しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

樹木に「いま」はあるか

キャンパスの落葉樹の枝があらかた裸になって、尖った枝先を見るともう小さな芽が付いている。このまま春までじっと待機していて、そのときが来たら一斉に芽吹く。堅く詰められた火薬みたいだなと思う。その姿勢のまま春の発芽のときを今か今かと待っているように思える。野茂が腰をぎゅううとひねってエネルギーを溜め込んでるのを思い出す。


「今か今かと待っている」と勝手に書いたけれど、樹木に「いま」はあるのだろうか。


比較のために、人間にとって「いま」とは何であるかをいくつか考えてみる。

まず丁々発止の「いま」がある。相手の出方に即座に応じて体や眼が反応してしまう「いま」。

人間を含めた動物はだいたいこの「いま」が得意である。一方、樹木はもっとゆっくりしら時間を生きているように思える。石が飛んで来たからといって、木が幹をとっさによじって避けるということはない。

けれど近年の研究で明らかにされたところによると、葉が害虫に食べられているときなどに樹木は非常に複雑な化学物質を出して周囲の樹木に知らせているそうだ。この物質はかなり即座に出るのだろう。人間の眼にはみえないけれど、樹木も周辺環境に鋭敏に応答していて、樹木なりの「丁々発止」を持っておるのかもしれない。


過去や未来と連関した「いま」もある。昔はこうだったが今はこうだ、と言うときの「いま」である。樹木が昔のことを思い起こすことは無いかもしれない。犬にも難しいだろう。犬は以前の物事の記憶を持つことができるけれど、「過去と今」というパースペクティブは持たないだろう。

樹木の場合、幹や枝の姿そのものが過去の歴史を表している。「顔は男の履歴書」と俗に言うが、枝ぶりは樹木の履歴書である。木にとって過去とはいまの枝のすがたであり、過去は想起するものでなく現在進行形で葉を支える「すがた」である。今と過去が同じである。人間のような、過去と未来から余剰の意識として切りだされた「いま」ではない。


待っていて到来する「いま」もある。「…いまだ!」の「いま」である。樹木が芽吹くときも、ぎりぎりまで待っていて、ついに「いま」の瞬間が来る。この「いま」は人間も樹木もある程度共通しているかもしれない。


人間の「いま」はさまざまな幅を持つ。極限まで切り詰められた瞬間としての「いま」がある。エースコンバット04の「ストーンヘンジ……着弾、いま!」の「いま」である。一方、どことなく間延びした「いま」がある。「いまひまー? ちょっといい?」「うん、いまならいいよー」の「いま」は、客観的な時間としては10分とか30分とかを指すだろう。

樹木はこのいずれを持つだろうか。両方を持つかもしれないけれど、樹木自身はそれを「いま」ということばで表現することはなさそうだ。