宮崎駿の『雑想ノート』を小学5年生ぐらいのとき自分で買って読んだ。その巻末に宮崎へのインタビューが掲載されている。そのなかで、「『安松丸物語』を描いていたとき、どことなく薄ら寒かった」といったことを宮崎が述べている(記憶をもとに引いているので正確な表現ではない)。「安松丸物語」は、太平洋戦争中に日本海軍が急造した特設空母(オンボロ貨物船に飛行甲板を張っただけの、ナンチャッテ空母)がインド洋で通商破壊をするという架空の物語である。数機の旧式雷撃機を載せただけの特設空母がインド洋をうろうろして、クライマックスで英海軍の空母に魚雷を当てるという筋である。
宮崎自身が批判的に見ているように、短編を集めた『雑想ノート』全体のなかで「安松丸物語」はやや異質である。『雑想ノート』収録作品は「オンボロ」「貧乏」「ドタバタ」「ワチャワチャ」「無理やり」な(半分架空・半分本物の)兵器運用を描くものが多い。「安松丸物語」も一応そうしたトーンを持っているのだけれど、ストーリーとしては日本のオンボロ特設空母と非エリートの船乗りが英海軍の正規空母に「一矢報いる」というところでまとまっている。バンザーイ、で終わる物語である。同じ大戦中の日本海軍(に徴用された漁船)を題材にした収録作品である「最貧前線」では、「やられた3人も死んだよ」「むごい話だのォ…」という会話を徴用された漁船の船長同士がやりとりするシーンがある。こうした、船底や泥沼に両足を付けたような、一兵卒や一市民の体感を描くようなニュアンスが「安松丸物語」にはない。
「最貧前線」も最終盤では漁船が米軍のB-24に「一矢報いる」のだが、物語はボロボロになった漁船が母港へ向かうところでラストを迎える。この「帰還」「帰国」シーンは『雑想ノート』の他作品でも見られ、「泥だらけの虎」のほか「Qシップ」にもそういたコマがある。後年では「ハンスの帰還」が東部戦線からの生還そのものをテーマとしているし、『ノート』以外に目を広げれば『未来少年コナン』『ラピュタ』『コミック版ナウシカ』あたりもそうだろう。とりわけ戦争をテーマとした物語で「帰還」を描くことは、国家の大義を脱ぎ捨てたひとびとの再出発の希望を提示すると同時に、そのように帰還できなかった死者の存在を暗示する。国家や時代から距離を置いて一人の人間がただ生き延びることができるという確信と戦災死者への悼みが二重化することが宮崎駿の戦争物語の基本的なテーマであるとおもう。すこし脱線しかかったが、「安松丸物語」にはその二重化がなく、「魚雷命中!バンザイ!」で物語が閉じられてしまう。
5年生ごろのわたしが印象深かったことは、あの宮崎駿が自身の創作体験を「薄ら寒かった」と批判的に見ていることだった。描いている自己と、それを批判している自己が、一人の創作者のなかに同居しているということが驚きだった。また、薄ら寒いと感じつつも描き終えてしまうことも不思議だった。批判している自己が、描いている自己(おそらくは万歳三唱で終わる物語の高揚に自己陶酔してしまう自己)をつねにセーブできるわけではない、ということだ。この2つの自己はずっと綱引きを続けており、いずれが勝っても良い作品にはならないのだろう。ずっと後に、NHKのドキュメンタリーのなかで、息子の『ゲド戦記』試写会を途中で退席した宮崎が「気持ちで作品を描いちゃいけない」と吐き捨てるように言っていたことがあった。描く自己と、それを冷静に見る自己のバランスが崩れている、ということだったのだろう。