しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

【提言】小学校低学年における〈うんこ教育〉の必要性

 なぜ、小学生は、とくに男児は、小学校のトイレで「うんこ」をすることをあれほどまで忌避するのだろうか。あれはなんだったのだ。

 小学生のとき、校内でうんこをするというのは、きわめて勇気のいることだった。誰にも見つかってはならなかった。わたし自身、2,3回くらいしかした記憶がない。

 

 校内うんこを避ける理由はとくにない。小学生は実はうんこ大好きなのに、じぶんが校内で実際にうんこをすることには、きわめて敏感なのである。

 

 男子の場合、うんこ=トイレの個室であるから、うんこバレしやすい。そしてうんこしたのがバレると、他の男子がとたんにウェーウェー言うのである。

 

「○○、学校でうんこしとー!」「うんこマンや!」「男子やのにうんこしとー!」「女子やー!」

 

 なんなんだ、おまえたちは。家のトイレで出そうが、学校のトイレで出そうが、うんこはうんこだろうが。というか、どっちみち家でうんこするだろ。

 重ねて言うが、校内うんこ忌避にそれ自体の理由は無い。もちろん、もし自分が校内でうんこするのがイヤなら、しなければいい。しかしこのうんこ忌避は、もっぱら他人のうんこ行為を指弾するのである。相互牽制、相互監視であり、社会的うんこ抑圧なのである。

 

 この無意味な抑圧によって、男児たちは大多数のうんこ忌避者と、少数の隠れうんこ遂行者に分かたれる。うんこ忌避は実際身体に悪いし、隠れうんこ遂行も心理的にきわめて負担が大きい。

 そして、うんこ抑圧システムは、さらに少数の、真なる犠牲者を最後に生む。

 

「○○、うんこ漏らしとーー!!」

 

 これは生涯消えぬ汚点であろう。この瞬間、教室内でうんこを漏らしたX君は完全にヒエラルキーの最下層に転落する。(宮沢賢治の『猫の事務所』では最後にライオンが「この事務所は今日かぎりで閉鎖!」と叫ぶが、わたしは今からでも小学3年生のときの教室に戻って、A君がうんこを漏らす直前に、「この教室は今日かぎりで解散!」と宣言してあげたい)

 

 うんこ抑圧システムの特徴は、そこに組み込まれた男児全員において、得をする者がまったく存在しないことである。おそらく校内における男児アイデンティティの確立=女児との差別化のわかりやすい指標として、トイレ個室(=女児)の使用忌避が求められ、さらにこの社会的抑圧が肛門における制御という生理的精神的抑圧と容易にリンクするのだろう。いいからうんこしろ、うんこ。

 

 だからわたしは提言するのだが、小学校の教員、とくに1,2年生の教員におかれては、本気で「うんこ教育」を児童、とくに男児に実施してほしい。

 方法自体は簡単で、とにかく入学初日から、校内でうんこに行くことを奨励するのである。うんこはいいことだ、うんこは大切だ、うんこ・イズ・神聖、他人のうんこにとやかく言うな、先生もきのう学校でうんこしたぞ、云々。

 この教育によって、勇気ある児童が「うんこ行ってきた!」などと言い始めたなら、しめたものである。その場合は諸手を挙げて賞賛してほしいのである。「ユー・アー・グレート」「ユー・アー・プレシャス・ウンカー」「ウイ・アー・プラウド・オブ・ユア・ウンコ」と。「we are the children, we are going to Unko」と唱和しても良い。

 

 トランス・セクシャルのトイレをどうするかという問題についても、この時期のジェンダーアイデンティティ形成と生理的うんこ抑圧の結びつきという記憶を解除しておかなければ、うまくいかないのではないか、とおもう。考えすぎか。

 

 とにかく、以上によってうんこ教育の必要性をわたしは訴える。そして小学生よ、臆せずうんこ行け。