しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

役に立ちたい、の危うさ

現在の職場に研究員として就職してから、2回、災害対応の現地派遣に参加した。

1度目は工場の重油流出があった佐賀県、2度目は今回の台風19号の被災地。

 

現地派遣に実際に組み込まれて、ほんとうにいろいろなことを考えた。

ここまで真剣にものを考えたのは、東日本大震災の直後以来だとおもう。

 

考えたことのひとつは、「役に立ちたい」という気持ちは、それ自体はピュアで善意のものだとしても、きわめて危険だということだ。役に立って、もしかしたら現地の誰かから感謝されたりする。それはもちろん悪いことではない。けれども役に立ちたいという気持ちは、それ自体が一種の薬物や酩酊状態のようなもので、目を曇らせる。つまり自分が主人公になってしまって、被災地の相手のことを無視するということになりかねない。役に立ちたいという気持ちを否定して除去する必要はないけれども、いったん「カッコに入れる」必要がある。その気持のその正体をよくよく見極めておく必要がある。突き詰めて言えば、自分がヒーローとなって問題を一挙解決して、そして全ての問題を消失させて楽になりたいという欲求があるのだろう。この衝動こそが危うい。

 

もうひとつは、税金で動いている、ということ。

勤め先の機関は兵庫県内閣府が半々ずつお金を出し合って運営されている。だから自分の給料も、また現地派遣の交通費や宿泊費も、兵庫県に住むひとが収めた税金と、政府に収められた税金からの支出である。それが何を意味するのか、何度考えても多すぎることはないとおもう。妙に背負い込む必要はないし、そのつもりもない。ただ、自分が使っている経費を他の分野に使ったらどれだけ効果があるのか、それは意識しておこうとおもう。たいへん恐ろしい。

被災地から出るときの

先週、3日間、台風19号の被災地に入っていた。被災地という言い方にはいろいろと抵抗を感じるのだけれど、ともかく被災地と呼ぶほかない。


そこから神戸に帰ったとき、自分のこころが独特の刺々しさを帯びていることに気づいた。ささくれているというか、誰かをつかまえて難詰したいような、でも問い詰める内容もわからなくて、肌と世界の隙間が煮凝るような。

その気分はいつのまにか溶け去ったようでもあり、ずっと芯に残っているようでもあり、今となってはよくわからない。


わからないままにその気分の正体を探ってみると、被災地の光景や雰囲気といったことが、こころにそのままハンコで押されて残ったような気がする。被災地というカタがあって、こころがそのカタチを写し取って帰ってきたような。

そのカタはたとえば、市役所のひとびとの困憊した表情であったり、泥出しをする住民のひとたちのすがた、また浸水地域の光景そのものも、そうであったのだとおもう。そしてまた、県や市の災害対策本部の独特の雰囲気や、緊急の会議や制服。仕事として来ているという意識と、現実に対する無力感。アドレナリン。自分だけ抜けて帰れるという罪悪感。


気分そのものは持続し、変転する。そのうちに忘れてしまうだろう。ただ、被災地から離脱するときの、この荒れた気分は、何かを開示している。それは災害ということを理解するための第一歩であろうとおもう。



「遠いい」

さいきん、関西圏で、「遠い」と言うとき「トオイイ」と語尾のイを重ねて発音する例をたまに聞く。若い人に多い気がする。

ある地域で昔から言われていた方言の一種でありそれが広がっているのか、それとも最近になって発生した新しい言い方なのか知らない。

どうも語感としては、「トオイ」だけでは語尾が弱くてリズム感に欠けるために「トオイイ」と追加することで語調を整え、かつ遠さを強調しているようなかんじがする。

「オオキイ」「カワイイ」がどことなく対象のサイズ感を伴うのに対し、「トオイ」はあっさりしすぎているのかもしれない。

詳しいことはわからないが、ことばというのは運動しているのだと思えて愉快である。

「逃げ遅れたのか、取り残されたのか、逃げる途中だったのか。」

3月11日は沿岸部に大きな被害がありましたが、4月7日の余震で、内陸にも被害がありました。私の自宅では、台所の食器棚が全部倒れました。私は寝室にいて、立っていられる四つん這いになって逃げたのですが、そのあとに寝室のタンスが倒れ、下敷きにならずにすみました。私も私の家内も全盲ですが、台所の様子を触ってみると、とても私達の手には終えません。余震が起きたのが23時32分でしたので、あきらめて朝になったら子どもたちの手を借りようと思い、就寝したのですが、自分が見えないということ、何もできないということの無力感は、本当につらいものでした。

 

 その後、先程も申し上げたとおり、岩手県での視覚障害のある犠牲者は35名、宮城県では65名というデータを知ったのですが、私たちが本当に知りたいのは、どういう形で亡くなられたかということです。逃げ遅れたのか、取り残されたのか、逃げる途中だったのか。

