しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

意識と快苦

欲しいものが手に入らなかったり、愛するひとと別れなければならなかったり、憎いやつに会わなければならないとき、苦痛の感情を覚える。もっと単純に、暑かったりひもじかったり、ケガや病気で痛みを覚えるとき、苦痛の感情を覚える。

反対に、身体の欲を満たしたときや、名誉や金銭を得たときや、ライバルに勝ったとき、なんとも言えぬ快の感情を覚える。


こうした感情は意識の外部から意識へともたらされる。ここでの「外部」とは、たとえば腹痛のときのお腹とか、眼前の美しい絵画などである。意識それ自体が意識において快や苦を生産することも無いではない。しかし一般には快苦は意識の外部から意識に与えられる。意識はときにみずから捕まえ、ときに受け取る。意識が快や苦の源泉を支配できるなら、意識は快しか受け取らないだろう。しかし意識は外部を全て支配できるわけではないので、むしろほとんどのものを支配できないので、苦痛を受け取らざるをえない。


ところで、意識がこのように快苦を受け取るのは当然のことのように思われており、実際に私たちはそのようにしか生きることができないのだけれど、そのように意識が快や苦を受け取るべき必然的な理由というものは存在するだろうか。


一般に、意識が快や苦を感じ取るのは、快を増し、苦を避けるよう意識が主体を動かすためであると理解されている。言い換えれば、意識が快いものと嫌なものを覚えていて、それらを次の機会に増減するために機能している、と。たとえばストーブに触れて火傷したひとは、その苦痛を意識が受け取ったので、次から同じ苦痛を得ることのないよう行動するだろう。これが意識が快や苦を受け取ることのもっともな理由である。


けれども、快を増し苦を減らすというはたらきにおいて、意識がそれらを受け取ることは絶対に必要なのだろうか。

たとえば昆虫や植物も自身の生存のために役立つものを増やし危険なものを避けようとする。かれらはそれらを快や苦として知覚することはない。意識をもたない。しかし適するものと不適なものを認識し、回避や捕獲などの行動に入ることができる。

人間の場合であっても、身の回りの全ての出来事が意識に上るわけではない。たとえば生存をおびやかす雑菌が皮膚や粘膜に付着しても、その一粒ずつの接触に対して痛みや不快感を覚えることはない。ほとんどの場合は身体が、免疫系が自動でやってくれる(はたらく細胞たちは苦労を感じているかもしれないが…)。菌やウイルスが増殖し「風邪」になった時点で、意識は初めて苦痛を実感する。


つまり、必要なのは良いものと危険なものの認識とそれに対応した行動であって、意識がその反応の弧に介入することは絶対に必要であるのか。仮に必要であるとして、快と苦という仕方で関わることが絶対に必要であるのか。


例えて言えば、意識とは官房長官のようなものかもしれない。主体においてはさまざまな臓器や心理や制度や習慣や細胞がそれぞれの任務を果たしている。かれらは人間の主体という行政機構の各省庁である。意識はその省庁から適宜報告を受ける。報告内容はきわめて多種にわたるが、官房長官がとくに重視するのは快と苦についての報告である。かれはこれを受け取って、快についてはこれを味わい、苦についてはこれを苦しみ、一刻も早く減じようとする。

この官房長官は原初から自分は主体の行動と知覚を差配していたようにぼんやり感じており、自分自身まさしくそうに違いないと確信している。しかし実は進化の過程において、かれのポストはごく最近設置されたものである。官房長官の職務を改めて設定するさい、かれは実はみずからこの快と苦の受信という仕事を請け負ったのである。

他の旧来の省庁の官僚たちから見ると、官房長官職はきわめて不可解な存在である。制度に従って報告を上げると、いちいちニヤニヤしたり、助けてくれえとのたうち回ったりしている。そのうえ自分でそれをコントロールできるわけでもなく、ただ命令を適当にするだけである。

それだけではない。この意識という官房長官は、主体の真の危機においてはあっさり官房から抜け出して眠りこんでしまったり(気絶)、解離したりする。ほんとうに役立つべきときには職務放棄をするのだ。また、他人に手術をしてもらうときには痛すぎるのはイヤだからと言って麻酔をかけてもらおうとする。


控えめに言っても、かなり無能な働きではなかろうか?かれから快と苦の知覚という任務を剥奪すべきではなかろうか。

だが実際はそうではない。それはなぜなのだろうか。