しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

『トトロ』のお父さんのすごいところ

 『となりのトトロ』に登場する大人たちの中で、サツキとめいのお父さんはひときわ大切な役割を担っている。このひとは、すごい。

 いちばんすごいのは物語終盤の「案外そうかもしれないよ」と笑って、窓際のとうもろこしを手にする場面。

 お母さんの病院にお父さんがひとりで訪れている。二人は談笑している。お母さんが突然、いまサツキとめいがいたような、と言う。二人は、めいの失踪とサツキの冒険を知らない。両親の視界では、娘たちは家でお留守番をしているはずである。ところがお母さんは「いたような」と言い、お父さんはそれを否定しない。それどころか、姉妹がそこに来た「物証」としてとうもろこしを見つける。とうもろこしには「おかあさんへ」という字が刻まれている。

 

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 これが(映画ではく)現実世界の親なら、「え、本当に来てるの?!」と慌ててその場で子どもたちを捜索することになるだろう。なにせとうもろこしがあるのだから。けれども二人はそうではない。「案外そうかもしれないよ」で済ませる。「来たけど来ていない」という一見矛盾した状態を受け入れている。お母さんもお父さんも、トトロを目の当たりに見たわけではないし、あくまで子どもたちの持ってきた話であると思っている。けれどももっとも肝心なところで否定しない。

 そしてお父さんが帰宅すると、村では何やら大騒ぎが起こっていた様子である。めいがまたお世話になりまして、と村の人達に頭を下げる。お父さんは、めいとサツキがネコバスに乗ったとは思いもよらない。ただめいが迷子になってたんだなと理解する。おそらく二人の足取りを精細に確認せずに済ませただろう。かれが考古学研究室に所属していることを思い起こす必要がある。かれは「痕跡」を探し、確定させるプロである。だから、やろうと思えば娘たちの足取りを分析し尽くすこともできた。そういう態度にスイッチできた。けれど、やらない。やらないのは、それがトトロの世界を守ることだと理解しているからだ。

 

 『となりのトトロ』でお父さんが担っている役割を検討してみよう。結論を先に言うと、お父さんは人間の側の世界の軸を支えている。トトロとネコバスはその反対の側の、いわばファンタジーの世界の軸である。サツキとめいはその2つの世界を行き来する。ここで重要なのは、人間世界の軸であるお父さんが、トトロ世界の存在を否定するのではなく、むしろ肯定して、それを支えつつ、人間の側にとどまっているということだ。

 お父さんが登場するいくつかの場面を抜き出して考えてみる。引っ越し作業中、さつきが「お父さん、この家やっぱり何かいる!」と言う。「それはいいぞ、お化け屋敷に住むのがお父さんの子どものころからの夢だったんだ」と返す。お父さん、実は軍隊に行かずビンタを経験せずに済んだ水木しげるみたいな人でもある。

 しかしお父さんは「おばけ」の世界に侵入してゆかない。三人がお風呂に入っているとき、突然しんとなる。なにかが近づいているな、という実感がある。ところがお父さんは突然「わっはっは」と笑いだし、おばけが近づいているかんじを吹き飛ばしてしまう。ここでかれは家が人間の場所であることを大声で主張している。それにより「まっくろくろすけ」が家から森へ移転する。

 お父さんはトトロ世界との境界線をわきまえている。めいが目覚めて「本当にいたんだもん」とすねはじめると、「嘘だなんて思っていないよ」とやさしく応じる。これはめいにその場かぎりで調子をあわせているのではない。めいが本当にそのような出会いに開かれていることを確認している。けれどもお父さん自身はめいの世界に入ってゆかない。その後、村の社の大樹に対して柏手を打つ。「めいがお世話になりました!」と礼をする。森の世界、ファンタジーの世界の存在を確認し、尊重するけれど、境界線ぎりぎりでとどまり、引き返す。

 

 お父さんはこうした態度を通じて、サツキとめいが帰るべき人間の世界を守りつつ、姉妹が訪れるもうひとつの世界へのドアを開いておく。このお父さんの態度と、トトロの受け入れの態度によって、初めてサツキとめいの冒険が成立する。だから、トトロとお父さんには直接の接点はないけれど、両者は協調体制にある。どこか奥底でつながりを保っている。病室の窓で見つけたとうもろこしは、そのつながりの確認でもある。とうもろこしは、トトロ世界からお父さんへの外交親書みたいなものだ。お父さんはその受け取り方をわきまえている。「案外そうかもしれないよ」である。子どもたちとネコバスがそこに実在したという痕跡を探さないし、かといって幽玄の世界の存在に浸り切るのでもない。めいが迷子になってたんだな、村のひとたちのお世話になったんだな、と受け取って済ませてしまう。それでいて、「お世話になる」の相手の中に、人間以外の存在も案外ふくまれちゃってもいいじゃないか、という余裕がある。

