しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

本気で樹木に語りかけることは可能か

本気で樹木に語りかけるということは、可能だろうか。可能だとしたら、どんな条件がひつようだろうか。

 

(1)

普通、誰かに語りかけるとき、返事があることを期待している。したがって、人間が語りかける相手は人間である。多少の例外としてペットに語りかける場合もあるかもしれない。その場合、犬や猫相手であってもなんらかの意思疎通が成り立っているだろう、という期待がある。

 

樹木の場合、応答はまず望めない。したがって、本気で樹木に語りかけることは、なかなか難しい。

 

(2)

良い言葉を毎朝毎夕かけながら鉢植えを育てるときれいな花が咲く、という偽科学説がある。きれいな言葉を水にかけるときれいな氷の結晶ができるという説の亜流である。

 

この説は、非科学的であるばかりでなく、倫理的にも、かなり問題がある。きれいな花や結晶ができることを目的として「語りかける」というのは、邪道だからだ。「語りかける」という行為の本質から逸れている。人間が語りかけたからといって、きれいな花を咲かせる義理は植物の側には無いからである。なぜきれいな花を咲かせてほしいのか、人間が論を尽くして鉢植えを説諭し、その結果として植物の方が納得する、というのなら、OKである。これに対して、きれいな言葉をかければきれいな花や結晶が自動的に生じるという考え方は横暴である。疑似科学の考え方で、倫理ではない。愛の言葉を妻に毎晩囁くのは家事を滞り無く実施してほしいから、という態度に似ている。

 

したがって、このタイプの「声掛け」は、「語りかける」には含めることができない。

 

(3)

とはいえ、星空や水平線や、神の像や、お墓を相手に、思わず何かをつぶやいてしまう、ということは、稀によくある。古代人は多くそのようにしただろうし、現代人にもその心性がいかほどか残っているにちがいない。

 

このタイプの仕方で、樹木に思わず語りかけてしまう、ということは可能かもしれない。

 

しかしながら、この場合はやはり「発作的に」という条件が付く。何かを語りかけるととき、自分と相手がそれぞれ平静であることが前提とされているようにおもう。あるいは、激昂している相手を落ち着かせるために、静かに語りかけるということがある。いずれにしても、思わず語りかけてしまった、というパターンだけでは、樹木に長く習慣的に語り続けることはできない。

 

(4)

けれどもまた、じぶんがひどく孤独であるようなときは、そうした孤独は長く続くこともあるので、樹木に静かに語りかけることも可能かもしれない。