しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

目的なき受光

 眼を最初に手に入れた生物はイソギンチャクの仲間であるらしい。ただし眼と言っても哺乳類のそれのような、眼球が動きピントを合わせる超高機能なものではなく、きわめて単純な光センサーにすぎなかった。可視光線を当てられると反応して周囲の細胞に信号を送るセンサー細胞が、ただ一個か数個、イソギンチャクの頂端部にできた。しかしそれは進化史においては重大な変化だった。光センサーを備えたイソギンチャクの上を生物が通ると、影がその下にできる。その光の有無の変化を読み取って、イソギンチャクは触手を引っ込める。すると上を泳ぐ捕食者から身を守ることができる。このような活用方法であれば、単純なセンサーでも十分に生存の役に立つ。こうして光センサー細胞は進化の過程に本格的に組み込まれるようになった。

 ところで自分が気になるのは、こうした光の変化と触手の筋肉とを連動させる仕組みを手に入れるさらに以前、イソギンチャクはどう世界を見ていたのか、ということである。

 イソギンチャクが、触手を引っ込めたり出したりする機能を既に持っていたとする。そしてまた、突然変異によって偶然に光センサー細胞を手に入れた。その二つのコンポーネントが連動するようになるまでには、さらに長い突然変異と淘汰の過程が必要だったはずである。とすると、その連動が成立する以前の世代のイソギンチャクはどうすごしていたのか。光の有無はセンサーで受け取るけれども、それだけである。どれだけ光があっても無くても、何も変わらない。けれども原始的な眼は世界に開かれ続けており、世界を開き続けている。いやあるいはどれだけセンサーの機能が優れていても、なんらかの目的に連動していなければ無意味かもしれない。目的が無ければセンサーだけがあっても知覚は存在しないと言うべきだろうか。どうだろう。

 ただ見ているだけのイソギンチャクの存在を想像してみると、案外たのしい。何にも繋がらない、行動も生存も招来しない。けれども光を感じ続けている。無意味と言わなくても良い気がする。