるからというトートロジーに陥る。労働の価値が生産したものの量や質ではなく、「しんどさ」という生産にかかったコストで測られるようになる。軍隊や工場では生産物の質・量と、それを生産するための「しんどさ」は比例するので問題ないのだが、そうでない業種でもその比例関係を守り続けようとするのは、なんなのか。そこのところが不思議に感じる。

 

*1:労働しない人間が本質を欠いているといったことではない