しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

身と身体

 身体の現象学、という哲学のテーマがある。

 「真理」や「存在」や「永遠」といった抽象的な概念について考えるのが哲学だと思われがちだけれど、もっと身近で、しかも身近であることがわかっていない出来事、つまりこの「身体」がわたしたちにとってどう現れているのかを分析しようというテーマである(はず)。

 

 「身体」は生きている者は誰もが「持っている」ものであって、当たり前に当たり前すぎる何かであるけれど、それだけにこれを掴むのは簡単ではない。だから、「身体の現象学」をやり遂げるようなひとはとてもセンスがあるというイメージがなんとなくあって、少なくとも自分にはさっぱりわからない。

 

 ただ思うのは、「身体の現象学」はあっても、「身(み)」については意外と論じられることが少ないなぁ、ということである。「身につまされる」「身から出たサビ」と言うときの「身」である。

 日本語話者にとって「身」はあまりに自明なイメージであるけれど、これを説明することはなかなか難しい。「身体」と「身」を比較すると、身体の方がいくぶん客観的、物理的というか、どことなくよそよそしいかんじがする。身体はいまだ一般的、普遍的なのに対して、身はさらに一人称のパースペクティブにへばりついている。

 身は身体よりもさらに身近(みぢか)なのだ。

 

 「身の現象学」「身の哲学」をやればいいのに、とおもう。

 身とは何か。身は身体だけれど、さらに心にも深く混ぜ込まれ合った存在でもある。「身につまされる」「身にしみる」「身をまもる」と言うときの「身」は、ただ皮膚と血と内臓と骨と脳から成る身体よりもさらに大切でどうしようもないものである。

 「身に覚えが無い」は「記憶にない」とも翻訳しうるけれど、何かもっとその人の人生そのものに結びついた表明でもある。これを「身体的記憶」などと呼称してしまうと、元の意味が全く失われてしまう。「身の毛もよだつ」はオットーのヌミノーゼにどこかつながっていて、これを「身体」と「精神」から説明しようとするとかえって面倒である。

 

 「身を滅ぼす」「身を挺する」という、やや形式的な表現もある。この場合の「身」は目に見える身体よりもむしろ、「身分」の意味合いが強い。「身の程を知る」は身長を測定することでなく、自身の立場や能力の自覚を得ることである。「身を立てる」とは自分で仕事をして人生を切り開いてゆくことであるけれど、「身を入れる」「身を粉にする」というように、そのまま実際に労働して疲れ果てる「身」でもある。

 

 「身をもって知る」は社会的身分と物理的身体の両方にまたがった「身」であるかもしれない。しかし、「〈身〉とは社会的存在と物理的存在を合わせた概念である」という説明をするなら、それはむしろ逆なのだとおもう。まず通り過ぎているのは「身」で、それを把握するために「身体」や「社会」といった概念を後から貼り合わせて探っているのではないか。

 

 「身」はまたおそらく「実」でもあって、ずっしりみっちりと中身があるもの、放置していると腐るもの、力の発現の起点や対象となるものである。

 

 なんかこーゆーことを、たまに考えたりする。