しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

災害を待つ

生まれて初めて、災害を待っている。

人と防災未来センター」という不思議な名前の研究所に勤めはじめた。

ふだんは研究をしている。しかし大地震津波、またその他水害などが起きると現地支援にゆく。日本中どこでも、基準を超える震度であれば、緊急参集ということになる。

そういうわけで、災害を待っている。災害が来なければいいなとおもっているけれど、来るものは来るのでしょうがない。地震津波・噴火・大火はまだランダム感が強いが、豪雨はもう確実に起こるとおもうほかない。あと雪害と高潮もこわいです。

 

だが、さて、どうやって待ったものか。これがなかなかむずかしいということに気づいた。

「待つ」というのは不思議なことばで、自分ではどうにもならないから消極的に待つしかないのだけれど、来たるべきものに意識を向けているという点では積極的な行為でもある。しかし意識を向ける以上のことはさしあたりできないので(地面を睨んでいても活断層が動くわけではない)、消極的に積極的に待つというのが「待つ」ということらしい。

 

入職して最初の週は異様にビクビクしていた。先輩研究員たちは場数を踏んだ古参兵の趣があるが、こちらは新兵である。4月2日の辞令交付式の途中に南海トラフ巨大地震が発生する蓋然性だってあるじゃないか、とさえ考えた。

それはそれで間違ってはいないのだけれど、いつ起きるかわからないものを「今この瞬間か、今日の夕方か、今晩か」とピリピリしていてもあまり意味はない。ということに2週めの月曜朝に気づいた。いたずらに意識を集中させていても体力を消耗するだけだから、力を抜いて待ち構えるほかない。できる限りの準備をして、勉強をして、体調をきちんと整えて、あとは普段のしごとをする。それを自分なりの最初の前提にした。

 

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そのようにして災害を「待つ」日々をのんびり過ごしている。が、ジャン=ピエール・デュピュイの『聖なるものの刻印』を読むと、もうすこし違う考え方ができるのかもしれないと気づいた。

『ツナミの小形而上学』『聖なるものの刻印』『ありえないことが現実になるとき』などデュピュイの著作は、丁寧な邦訳書が出て東日本大震災後に日本で広く読まれるようになった。(←まるで邦訳が出る前から知っていたかのような口ぶりですが、普通に邦訳書のおかげで知りました)

個人的な考えとしては、デュピュイの本を日本人が読むのはいろいろな点で簡単ではないとおもう。何重にも手続きがいる。そこに書かれていることをそのまま日本の文脈に移し替えて読むこと自体が、ひとつのカタストロフであるかもしれない。たとえば「文明」という概念ひとつとっても、日本人の腹には消化が悪い。

 

とはいえ、本そのものは独特のうねりがあって面白い。『聖なるものの刻印』の序盤で、デュピュイは「目を覚ましていなさい」という福音書の表現を引用して自分の立場を示している。

本が手元にないので不正確な紹介になってしまうのだが、要するに文明の根っこにさかのぼって「破局」について考えるためには、時間の捉え方を切り替えなければいけないということを言っているらしい。最後の審判の日、救済の瞬間を、今か今かと期待して待ち構えるのは、救済を自分と歴史の外縁部に置くような捉え方である。救済はそういう平凡な時間の流れのなかで娯楽のように待ち構えられるものではなくて、たぶん、ある意味では既に起きている。かといって数日前や数年前といった意味での「過去」ではなくて、人間だからまだ来ていないものとして待つしかないのだけれど、すでに自分がそれに包まれているような「すでに」として在る。その仕組みのなかで生きているということ自体に眼を開いていなさい、という。

大雑把な言い方では叱られてしまうけれど、論理構造としては親鸞の「地獄は一定すみかぞかし」に近い部分があるかもしれない。

 

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災害を待つことも、デュピュイが引く「目を覚ましていなさい」にちょっと似ている。

災害はある意味では既に起きている。たとえば豪雨で土砂崩れが起きてひとが亡くなるのは、都市化が進み、以前は住宅地として選ばれていなかった山あいの斜面ぎりぎりまで宅地を造成して家を立てるという環境利用が基本的な原因である。全ての種類の災害について同様のことが言えるとは限らないけれど、基本的に、人間が生活環境を高密度化すればするほど災害のダメージは増大する。

すると、災害を待つ(予測する、備える、不安がる)とき、わたしはしばしば自然現象としての大量降雨や地震動に焦点を当てて、その近い将来の発生に意識を向けるけれども、それはあくまで最後の引き金であって、広く捉えればこの生活環境自体が災害である。こうしたライフスタイルを保持している時点で、すでに災害は9割がた発生しおわっていて、完遂しかかっている。

だから災害を待つことは、すでに起きている災害の発生を待つことである。奇妙な表現になるけれど、そういう仕組みに自分をはめ込んでおいて、それでもなんとかなると思い込んでしまうところに私たちの文明の悲しさがあるということをデュピュイが書いてたような気がする。(劇場版パトレイバー2で「始まってますよ、とっくに」と県警本部長に言い放つ後藤隊長は、ちょっとデュピュイに似ている。)

 

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ところが自然災害を待つことの奇妙さ(難しさ?)は、現実にひとが死ぬということにある。デュピュイは基本的にいちばん大掛かりな「文明」を論の焦点に据えていて、気候変動や核抑止といった題材が選ばれている。

一方で、たとえば豪雨災害では5人、10人、100人といった「桁」でひとが亡くなる。ひとりひとりの死がある。今年、梅雨から初秋にかけて、台風・豪雨でひとが一人も死なないということは、まずない。だれかが死ぬ。そのひとは、いまは生きている。もちろん運命が確定しているわけではない。豪雨で死ぬだれかが本当にいまあらかじめ指定されているわけではない。とはいえ、いま生きているだれかが亡くなるということ、亡くなるのはいま生きているだれかであることは、どうしようもない事実だ。

災害は9割がた既に完遂されていると上に書いたけれど、この生と死の落差は「9割」というファジーな表現では捉えられない。それはゼロかイチかである。生は死を含みこんでいるけれど、だからといってひとは従容と災害死にみちびかれてゆくわけではない。逃げようとする。生きようとする。

 

わたしはそれを「待って」いる。

葬儀屋の営業マンが老人ホームや病院の入り口で名刺を配っていたら非難されるだろう。わたしが災害を「待つ」ことは、それとどう違うのだろう。

 

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すでに起きている災害を待つということは、ただ眼前の状況に「眼を覚ましている」だけではダメで、死と生、偶然性と必然性、論理と狡猾さがもつれてゆくところに身を置いてゆくことでもあるのかもしれない。

 

(追記: 話がどんどん脇道にそれてしまうけれど、劇場版パト2は本当に「待つ」シーンが多い作品だなとおもう。PKOの装甲車の車内で柘植が敵の接近を待つ。後藤さんがのんびり釣りをして何かを待っている。南雲さんが車内で渋滞の解消を待っている。柘植との密会の帰りに船を待たせている。駐屯地前でレイバーを寝かせたまま待機する。後藤さんが南雲さんに「おれ、待ってるからさ」と言う。第2小隊のメンバーが地下道で後藤隊長の到着を待っている。柘植が南雲さんを待っている。)