しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

大阪大学図書館の収蔵書検索結果が「隣の本」も表示するように

いま偶然見つけたのだけれど、図書館収蔵書の検索結果に「隣の本」という項目が追加されていた。

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アーサー・フランク『傷ついた物語の語り手』を読んでいると、T. パーソンズの「病人役割論」を何度も批判している。そこでパーソンズの本を検索した。

すると、収蔵箇所の一覧に、「予約/取り寄せ」「複写」「公費eDDS」に加えて、「隣の本」という欄がある。(画像では潰れて見えづらくなっているが、一番右の紺色のアイコン)

 

これを選ぶと、

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パーソンズの本の、文字通り隣に配架されている文献が横並びに表示される。書棚の並びなので、同じ著者の本ばかりとは限らない。たとえばパーソンズのご近所さんに見田宗介の本があることがわかる。

実際に書棚の前に立つのに少し近い体験をブラウザ上でできるようになっている。とても使いやすいとは言えないけれども、おもしろい仕組みだとおもう。

 

いま偶然知って面白かったので、紹介してみた。

 

音と時: いつのまにか雨が止んでいる

 たしか火曜の真夜中、雨がざああと窓の外で降り始めた。そのざああの音を聞いてしあわせな気持ちになった。まさにいま降り始めた細かな「ざああ」のなかへ、強くて芯のある「ざああ」がさらに補充され、音の密度が高まってゆく。落ちる雨粒の一筋ずつを聞いているわけではないのに、たしかにその雨の線が増えてゆくのがわかる。「ざああ」は遠くからこちらへ近づいてきたものであり、空から増えているものでもあり、窓の外の地面や屋根の表面で生まれているものでもある。「雨が強くなった」「雨音が強くなった」と表現してしまえばそれまでだけれど、わたしの耳から地面と空へ広がる世界、世界からわたしの耳へと収斂してゆく構造はとても多層的で複雑で、これをどう描き直すことができるのか、むずかしい。

 

 ところで雨が降り始め、強くなっていったというまさに「そのとき」を、そのとき「いま」においてわたしはたしかに感じ取っていた。雨音はわたしの隣にあり、わたしの外側にあり、雨音が包む世界の内にわたしは座っていた。そのときの、「とき」のもとで、洗濯物干したままになっていなかったよな、とか、天気予報でたしかに言っていたなとか、ささやかなしあわせなかんじ、などのいろいろなことがわたしに去来した。雨がまさにいま降り始めたということを確かめることができた。

 

 ところが一時間ほど経っていたころ、気づくと雨がやんでいた。降り始めたときはあんなにはっきりと音を聞いていたのに、「雨がいま止んだ」という、その瞬間を捉えることが全くできなかった。

 雨はいつ止んだのだろうか。

 いつのまにか止んでいたなと気づいたとき、雨は確かに止んでいる。雨が降りはじめて、なお降っているなと感じていたときがあった。その中間のどこか、「いま」と「降り始め」の間のどこかで、雨が止んでいたはずだった。けれどもその「止んだ瞬間」を確たるものとして掴まえることができない。把握できないけれど、どこかのその時点から時間が引き続いて、雨が止んでいる「いま」に迎えこまれている。たしかに雨が降っていない「いま」は、その起点を過去のどこかに持っているけれど、それはもはや確定できない。強いて言えば「いつのまにか」が「いま」の基盤である。

 この「いつのまにか」とはどのような現象なのだろうか。「いつのまにか」は確かにわたしの支配する「いま」に従属しているけれども、その由来をわたしが確定することができない。「いつのまにか」はまさにいつのまにか私の時間に忍び込んでいる。こうした「いつのまにか」の支流は単一ではなく、「いま」にはさまざまな「いつのまにか」が多層的に流れ込んでいる。さらに、そうして成立している「いま」は、いつのまにか、未来のある時点へ向けた「いつのまにか」に変ずる。

 「いつのまにか」がその「いつのまにか」性を獲得するのは、その事件が成立した瞬間ではない。それが獲得できないから「いつのまにか」なのだ。いつのまにかは、いまのわたしが「あれ、そういえば」と気付き、さかのぼることで「いつのまにか」性をともなって現れている。いつのまにか性の本質のひとつは、遡及性にある。では、どのようなときに、どのような条件で、「いつのまにか」への遡及が始まるのか。これがやはり、指定できない。「そういえば、いつのまにか雨が止んでいた」と気づくことになる。「いつのまにか」とひとが言うとき、しばしば「そういえば」と前置きが必要になる。「いつのまにか」がいつのまにか性を持ったものとして「いま」へ受け入れられるとき、それもまた時点としては把握しているものの、理由や原因が割り出し難い。つまり「いつのまにか」は、起点においても謎であり、遡及開始点としても謎であるような現象だ、ということになる。