(及川清隆「視覚障害者団体が取り組む東日本大震災後の復興」公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会編『障害インクルーシブな防災について考える ~誰もとりのこされない防災への実践~』2018年12月、37-38頁)

初等教育で「トロッコ問題」を使うことの是非

小中学校で「トロッコ問題」を題材に授業することがあるとチラホラ読むことがあって、うーんそれは…と思っていた。個人的な意見だが、初頭教育で「トロッコ問題」を使うのは、相当の覚悟が無いかぎり、やめたほうが良いのではないかと考えている。

 以下のような記事が出たので、この機会に自分の考えをまとめておく。

 

 

 きちんと調査したわけでも、関連データを持っているわけでもないのだけれど、「トロッコ問題」を小中学校の授業の題材にする先生がいないわけでもないらしい。その絶対数や割合は知らない。使い方は先生の数だけあるし、いちがいに否定するものではない。ただ、初頭教育でもいわゆる「考える力」が重視される傾向があり(それ自体は良いことだけれど)、道徳の授業などでも、いちがいに答えが出ない倫理ジレンマ系の題材が用いられることが増えているようだ(それも否定さるべきことではない)。すると「トロッコ問題」の利用もこんご徐々に増えてゆく(増えている)のではないかと推測する。もしそうなるとすると、うーん…という立場で、以下書いてゆく。この推測自体が大外れである可能性もある。

 

いくつか理由を挙げてゆく。

 

1. トロッコ問題そのものに、あまり品が無い

 初等教育中等教育で題材にすることの是非以前に、「トロッコ問題」そのものがあまり品が無い。あなたのせいで5人死ぬ、もしくは1人死ぬ、さてあなたはどうする……と迫るのだから。思考実験として一定の意味があることは認めるが、個人的にはあまり使いたくないタイプの題材だ。この理由はあくまで個人的な趣味や好みのレベルの話であるけれど、「品があるかどうか」という基準はあってよいとおもう。

 品が無いというのは、ひとの死を人数でざっくり処理して、その先を語らないことにある。そもそもそのような態度が現代社会に不可避に埋め込まれているのだとしても、それを暴き出すために唯一最善の方法ではない。


 

2.そもそも小学生は「思考実験」ができるのか

 トロッコ問題は思考実験である。実際にそうした事例があったわけでも、トロッコのレバーを操作する機会が満ち溢れているわけでもない。だからトロッコ問題を使うとき、教師(話題提供者)は「あくまで仮定の話として……」と前置きする。

 この「思考実験」という思考法は、やはりかなり高次の認知処理を求める。「実際にトロッコの暴走事件が起きたのではない」から始まり、「とはいえ実際にあなたがその場にいるものとする」と続いて、「レバーの操作をする」と状況を絞り込まれ、「操作によってこうなる」と選択肢が固定され、最後に判断を求められる。

 つまり、「この話は本当の事件ではない、作り話である」という架空設定の構築・受容能力、「その場にいることにする」という一定の想像力、「こうなったらこうなる」という推論能力、レバーを操作することとその結果を自己の存在に結びつけて考える責任応答能力(の架空的発動)、「自分がレバーを操作すると決めた理由はなんだろう」と架空の判断を反省し、判断作用のエッセンスを抽出する哲学的分析能力、そして「架空の世界の想定であるけれど、現実の社会を状況を反映している」という応用的思考能力、さらにはこれら一連の過程を反省して授業中に発表したりする言語能力が必要となる。要するに、めちゃくちゃハイレベルなことをしているわけだ。

 とりわけ、思考実験なんだけれども現実の問題を反映しているという「応用的思考能力」は、実際の社会問題をある程度知っていなければ成立しない。大学の倫理学の授業で用いるなら、ここの部分、つまり「トロッコのレバー操作をする機会なんて絶対にないけれど、実は似たようなことを私達はいつのまにかやってるんじゃないか」という誘導がキモになるし、教員の腕の見せ所になるだろう。そこから具体的事例に進んでゆくというのが一つの手法になるだろうけれど、それ小学生にできますか、という話になる。

 

3. 最適な手段ではない

 初頭教育に限らないが、トロッコ問題であれ校外学習であれ、子どもに何かをさせる以上、心身の安全を脅かすものではないか、そこで生じうるリスクは合理的な範囲の小ささに抑制されているか、というチェックが常に行われなければならない。さらに、トロッコ問題が何らかの教育目的の達成に資するとしても、絶対にその問題でなければならないか、という点もクリアする必要がある。学習者の心身のリスクが最小となる見込みがあり、かつ、目標達成のために唯一の手段でないかぎり、トロッコ問題を題材に採用する合理的理由は成立しない。