 お父さんが人間世界の側にあくまでとどまるのは、入院中のお母さんの存在が大きいだろう。人間世界の論理は、死の論理である。サツキとめいにとって、お母さんは「死んじゃうかもしれない」ひとである。作中では明確に語られないけれど、お父さんとお母さんは、お母さんの病状を正確に理解している。それがどれだけ死に近いのか、遠いのか、明確に受け止めている。けれどサツキとめいはそのように整理することができない。お母さんから遠く離れていること自体が、つねにぞわぞわとした不安を及ぼしている。「じゃあお母さん死んじゃってもいいのね」「いやだぁ」という、解決できない袋小路に追い込まれる。トトロたちはそのための逃げ場を提供する。サツキとめいは、母親の死の可能性という人間世界の現実に触れるには幼すぎる。それではだめだ、子どもたちは守られなければならない、という態度が物語の書き手に頑としてあるのだろう。これは高畑勲の『火垂るの墓』で、母の死に接した兄妹の逃げ場が栄養失調の防空壕しかなかったという世界観・人間観とは正反対だ。

 

 『トトロ』のお父さんの役割は、人間世界を守りつつ、主人公であるサツキとめいが隣の世界に遊びに行くためのドアを開けておいてあげること、なのだとおもう。それは人間の世界とおばけの世界の両方を理解しながら前者にとどまるという、とてもむずかしい仕事である。それができるから、トトロのお父さんはエライ。

 これができないのが『指輪物語』のガンダルフだ。ガンダルフというか、指輪物語には人間の世界とおばけの世界の境界線が無い。世界全体が子どもの世界だ。ガンダルフは作中で主人公フロドたちの師として振る舞うが、実際は子どもの世界から子どもの世界への移動においてガキ大将をしているにすぎない。(お父さんはあくまでトールキンなのだろう)

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 もう少し視野を広げてみると、『トトロ』のお父さんのように、人間世界と「隣の世界」を行き来する主人公を手助けする(見守る)登場人物が宮崎駿作品には何人か登場している。『魔女の宅急便』では画家の友人がこれにあたる。『千と千尋の神隠し』では、湯婆婆の姉の銭婆がその役を担当する。『紅の豚』では、隣の世界に入り込むのはフィオで、主人公のポルコがそれをサポートするという変則的な図式になっている。『もののけ姫』は複雑で、人間世界と隣の世界の境界線が非常に入り組んでいる。エボシ様、ジコ坊、モロがそれぞれの仕方で両世界を行き来しており、アシタカはそれに翻弄されながら人間世界への帰還を試みる。

 単純化すべきではないのだけれど、いずれも、主人公の2つの世界の往還に直接同行はせず、見守り、助言を与え、2つの世界の接点を守りながら物語を複層化してゆくというところにかれら大人の重要な役割がある。

 

 さてここで問題になるのが『ナウシカ』の場合だ。

 ナウシカ自身は人間の世界と腐海とを往復する。けれども、彼女にはそれを見守る師がいなかったのではないかとおもう。つまりサツキとめいのお父さん役のようなひとがついに現れなかったのではないか。ユパ様、チクク、マニ族の上人様、森の人セルムが部分的にその役割を担っているが、いずれも不完全だ。彼女がもっとも見守り役を必要としたのは、王蟲と粘菌の大海嘯に巻き込まれていたときだろう。けれどこのとき上記の男たちはおらず、結果としてナウシカは「森と人の中間にいるお方」になってしまう。いわば往還のなかでシンクロ率400%に入ってしまった。

 ここらへん、『ナウシカ』は他の宮崎駿作品に比べて極めて異質である。たとえば母の死にしても、ナウシカの母の死の扱いと、サツキとめいのお母さんの死の可能性の扱いはかなり様相を異にする。

 書き始めるとキリが無いので終わりにするけれど、『ナウシカ』はやはり異質な作品だとおもう。

 

 

 

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