しずかなアンテナ

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被害者をだまらせる技法 ―伊藤詩織『ブラックボックス』感想

 伊藤詩織『ブラックボックス』(文藝春秋、2017年)を買って読んだ。ジャーナリストとしての就職を望んでいた著者が、TBSワシントン支局長の山口敬之氏から性的暴行を受け、同氏が不起訴処分となったことから検察審査会に申し立てを行った。その申し立ての報告として記者会見を行った際には、名字は伏せて「詩織」とだけ名乗っていたが、性暴力被害者が司法手続きを求めて実名と顔を出し声を挙げたことは大きな驚きを呼んだ。本書では被害に至るまでの経緯から、「ブラックボックス」の中で起きていたこと、その後の混乱と攻防、記者会見までの流れを書いている。性犯罪被害者自身による手記としてはこれまで例えば小林美佳『性犯罪被害にあうということ』(朝日文庫、2011年)がある。本書はそうした当事者手記という側面を持つ一方で*1、政権中枢と強いつながりを持つ大物ジャーナリストを加害者として告発するという別の文脈も帯びることとなった。

 

 読んで改めて考えたことは、性犯罪被害者をだまらせ、罪の告発をあきらめさせるためのさまざまな技法や制度や慣習がこの国にはあふれすぎている、ということ。規模や方法の異なるさまざまな「黙殺の装置」が網の目のように張り巡らされている。装置の個々の部分については、実は意外と多くのひとが認識している。男女問わず。それが個別のものとして現れてくる場合に限っては、「まあ、世間ってそんなものだよね」といいながら多くの人がそれを乗り越えている。けれども、性犯罪の被害者という立場に突然投げ込まれると、それらの装置の各部分が突然総動員され、お互いに連携を始め、被害者を多重に取り囲んで執拗に責め立てる。その装置が伝えるのはただひとつのシンプルな命令、すなわち「だまれ」だ。事件について沈黙し、自分が被害を受けたことを隠し、加害者への告発を取り下げ、場合によっては引き続き加害者の支配のもとにとどまり、そうでなければ彼の支配圏からそっと姿を消すこと。男性が女性に対して望むときに暴力と権力と快楽を行使できるための環境を維持すること。それがこの装置の目的である。

 この沈黙の命令は、この装置の存在そのものについても言及することを避けよ、というところにまで及ぶ。J. ハーマンが『心的外傷と回復』の序文で、『1984』の「二重思考」を引き合いに出したのはこのうえなく適切な喩えだとわかる。というか、喩えですらなくて、本当に二重思考そのものをこの装置は強いる。つまり、そうした沈黙を強制する制度や文化があること自体について、沈黙せよ、忘れよ、と命じつつ、その命令が有効であり続けるために、命令されたことをいつでも想起できるようにしておけ、というのだから。

 被害者を取り囲んで沈黙を強いようとする「装置」が十全に起動したとき、事件は本書の題名である「ブラックボックス」のなかに無事とじこめられる。だから、(多くのひとが勘違いしうるのではないかと思うのだけれど)題名の「ブラックボックス」が意味するところは、事件が客観的にはブラックボックスとして映るかもしれないけれどわたし(著者)が言っていることは本当だから信じてください、ということではなくて、声と事件をブラックボックスに押し込めようとする制度、文化、技法が存在するということそのものなのだ。言い換えれば、ブラックボックスとは事件が起きたホテルの狭い空間と時間のことではなくて、それをブラックボックスにしてしまう世間そのもののこと。そしてこのブラックボックス化しようとする仕組みは、事件を法的に封印するだけでなく、被害者の心身の傷を文字通り拡大するようにも機能する。

 

 本書はそうしたさまざまな多重の装置の部品をひとつずつ説明する。『世間の現象学』と副題を付けてもよいぐらいだと思う。裏側から見るならば、被害者を沈黙させるために加害者が活用すべき技法についてのマニュアルでさえある。本書は、ジャーナリストを志望して加害者と接点を持つまでの前日譚、次いで事件の発生、混乱、司法手続きを求めての行動、不起訴処分と記者会見までの流れを描きなおしている。その流れ自体が、著者が「沈黙を強いようとする装置」のひとつずつに出会うストーリーとなっている。著者は、自分が被害を受けたという、ただその事実と正義の確認をさしあたり求めているにすぎない。自分が存在しているということ、ただその確認にほかならない。わたしがここにいます、ここにいるのはわたしです、わたしはわたしです、という、ただそれだけのこと。ところがそれが一連の戦いと絶望のプロセスになってしまう。

