しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

じぶんの身体の大きさがわからない

わかっていないこともないのだけれど、意外とわかってないんだなと最近わかってきた。

 

わたしはからだが大きい。健康診断で身長測定されると、おおむね177〜8センチぐらいの数字が出てくる。ただし横幅は無い。ススキが本とノートを抱えて歩き回っているような格好なのだとおもう。

 

筋肉も脂肪も無いので、自分が大柄な人間であるという実感が無い。

 

けれど他のひとから見た場合、接する場合はどうであろうか。とりわけ女性や子どもの場合、かれらの視界に入ってくるわたしの身体は、やたらと大きな、立ちはだかり覆いかぶさってくるような何かとして現れているのではなかろうか。あるいは暴力を受けた経験を持つひとならば、そこから鋭い視線や言葉や鉄拳がにゅっと飛び出してくるような、ぞよぞよとした砲台として。

 

ところがそうした「見られるサイズ」を携えながらじぶんが歩いているということを、わかっていない。それを常に意識しながら立ち歩きすること、居ること、振る舞うことが難しい。

 

この難しさに気づいたのは、満員電車に乗ることが最近増えたから。駅にはいろいろなサイズの人間がひしめいている。わたしもそのひとりである。ただ、この「いろいろなサイズの人間がいる」ということについて、わりと何も感じていない。それは自分が相対的に大きなサイズの人間であることによるのだろう。つまり、自分が相対的に小さなサイズの人間であれば、単に「いろんなサイズの人間がいる」というだけの理解にはならないだろう。歩きづらさ、恐怖、寄ってくる肩を押し返せないかんじ、見下してくる視線。このような感覚をあまり知ることなく、じぶんの身体を携えて、じぶんの身体で歩いている。

風に否定される哲学者

 私は地にたずねてみました。すると地は、「それは私ではない」といいました。地にあるすべてのものが、同じことをうちあけました。海と淵とその中をうごめいている生物にたずねてみました。するとそれらは答えて、「私たちはあなたの神ではない。私たちの上にあるものにたずねてごらん」といいました。そよ吹く風にたずねてみました。するとすべての空気が、そのうちに住む者たちとともに、「アナクシメネスはまちがっている。私は神ではない」といいます。天と日と月と星とにたずねてみましたが、「私たちは、君のさがしている神ではないよ」といいます。(アウグスティヌス『告白』10巻6章、山田晶訳)

 

アナクシメネスかわいそうすぎる。(アナクシメネスは空気を万物の根源としたギリシャの哲学者)

ブリュメートロニャンでは笑うときに手を叩かなかった

日本の若者の多くが、笑うときに手を叩く。とくに柏手を打つようにパン、パン、パン、と叩くのは、けっこううるさいのでやめてほしいとおもう。叩いている本人が思っている以上に(あるいは思っているとおりに)響く。地上でパンパン叩く音が6階まで聞こえてくる。

 

笑うのはいい。楽しく過ごすのはいい。不快なのは、自分たちが楽しく過ごしていることを必要以上に周囲に誇示するかのようなパンパンパンである。ほら、楽しそうだろ? ここは俺たちの場所なんだ。みたいな。

 

ブリュメートロニャンの若者はもっと品があった。日本の若い学生たちよりもずっと。ブリュメートロニャンでは、あまりに大きな声を出すことは無作法だと誰もがわきまえていた。おおいに喜びを表したいときも、数本の触手をうにょ、うにょ、とすり合わせるだけで十分とした。そもそも日常のコミュニケーションはテレパシーで行っていたので、大声が基本的に必要無かった。ブリュメートロニャンで1週間でも過ごしたひとは誰でも、日本人(というか地球人)の文化レベルの低さに気づいてしまう。ちなみにブリュメートロニャンのひとびとが頭から静かに胞子を飛ばし始めたら、めっちゃ怒っている仕草なので、そっと離れたほうがいい。胞子かよ。

タイリュウの台所実験

 ずいぶんと子どものころ、大きくなったら何になるのと聞かれると、科学者になりたいと答えていた記憶がある。野球選手やテレビタレントや宇宙飛行士ではなかった。

 