 

黒板を背にする

4年前、当時在籍していた大学を出るとき、後輩やお世話になった職員さん達に「これまでは黒板に向かって座っていたけど、これからは半回転して黒板を背にしたい」と見栄を切った。


それから4年。きょう初めて、ひとりで黒板を背にして、40名超の新入生を前に90分丸ごとの授業をした。不安定な環境であることに変わりはないけれど、ひとつステップを踏んだと思うことにする。楽しかったし、受講生のひとたちからもそれなりに手ごたえがあったとおもえる。


この6年間、なぜかずっと、初年次教育に関わらせてもらっている。向いているなと自分でも思う。研究も教育活動も、がんばってゆこうとおもう。

死ぬほど実現したいという意識が最低条件

「いずれにしても、自治体がやらされモードではなく、死ぬほど実現したいという意識を持つことが最低条件」


すごい文章やな、と思った。

「死ぬほど実現したいという意識」って具体的にどんな意識だろう。

どんな態度や言動なら「死ぬほど」とみなされるのだろう。

主語は誰なのだろう。市長なのだろうか、それとも県や市の職員なのだろうか。職員が過労死したらOKということだろうか。いや、過労死は労働条件の問題なので、意識にはあまり関係ない。


「最低条件」なので、「死ぬほど」以上の何かが先に控えている。それがどんな状態なのか、この文章を書いたひとは言明できるだろうか。


大学誘致に生死を賭けて取り組むひとって、いるんだろうか。そもそもそこまで強烈な態度は必要だろうか。淡々と、合理的に精密に話を進めればいいんじゃないだろうか。


ひとつずつの言葉の意味を考えながら書いていない、ということなのだろうとおもう。化学調味料をスープにどぼんと入れるようにして、派手な、ごわごわした言葉を使う。それに慣れてゆく。

ムッダイー

疲れていたり、悩み事があったり、あるいは風邪で寝込んだりしていて、2日ほど家に閉じこもって過ごしたその翌朝、部屋の外に出るといつもと変わらず鳥が鳴いていて、木々が葉を空へ向けていて、ゴミ収集車が普段通りに動いている、それらを見たときの、世界は自分を必要としていないようだ、わたしの疲労と無関係に運行しているんだ、と気づき直す、あの無上の爽快さが視界に染み渡ってゆくよろこび。

ノモンハン事件がわからない。

 ノモンハン事件がわからない。

 

 満蒙・日ソの不安定な国境に広がっていたある種の「雰囲気」としかいいようのないものが、各当事国の戦略や時勢と称するもの(それは本当に実在したのか?)によって次第に一つの焦点へと強引に高められ、最終的に巨大な局地戦にまで凝縮させられた。歴史の歯車が次第に噛み合い、回りはじめて軍事衝突にまで至ったものであるけれど、そもそもそこに歯車が必要だったのかという疑問がある。

 日本陸軍に限っていえば、目の前の実際の現実に対して国家戦略をどう噛み合わせてゆくのかという問題に取り組んでいたというよりは、むしろ軍事官僚が日々産出するさまざまな書類の文章の機微のなかにもうひとつの〈現実〉を作り出し、その中に棲みついて命令を発し、報告を受け取っていたというかんじがある。現実を誤認して派手な負け戦をしでかしたというよりは、文章のなかに現実を作り、文章のなかで強硬な戦略や「現実的な」対応を立ち上げ、文章のなかで負けを認め、文章のなかで教訓を汲み取り、なにか納得した気分を得る。そのサイクルは現実世界にほとんど開かれておらず、文書の、文章の、表現の入れ替え、記入、抹消のなかに閉じている。そのサイクルを続けるために、官僚機構は次の目標に自らを投げ出してゆく。陸軍省という機構を円滑に日常運行させてゆくために戦争をした、と表現したくなる。

 

そうして、約3ヶ月間の、国境を川にするか川のちょっと東側にするかという問題から拡大した「事件」で、日本・満州ソ連・モンゴルの各国2万人近い兵士が戦死した。

日本軍に限っていえば戦死者8, 440名という数字がある。

 

この8,440名という数字が、わからない。うまくイメージがつかない。

たとえば今年の大阪大学には6,406名の新入生が入学したという。(実際には全員出席してはいないが)4月3日、大阪城ホールに6,406人の若者が集められた。この全員が第23師団に配属され、そのまま専用列車に乗り、舞鶴で船に乗り替え、夏の満州の草原につれてゆかれる。そしてハルハ河のあっちに渡ったりこっちに退いたりしながら、全員死んだとする。それでも8,440名にはまだ2,034人足りない。

 

そういうことが確かに80年前にあったということが、やはり、わからない。