しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

被災地から出るときの

先週、3日間、台風19号の被災地に入っていた。被災地という言い方にはいろいろと抵抗を感じるのだけれど、ともかく被災地と呼ぶほかない。


そこから神戸に帰ったとき、自分のこころが独特の刺々しさを帯びていることに気づいた。ささくれているというか、誰かをつかまえて難詰したいような、でも問い詰める内容もわからなくて、肌と世界の隙間が煮凝るような。

その気分はいつのまにか溶け去ったようでもあり、ずっと芯に残っているようでもあり、今となってはよくわからない。


わからないままにその気分の正体を探ってみると、被災地の光景や雰囲気といったことが、こころにそのままハンコで押されて残ったような気がする。被災地というカタがあって、こころがそのカタチを写し取って帰ってきたような。

そのカタはたとえば、市役所のひとびとの困憊した表情であったり、泥出しをする住民のひとたちのすがた、また浸水地域の光景そのものも、そうであったのだとおもう。そしてまた、県や市の災害対策本部の独特の雰囲気や、緊急の会議や制服。仕事として来ているという意識と、現実に対する無力感。アドレナリン。自分だけ抜けて帰れるという罪悪感。


気分そのものは持続し、変転する。そのうちに忘れてしまうだろう。ただ、被災地から離脱するときの、この荒れた気分は、何かを開示している。それは災害ということを理解するための第一歩であろうとおもう。