 科学者ということで何をイメージしていたのか。それは、白衣を着て、顕微鏡を覗き、野山で昆虫を採集し、火山の火口を見にゆき、望遠鏡を覗きブラックホールの謎を解明し、コンピューターをがちゃがちゃつなぐひとだった。

 

 いったい何の専門の科学者なのだ。宮沢賢治的世界観とでも言うべきか。『グスコーブドリの伝記』の中には棲んでいるような気もする。

 

 世界の分厚さへの素朴な信頼があったのだろう。それは主に、両親の無理の無い教養の影響下に育てられた。

 とりわけ母は、科学の眼を持つひとだった。ある日、わたしは小学校でタイリュウというものを習ったと言った。少しして、母は台所で透明なガラス容器に湯を沸かし、そこに紅茶の葉をたっぷりと入れてわたしに見せた。すると細かな葉が容器の中でぐるぐると縦方向に周遊していた。夕方には味噌汁の鍋の味噌が水面にもこもこと昇っては下に戻ってゆくさまを見せた。対流を可視化したわけである。

 こんなこともあった。95年の3月、わたしは風邪で学校を休んでいた。10時頃起きてリビングに行くと、テレビがただならぬ緊迫状況を伝えている。多数のひとが倒れ、とくに眼が見えなくなっているひとが多い、と伝えていた。母は「あれに似てるな、あの、松本の毒ガスの」と言った。正解だった。

 母は高度な科学教育を受けたわけではない。けれどときどき、不思議とこういったことをした。

 

関連記事:

被害者をだまらせる技法・再々 元次官の援軍を務めるひとたち

 財務省の次官がテレビ局の女性記者に猥褻な言動を繰り返していた。女性記者は自身の上司に相談したが取り合ってもらえず、次官とのやりとりの録音を週刊誌に提供して告発した。

 

 数ヶ月前、わたしはジャーナリストの伊藤詩織氏の『Black Box』の読後感想を書いた(被害者をだまらせる技法 ―伊藤詩織『ブラックボックス』感想 - しずかなアンテナ)。本書は、性暴力の「被害者をだまらせる技法」を加害者が存分に駆使するさまを描いている。加害者は、被害者の告発をすり替え、取り合わず、隠蔽し、脅し、無力化し、自身の権力圏に組み込み直そうとする。男性がこの技法を駆使するとき、世間のシステムが一斉にそれに味方する。

 

 今回の財務省(前)次官の事件を外から見ていると、やはりこの「被害者をだまらせる技法」が発揮されているなと感じる。

 特に恐ろしいと思うのは、その技法を用いるのが直接の加害者である次官だけではないということ。たくさんの「味方」が現れる。

 

セクハラ疑惑:麻生財務相「はめられたとの意見ある」 - 毎日新聞

自民・下村氏「週刊誌に売ること自体がある意味で犯罪」:朝日新聞デジタル

長尾敬氏が謝罪。女性議員について「セクハラとは縁遠い方々」と書き込む


 かれらには共通した戦略がある。それは、本質からズレた批判や見解を蔓延させることで、セクシュアル・ハラスメントの告発の打撃力自体を徐々に削いでゆく、ということ。

 告発された次官を擁護して彼の完全無罪を勝ち取ることが彼らの目標ではない(ここに挙げたひとびとも、次官が完全にシロで録音自体が全くゼロから捏造されたものだと思ってはいない)。セクハラはいけないことですねと一般論のように前置きしつつ、微細な事実確認や告発者側の「落ち度」の指摘を繰り返し、告発の本質を次第にぼやけさせ、告発者の体力を削いでゆく。すでに確定した事実でさえ、あたかも議論の残る問題であるかのように扱い、相手の印象を次第に引き下げる。「敵」の本陣そのものを撃破することは無理なので、その代わりに遠くから毒ガス弾を延々撃ち込み続けるようなものだ。

 