 立件に対して拒絶的で、被害者に何度も事件の供述を繰り返させる警察。緊急避妊ピルの処方に際しても性犯罪被害を想定していない婦人科医。「合意」の有無を加害者の主観に求める法制度。「仕事が続けられなくなるよ」という”善意”のすすめ。記者会見直後から始まる非難や嫌がらせの電話。おそらく政権中枢からの逮捕差し止めの指示。男性であり、「男性的」であればあるほど(すなわち地位や権力が強いほど)、これらの仕組みをフル活用することができる。殺人や詐欺やスピード違反の犯人ならば警察と世間から追われるのに、性犯罪の場合に限っては、加害者が逆にこれらを味方につけて被害者と「戦う」ことができてしまうのだ。

 本書第2章のホテル室内でのやりとり、第3章、第4章の加害者とのメールのやりとりは、男性がこうした技法に頼るとき、どれほど自然にこまやかにそれを使うことができるか、その最良の見本を示している。

 「(就職について)合格だ」と言うことで、これが性と暴力の出来事ではなく、自分の権力のルール内の出来事だと示す。何事もなかったかのように事務的な連絡を入れることで、事件を忘れたかのように振る舞えば就職の話はそのまま実現することを暗示する。事件について説明を求められると「冷静になってください」と突き放し、事件の具体的な経過については完全に話を創作する。謝罪の意思の有無についての議論を、事実関係についての議論に後退させる。同時に、「問題を解決するためにわたしも努力を惜しまない」等、善意の協力者のような立場にシフトする。相手のことを、〈レイプの濡れ衣を自分に着せようとする悪どい女〉として扱うのではなく、あくまで〈酔った勢いで自分を誘惑してきた、自律と理性の欠けた女性〉であったことを思い出させてあげようとする。「冷静に」「落ち着いて」という言葉を受け入れさえすれば、被害者はむしろ自分ではなかったかもしれないとあなたは理解するはずなのだ……というストーリーが即座に組み上がっている。著者が警察官に言われた「もっと泣くか怒ってくれないと伝わってこない。被害者なら被害者らしくしてくれないとね」(76頁)という発言は、実質的に加害者との「共犯関係」を形成している。被害者女性は取り乱し、泣き喚かなければならないのだ。そうであって初めて、男性は「落ち着いて」と彼女を受け止め、”あるべき方向”に導くことができる。感情的であるから冷静になれと求め、冷静であるのはおかしいと求めるのが(あえて主語を大きく一般化したうえでの)「男性」の戦略なのだ。

 

 加害者がこうしたミクロなテクニックを当たり前のように駆使できているのはなぜなのか。同様の犯行を実は何度も繰り返していたから、という可能性もあるかもしれない。そうであったとしても、なかったとしても、自分は驚かない。「初犯」であったとしても、やはりかれはこの技法に頼ることができるのだと思う。というのは、これは性犯罪者に独特のやり口というよりは、男性が女性に対して権力を存分に行使する際の常套的なやり口だからだ。つまり、権力を行使しつつ、その行使の跡を消すという方法。これは殺人犯が死体や血痕を埋め隠すのとは、少し異なる。殺人犯が死体を隠すのは、殺人が悪事であることを認めているからだ。犯人は、殺人は悪であり違法であるというルールを破りつつ、それに従っている。これに対して、本書の加害者が行おうとするのは、権力が男性のルール内で「適正に」行使されたことを女性に同意させようとする、そうした権力の行使である。メタ的なので、前述の「二重思考」型になるのだ。

