しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

『春と修羅』ノート(「序」)

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

この「序」は詩集『春と修羅』全体の表現の前提を示そうとしているように思える。ただしその序文そのものが詩に既に近づいている。序文が散文による規定で完了するなら、そもそも詩集本編を詩という形式で描き出す必要は無くなるだろう。他方で著者はすぐに詩の本文から詩集を開始することができない。それは、詩そのものをそれだけで読者は読むことができない、と著者が想定しているからかもしれない。そこで早くもジレンマが生じる。詩への入り口だから詩として書くことはできないけれど、散文で書くこともできない。だから詩集を読みすすめるにあたって読者に把握しておいてほしいことを、すでに詩への入り口として半ば詩として、半ば散文として書くことになる。

その序文は、著者である「わたくし」の説明から切り出される。読者と著者が求めるのはあくまで詩であって、「わたくし」の表明ではない。けれども、詩集の入り口として、詩がいかにして書かれ・読まれるかを説明するためには、書き手である「わたくし」のことを説明しなくてはならないと著者は考えている。それは、創作行為と著者の存在に切れ目が無いからだ。著者がただ人格や肉体としてドスンとそこに置かれていて、任意に詩を書いたり書かなかったりするのではない。書くことで「わたくし」が浮かび上がってくる。「わたくし」には書くことの歴史が畳み込まれている。

「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」。まず「わたくし」という主語らしきものが出てくるけれども、それはやはりなにかから切り離されて独立自足しているものではない。それは「現象」であるという。「わたくし」がまず存在して、それがときたま「日本人」や「男性」であったりするのと同様に「現象」であるのではなく、「わたくしといふ現象」がセットでひとつになっている。むしろ、「わたくし」はより広く把握されざるをえない「現象」の一形態である。しかも、わたくしがわたくしという現象なのではなくて、「わたくしといふ現象」がさらに述語を必要とする。表現が、しかも詩による表現が無ければすぐにでも立ち消えてしまう「わたくしといふ現象」。それは「ひとつの青い照明」であるという。そして「わたくしといふ現象」が「ひとつの青い照明」である、と命題のかたちで読み手に説明することでやっと、「わたくしといふ現象」が紙の上で定位置を得る。その命題が紙の上に活字として転写されているあいだのみ、それが読者に読み取られているときのみ、「わたくしといふ現象」がやっとほのかに青く浮かび上がっている。

その照明は「仮定された有機交流電燈」の照明である。照明は暗闇のなかで自ら明るくなってそれそのものと周囲を同時に照らし出す。周囲の物体や自分の手のかたちが影と共に浮かび上がる。周囲の物体や自分のからだは質量やかたちを持っているけれど、「照明」そのものはそうではない。照明はそれ自体で人魂のように光ることはできず、電燈という装置によってはじめて成立する。交流は周波数を持ち、電流の正負がずっと交代している。上流から下流への滔々とした流れではなく、いったりきたりのリズムによって成立している。いったりきたりするものは電流かと思いきや、「有機」であると言う。有機物は畑と空気、土を循環して人間や生物の体内に摂取され、排出され、不断に入れ替わっている。すこし後に登場する「宇宙塵」と同じ意味がおそらく託されている。有機交流によって、自然、大地、大気と身体が関わり合い、電燈として機能している。しかしその電燈自体が「わたくし」なのではない。著者がまず説明するのは、「わたくしといふ現象」が「ひとつの青い照明」であることであり、電燈は照明としての現象の前提ではあるけれど、本質ではない。照明の側からすれば、「電燈」は自分自身の根拠でありながら、自分によって照らされて初めて見えるようになるものであり、自分が消えてしまえばもはや電燈も認識されることがない。電燈が照明を生み出しているのではなくて、照明が照らし出しているあいだだけ、電燈はその参与者として認可されている。だから本当に電燈が照明の根拠や母体であるのか、照明には判断がつかない。理屈でいえばおそらくそうであろう、とまでしか言えない。だから「仮定された有機交流電燈」としか言えない。

「わたくしといふ現象」は、自分自身を描き、照らし出しながら、やっと「ひとつの青い照明」であることを描き出す。描き出すことと描き出されるものと描き出しているものが区別できない。とはいえ、そうして「わたくしといふ現象」は自己規定に成功する。ところがそのあとすぐ、「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という声が重ねられる。これは誰が言っているのだろうか。書いているのはたしかに著者である。しかし「わたくしといふ現象」は、みずからが「照明です」と宣言しているのだから、もし追加で自ら説明したいなら「そしてまた、わたくしといふ現象はあらゆる透明な幽霊の複合体でもあります」と述べればよい。実際、この次の行では「因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」と記述を重ねる。そのように言うのではなく「複合体」と、誰の声でもなく説明が重ね書きされる。「わたくしといふ現象」は「ひとつの」青い照明だから、別の「わたくし」はいない。だから何者かが勝手に説明を付け加える。しかも、「あらゆる透明な幽霊」の「複合体」だという。まったく「ひとつの」照明ではない。そこで、照明としてはひとつだけれど、その来歴が述べられていると考えなくてはならない。しかもそれは、たとえば著者に関連する幽霊だとか、著者の前世だとか限定されたものではなく、「あらゆる」透明な幽霊がそこに重なりあい、「複合体」を成している。透明なのでどれだけの数が集まっても透明である。なのに「青い」。だから本来、「ひとつの青い照明」であることと、「あらゆる透明な幽霊の複合体」であることは簡単に結びつかない。幽霊の複合体であると付け加えられることで、「わたくしといふ現象」や読者が説明の完結を与えられて安堵するのではない。照明が透明な幽霊を照らし出すこともない。「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という声は「青い照明」以上に根拠が無くて、だからこそはっきりと覆いかぶさってくる。