 かれらがこの戦略によって守ろうとするのは、告発された次官の立場ではなく、セクシュアル・ハラスメントが可能となる見えない仕組みである。

 かれらがそれを守ろうとするのはなぜか。自分たち自身がセクシュアル・ハラスメントをできなくなってしまうから、ということだけではない。実際にそのひとがセクシュアル・ハラスメントを行っているとは限らない。より根本的な理由は、権力の観念そのものを守るためにある。

 たぶん、だれかを支配することや、権力を勝ち取り、維持するといったことと、それによって保たれる組織や制度がセクシュアル・ハラスメントを行いうることは、かれらにとって不可分なのだ。おそらく多くの保守的な男性は、権力や組織の観念と性的な振る舞いを根本的に分離して構想することができない。「権力を持つ」「組織に属する」ことの一部に、「女性を自由に触れる、誘える、支配できる」ということが常に含まれてしまう。すごく大雑把な言い方をすると「セクハラがある程度可能な会社や組織」の方がイメージしやすいし、作りやすい。セクハラを組織からある程度無くすことは大切だと思っているが、完全に存在しない会社や組織をゼロから構想してみましょうと言われると、途端に困惑してしまう。もし自身が属する社会や組織がそのように変化してしまったなら(それは「権力」の観念自体が大きく変わるということだ)、自分はどうやってその中で生きてゆけばよいのかわからなくなる。

 

 だから、告発された次官の「援軍」が続々と参戦してくるのには、多重の理由がある。告発された次官そのひとを守るため。セクシュアル・ハラスメントが可能となる制度や組織を守るため。自分がセクシュアル・ハラスメントを続ける仕組みを守るため。性と結びついた権力の観念と、それによって成立する組織や社会を守るため。後のものほど、より根源的で、考えを変えることが難しい。

 ほんとうはそこまで難しくないはずなのだけれど。

 

いろいろな話し方

 被災者支援を23年間されてきた(いまも続けている)方にお会いした。派手なことばを使わず、声を張り上げず、得意げにならず、けれども確かなことを、ぼつぼつ、ぼつぼつと語られた。

 

 聞いたことをすぐにまとめようと思い、地元のよく知っている喫茶店に入った。4人がけのテーブルに、3人の身なりの良い奥様と、立派な体格の若々しい中年男性が座っていた。男性は何やらお金の話をしていた。「ここでの50万円が…こちらには40万円で…ここのところを理解しないとだめ…紹介してゆくことで…この事業モデルが理解できれば次のステップで…4億円の…」といったような。

 かれの語り方。その声。太い声帯から、自信に満ちて語られ、女性たちの視線をくぎ付けにして、ひとかけらの淀みも無く語ってゆく。朗々と。

 

 大学にもこういう話し方をする男性はいる。学内のカフェで、就活セミナーのための?学生の互助グループのようなものを、先輩学生が後輩に勧誘しているときの話し方。あまりに淀み無く、迷い無く、だれかから借りて着込んだ話し方とフレーズをそのまま繰り返し続ける。

 

 喫茶店で奥様方にここだけの儲け話を講義している中年男性(年齢は確かに中年なのだけれど、なんというかいわゆる「中年」ではなく、20代と30代と40代それぞれの精力を全て重ね合わせたような、過度に濃縮された若々しさを想像されたい)は、この、学内カフェの意識ハイエスト系学生の超強化版のようなかんじで、未熟な誘惑者が身にまとう胡散臭さを完全に体内に吸収してしまい、反転させて体外に自信として発散させている。

 かれの声は社交マナーを侵犯する下品な大声ではなく、落ち着いた低さと太さがあり、しかし喫茶店の対角線を挟んだ隅にまで届いている。信頼、善意、新たな挑戦への意欲といったものをじわじわと感じさせる声色。

 

 いろいろな話し方、いろいろな声があるのだとおもった。

 わたしが今の生き方を迷いながらではあれ続けていけば、一人目の方のような、ぼつぼつとつとつといった声に出会うことが多くなり、二人目の方のような、淀み無き声に出会うことは減っていくだろうとおもう。というか、そういう生き方をしようとおもう。そういう生き方をしないひともいるだろうことも理解しておこう。

 

 とりあえず、そんだけの話です。