しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

比喩が無い

数カ月ぶりに福島に来ています。帰還困難区域では家屋の解体撤去のペースが早まっているようです。当たり前のように並んでいた非日常的な光景が、原発事故から10年を過ぎて、「当たり前」でなくなっています。

説明も記述も自分には困難です。それは2つの理由があります。第1には、言葉の選択がとてもむずかしい。「東日本大震災」「原発事故」「原発災害」、おおまかには意味の違いの無い語彙ですが、微妙にニュアンスが異なります。「(長期)避難」という単語も同様です。避難、立ち退き、帰還困難……いろいろなキーワードがあり、それぞれ微妙な重なり合いやズレがあり、歴史的背景や文脈があります。語の組み合わせ方により、ひとを傷つけたり、こいつわかってないなと思われたりするだろうという予感があります。そうした「遠慮」が過剰になると、「話題に出しちゃいけないことだ」といった雰囲気の醸成に加担するのかもしれません。深くわかっていなくても、現時点での理解の範囲で書いたり話したりするべきなのでしょう。ただ、ことばの勘所が無いという感覚が自分にはあります。書くことや表現することを変に躊躇するのはやめようとはおもうのですが、難しいと感じています。

もうひとつは、風景や地元の方のお話を、自分自身の表現にうまく包み込むことができない。住人がある日とつぜん去らざるをえなくなった家が道沿いに「ある」。そこにある。それを通り過ぎて、眼にする。そこに自分自身のことばを重ねることがなかなかできない。あれ、自分がからっぽだぞ、という感覚です。

従来、こういう場面で自分は比喩を用いてきました。目の前の状況や、それに対する自分の理解や、自分の感情や、あるいは状況に絡みこまれた誰かの存在への自分の態度などを、自分なりの比喩表現に織り入れて描く、ということをしてきました。それは意識して積極的にやってきたというより、それ以外にあまり選択肢がなかったのでした。比喩がうまくフィットすると、自分自身の腑に落ちるし、ほかのひとにも読んでもらうことができます。日常生活ではできるだけ自分の比喩のタンク(これも比喩ですが…)の貯蔵を増やすことをこころがけています。

しかし福島ではこれがまったくできない。あれ、おかしいなぁ、おかしいなぁ、と感じながら、ただただ風景のなかで自分が通り過ぎてゆきます。なぜ比喩ができないのか、なかなかわかりません。比喩ができないことを比喩的に捉えるのも難しい。ただ少なくとも、自分がこれまであまりに比喩に頼りすぎていたということだけはわかります。それでは無理なのです。べつの聞き方、べつのことばの現れ方を探さなくてはなりません。別の「タンク」に、どうにかして何かを貯めなければなりません。それもどうすればよいのか、迷っています。五感を信ずるほかないでしょうか。

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