しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

認知症のかけら

 じぶんは認知症になる才能を持っているな、とごく最近きづいた。才能や素質というのは変な言い方だけれど。

 先日、起床してすぐ、朝食の用意を始めた。「フルグラ」と紅茶を作ろうと思った。フルグラ用のお皿を机に置き、台所で電気ケトルに水を入れた。ところがその直後、なにか全く別のことが頭に浮かんで、数秒そのことを考えた(たぶん、その日の予定について思い出していた)。その後、再び意識を台所に戻す。水が入った電気ケトルが目の前にある。ああそうだ、お湯を沸かすのだった。電気ケトルを台座にセットしてスイッチを入れる。机を見ると、なぜかお皿が置かれていて、わたしは数秒固まった。なんでお皿が出ているのだろう。

 この瞬間の、ふしぎな、ぽわんとしたかんじ。白い霧が環境世界の適所性Bewandtnisをほとんど脱臼させてしまい、それまで全てが噛み合っていた知覚の歯車のいくつかがスポンと抜けている。フルグラを作るという目的のもとで、皿を用意する→フルグラの袋を手に持って中身を皿に移し入れる→冷蔵庫から牛乳を出して皿に注ぐ、という一連の行為が成立するはずだったのだけれど、流れそのものがいつのまにか消えてしまっている。これは、求めていたことが上手く進まなくて打開策を探しているのではない。ただお皿だけが机の上にあって、ぽかんとしてしまうのだ。

 その後、わたしはさらに数秒間、自分の記憶と行為の連鎖を巻き戻してみた。するとフルグラを作るのだったという目的がやっと回復され、一連の行為の流れが回復した。

 専門家ではないので当てずっぽうだけれど、この巻き戻しと回復ができなくなったとき、本格的な認知症が始まるのかもしれない。なぜだか、お皿が机の上にある。そのお皿と、自分自身の目的や生活を関連づけることができない。そのままオロオロするという事態である。

 

 ここで興味深いのは、認知症では、この場面で「誰かが置いた」という別次元の認知の連鎖が導入されることが多いらしい、ということである。人間にとって、根本的に、目的や知覚の連鎖から外れた余計なことを挿入してくるのはいつも「他人」だからなのだろう。要するに「ひとのせいにする」。客観的には認知症のわたし自身が目的と流れをとり逃がしたのであり、その結果としてお皿のみが浮き上がってきているにすぎない。しかし認知症のわたしは、目的と流れを取り戻すのではなく、「だれがこんなところに勝手にお皿を置いたんだ、なぜなのだ」という認知システムに移行する。不愉快な感情が同時に生じる。そこで「いやいや、おじいちゃんが自分で置いたんでしょ」などと言われれば、怒りはブレーキなくクライマックスに到達するだろう。あるいはまた、「だれか知らんが空の皿を置くとは、ワシに朝食を食べるなということか」と考えるかもしれない。

 以上は推測にすぎないけれども、「認知症のかけら」のような出来事が、意外と日々の生活に散りばめられているなとおもった。認知症は脳や能力の決定的な変化・劣化というより、通常の日常生活自体が「認知症で無いだけの認知システム」にすぎないのかもしれない。客観的には両者の境界線は明瞭だけれど、体験においては、曖昧な境界上をけっこうふらふら行ったり来たりしているのかもしれない。