しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

『力の指輪』雑感

  • ゲーム・オブ・スローンズは面白かったんだな、と改めて感じた。
  • 本『力の指輪』とGoTは、『西遊記』と『鎌倉殿の13人』ぐらい違う作品のはずなのだけれど、なぜかGoTを思い出してしまう。寄せているんだろうなという感覚を持つ。言い換えれば本作は「指輪物語」世界の魅力で勝負できていない。

 

  • 魅力的な悪役がいない。『ウォーキング・デッド』にはニーガンが、『スターウォーズ』にはダース・ベイダーが、GoTにはタイウィン・ラニスターやベイリッシュ公やラムジー・ボルトンが、『バットマン』にはジョーカーがいる。『The BOYS』はアニーとメイヴとキミコ以外ほぼ全員が悪役のようなものだが、なかでもやはりホームランダーの悪役ぶりは圧巻である。そして映画『指輪物語』はサウロンは悪役としての魅力はほぼ無いが、代わりに「指輪」そのものの不気味さはきちんと描かれていた。
  • 翻って本作にはこれといった優れた悪役がいない。

 

  • 俳優の人種多様化については、アロンディルはあまり違和感が無い。一方、ハーフットの長が黒人のおっちゃんであるのはどうしてもしっくりこない。
  • というのも、肌の色や顔つきがさまざまであることの、物語世界における理由がよくわからないからだ。
  • エルフならばなんとなく「なんか歴史的にいろいろあるんやろうな」と考えることができる(かれらに「歴史」の観念があるのかは別として…)。トールキンの著作にそういった記述があるか否かは別として、分厚い物語世界の設定のなかに「肌の黒い精悍な顔つきのエルフの一支族」が世界のどこかで生きていて…という背景が書き込まれており、その語られない背景を背負いつつアロンディルが紆余曲折を経て物見の塔で勤務するようになったのだという想像が可能である。
  • 対して、ハーフットはずっとみんなで寄り集まって楽しく厳しく生き抜いてきましたという描写がなされている。とすると集団内では身体上の差異は小さいだろうと半ば無意識に推測してしまう。言いかえると、なぜあのハーフットの長だけが他のハーフットと違って肌の色が濃いのだろうという問いに、物語世界の側から答えが返ってくるという感覚を持てない。
  • いや、離れた地域に肌の黒いハーフットたちの集団がいて、あの長はそこから追放されるとかはぐれるとかしたのだけれど、なんだかんだいろいろあって肌の白いハーフット集団の一員となり、信望を得て長となったのかもしれない。
  • しかしハーフットってやはりそんなあちこちにたくさんいない気がするんですよね…
  • わたしたちの現実の世界では、肌の色や顔つきはそのひとの「ルーツ」と深く関係しているものだという感覚が共有されている。肌の色とルーツを同一視したり、個人とそのひとのルーツを同一視することは善くないけれども、あるひとのある身体上の特徴が、そのひとの系譜的・歴史的背景と相関するものだという理念をさしあたり維持・構築している。
  • ところが「指輪物語」世界は、種族とルーツがほぼイコールである。エルフはエルフ、ドワーフはドワーフであり、かれらの神話的起源は物語世界のなかで確定してしまっている。そこに肌の色という現実世界のルーツの徴表が重ね書きされるので、まぁ混乱はする。
  • さらに『指輪物語』『ホビットの冒険』では種族と美醜の感覚が重ね合わされていた。エルフは美しく、エルフと共闘する人間も美しく、ホビットとドワーフはもこもこぽこぽこ愛嬌があり、オークは醜い。そして正しく美しいエルフや人間族は高身長の白人俳優が演じており、醜いオーク達は正義の有志連合に毎回タコ殴りにされて最終的に種族浄化されるので、これはもうそういう世界観のものなのだといったん受け入れるほかなかった。
  • この「まぁ、そういう世界観ですわな」という前提を本気でひっくり返したり脱構築するためには『家畜人ヤプー』みたいな極端な仕掛けが必要で、俳優の人種をいろいろ混ぜ混ぜしてみましたというレベルではうまくいかないのではないか。
  • あるいは、ガラドリエルをアジア系女優が演じるとか。核心的な主要人物については「(物語世界の)種族」=「(現実世界の)人種」という前作映画の図式を維持しているところも不徹底の感を与えるのだとおもう。
  • 根本的には、良い・正しい側を美しい姿形で、悪い・恐ろしい側を醜い姿形でカテゴリ的に描くというのが、もう結局どうしようもないのだろう。