 上記の新聞記事では、「授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという」としている。「周りに助けを求めることの大切さを知ってもらう」という目的に対して、トロッコ問題はリスク最小かつ唯一の手段であっただろうか。それは違うだろう。

  そもそも周りに助けを求めて複数人で判断しても選択の正しさを担保しないこと、および複数人で考えることで決断の心理的負荷が下がることの非合理性を突くのがトロッコ問題の要点なのだから、なんというか「わかってますか感」がやや濃い。


4. 教員が勉強してるかどうか

 「トロッコ問題」に明確な答えは無い。だから授業の題材として使うことができるのだけれど、答えが無いにしても、過去に多くの倫理学者がいろいろな考え方を蓄積している。大学の倫理学の授業や論文でトロッコ問題が使われるとすれば、そうした倫理学上の学説をそこから紹介・検討することができるからだ。トロッコ問題自体はさほど古いものではないけれど、倫理学の歴史はずっと厚い。トロッコ問題はいわば入り口のひとつにすぎない。だから倫理学の厚みや深みに学習者を触れさせることができるなら、そうした力量を教師が持っているなら、題材として意味がある。

 そうした力量が無ければ、「いろんな答えがありますね、どれも否定せずに認め合いましょう」「世の中には答えが一つに絞られない問いがたくさんあります」といったのっぺりしたまとめ方をしてしまいがちなのではなかろうか。

 

5. 授業としては盛り上がって成立してしまう(ように見える)

 個人的にこれがいちばんやっかいではないかと思っているのだが、小学校ではわからないけれど、おそらく中学校以上ならトロッコ問題や、類似する倫理ジレンマ系の題材は、おそらくとりあえず盛り上がる。学習者はそれなりに理由付けができ、説明ができ、学習者同士で「議論」ができてしまう。すると「答えの無い倫理的な問いについて、クラス全員がじぶんの頭で考えて活発に議論した」という状態が生まれる。だがそれは本当に学習者の成長に寄与しただろうか。とりあえず盛り上がったかんじ、で終わっているのではなかろうか。

 

6. 倫理ジレンマという思考法をあらかじめ設定してしまう。

 「正義の倫理」および「ケアの倫理」という概念がある。わたし自身、この方面の専門ではないのであまり書けないのだけれど、正義の倫理とは基本的に「二者択一」型の問いを考えることから始まり、その選択に正義の本質を求める倫理学の思考法だ。トロッコ問題はまさしくこの正義の倫理にあてはまる。この「正義の倫理」は、どちらかというと男性的なものの考え方である。「ケアの倫理」は関係のなかで正しさを探ろうとする。ジレンマを引き受けるが、二択のどちらでもない解決を受け入れる。

 どちらが優れているということではないのだけれど、二者択一・決断型の思考法は、人間の倫理的な思考法の一部を強調したものにすぎない、ということは確認しておきたい。トロッコ問題についても、こうした背景をわかったうえで利用するか否かで大きく授業の方向性が変わるだろう。

組体操というより雑技団

組体操の継続をめぐって神戸市長と同市教委が「大バトル」という記事。骨折事故が起きてるから止めろという市長と、継続という教委の構図。

 

事故例のイラストを見てすごく驚いた。というのも、わたしが中学生の時にはまずやらなかったような「技」だから。

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もう雑技団やん

いや、今おもいだすと「帆掛け船」はあった。面倒なことをさせられていたものだ。

わたしは神戸市立の中学校で「組体操」を2回した(2年生と3年生)。もう20年以上前のことになる。

「サボテン」は普通に膝から乗るタイプ、「補助倒立」も普通に、ペアの相手がこちらの足首を掴みにゆくタイプだった。

 

この技だけ見ると、ほぼ雑技団だ。この20年で徐々に難易度が上がってきたのだとわかる。ためしに10年前、20年前、30年前の組体操のプログラムと比較してみれば良い。昔は昔で危険なものもあっただろうけれど、基本的に難易度が上がりっぱなしなのではないか。コワイ。

ある年の体育祭で難易度の高い技にみんなで成功してしまうと、翌年以降はそれが標準になってしまう。たまたまその年は事故が起きていなくても、潜在リスクはどんどん上がってゆく。

少人数の技の難易度が上がってゆくのは非常に恐ろしい。「ピラミッド」など大人数の大技は教員が周囲で介助するなどの「安全策」をいちおう取ることはできるけれど、二人技・三人技は学年全員でやるから、教員が一ペアずつ近くにいることはできない。

 

「倒立サボテン」など、運動神経が良く、かつ体格が似た男子同士でやっと可能というレベルだろう。ペアのどちらかが運動が苦手だったり、体格が未発達だったら、事故リスクが急上昇するのではなかろうか。