しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

連れてゆかれる

高速神戸駅から十三駅まで車内でうとうととしていた。電車に乗るというのは不思議な体験であるとおもう。それは「連れてゆかれる」という体験である。

わたしたちは日常、列車に乗ってA駅からZ駅まで〈行く〉と言う。けれども列車の車内で何か〈行く〉ことの努力をしているのではない。むしろ寝たりスマホを見たり、行くということとは別種の動作をしている。たまたまそうしているというのではなく、むしろそうするようにひどく強いられている。車内で何もせずにぼうっとしている場合でもそうである。鉄の箱の中に入って立ったり座ったりしているうちに、目的地まで連れてゆかれる。一度乗ってしまえばみずから特別の努力は不要である。たいそう便利なことである。しかし、そもそも努力したくてもできない。

電車の中でひとり力んでみても、目的駅に速く着くわけではない。車内で快適に過ごすための努力はできるが、それはZ駅に〈行く〉ための努力そのものではない。移動については、ただただ鉄道会社と運転士に任せるほかない。どれだけ念じても速く着くこともないし、車内で怠惰に過ごしていても遅く着くことはない。ダイヤが乱れることがあっても、わたしの決断や行為とは無関係である*1 そうしてとにかく車内でぼんやり過ごしている間に、目的駅まで連れてゆかれてゆく。

これは鉄道という移動手段の当然の特性であるので、そこに何か文句があるのではない。ただ、基本は連れてゆかれているだけなのに、〈行く〉という主体的動作のような表現を用いているのは奇妙である。正確に言えば、わたしはA駅で乗る際とZ駅で降りる際に最大の主体的決断を行なっている。加えて、途中のB駅、C駅、D駅…で「降りない」という消極的な決断を下している。だがこれらはいずれも移動の中の点にすぎず、大部分は動く鉄の箱の座席や手すりに身を預けている。

これが徒歩の旅であれば、一歩ずつがまさしく自分の行為である。早足になるのも、途中で立ち止まるのも自分の責任である。そこでは時間と行為と主体とが渾然としている。その渾然さを取りまとめて要約するのに「行く」ということばが無理なく用いられる。これに対して列車での移動の場合、時間と行為と主体がばらばらである。徒歩行と同様の実感で列車行を表現することばが意外と無い。だからしばしば、「通勤する」「旅行する」「出張する」などのように、目的の表現を代用にする。

 

こうして書いていると、夏目漱石の『坑夫』という小説の流れを思い出す。最初はずんずん歩いていた主人公が、途中でポン引きに呼び止められ、列車に乗って鉱山へ行く。ただ、車内でどう過ごしていたかはあまり詳しく描写されていなかった気がする。

 

 

*1:数少ない例外として、自ら車内で不祥事を起こせばダイヤを乱すことはできるかもしれない。が、そうすると鉄道会社とは別の制服を着たお兄さん達が来て別の箱に連れてゆかれることになる。