 そしてこのタイプの権力の発揮は、実のところ性犯罪に限らない。世間のあらゆる局面にはびこっていて、その中で生きる以上、だれもが多かれ少なかれそこから利益を供給されている。この国で男性として生まれるということは、この装置を活用する権利をまず与えられるということを意味する。ただし自分の人生をそこに完全に一体化させてしまうか、それなりに距離を取るかはある程度選択ができる。女性として生まれるということは、この装置の存在に気づくという義務を課されることを意味する。ただし、気づいた上でそこに順応するか、それともそこから自分なりに距離をとってゆくか、という選択肢は与えられない。そこから離れようとする女性を、装置(とそれに一体化した男性)は自身のもとへ連れ戻そうとする。その装置の部品のひとつとして、陰茎が勃起する。強制による性交は権力の行使の手段でも目的でもありうる。いずれか片方に還元しようとすると装置の本質を見誤る。そしてその際、装置の発動は、強いものが従順なものを愛し、認めるというシナリオで行われる。だから権力の行使といっても、機動隊が哀れな農民を殴りつけるといったスタイルにはならない。加害者は「君のことが本当に好きになっちゃった」「早くワシントンに連れて行きたい。君は合格だよ」(52頁)と言う。おそらくこれは彼なりに本心なのだろう。かれが「装置」に一体化してゆくタイプの人物であることは、本書で描かれるかれの立場や立ち回りから推測することができる。だから、かれは権力を行使するミクロ・マクロの技法について、仮にこの事件が性犯罪としては初めてのことであっても、あらかじめ知悉していたのだ。

 

(追記:けっきょく、この国で男性として生まれて男性として生きるとは、どういうことなのだろう、と考えてしまう。自分が権力を持つ業界に入ってきた若い女性を誘い出し、酒に薬を混ぜてホテルに運び込む、ということをわたしが今後するかどうか考えてみると、その可能性は低いとはおもう。本書を読んだ男性も、読まない男性も、そのきわめて大多数は、やはりそういった行為とは無縁だろう。けれども、本書で著者が描出する「だまらせるテクニック、制度、文化」のひとつずつを確かめ直すとき、ミクロなものはわたし自身しばしば使っているし、マクロなものについては気づかずそこに一体化している。これは「自分も潜在的な加害者なのだ」といった反省のポーズで片付く話ではなくて、つきつめれば認識論の問題であるのだとおもう。女が気づいているもの、被害者が鋭敏なアンテナで気づいてしまうものを、男は見出すことができない。権力や暴力をとおりすぎるということが、このからだによって実現されている。)

 

追記2: このエントリで自分は著者が告発する山口氏を一貫して「加害者」と記述している。書類送検を経て不起訴処分に至ったので、推定無罪の原則からすればかれは現在のところ無実のひとである。だからわたしが山口氏を加害者と断定するのは不正であると言える。「著者によって加害者として告発されているところの男性」と記述すべきなのかもしれない。

 にもかかわらずわたしが敢えてこうしたカギカッコ付きの表現を用いなかったのは、2つの理由がある。第一に、著者による冤罪やでっちあげの可能性を感じさせるような箇所を本書のなかに見出すことができないということ。第二に、留保を付けながら記述するという態度自体が、より大きな不正でありうる場合があり、これはまさにその事例であると思うということ。「被害者を自称する人物によって加害者として告発されている男性」という留保的な表現を用いることは一般に奨励される。加害者だと早急に断定して一方を攻撃することは、とりわけ冤罪被害の拡大を防ぐために避けられなければならない。けれども、そうした留保の態度は、「真偽が不明なうちはいずれの味方もせず、権威による事実認定が確定したのちに真の悪人を存分に叩くべし」という攻撃的日和見主義に簡単に転化する。冤罪被害を考慮して被害者の証言に慎重に距離を取るということと、告発に失敗した被害者を攻撃する権利を保ち続けるということは、紙一重なのだ。

 とりわけ告発する証言者(著者)の視点からすれば、この留保的な態度は「あなたの言っていることを半信半疑でいちおう聞いてあげます、もしあなたが私の説得に失敗すれば、私はあなたを攻撃するけどね。さあ申し開きをどうぞ」というメッセージとして成立するのではないかとおもう。それは、世間という大きなブラックボックスの機能の一部として彼女の前に現れるということ。

 そうならないためには、「加害者とされている人物」を過剰に攻撃することは抑制しつつ*2、ある一線を踏み越えて告発者の言い分の肩を持つということがどうしても必要になるとおもう。留保的な表現を用いなかったのは以上の理由による。これは英語ではadvocacyと呼ばれる態度であると思うけれど、日本語になかなかしっくりくることばが見つからない。(2017/10/20)

 

*1:それぞれの本と著者を「こういう分類の本」としてカテゴライズすること自体が間違っているのだけれど…

*2:このエントリがそうであるかは批判を待つべきところだ