しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

個人的2016年流行語大賞「もらえる」

 「もらえる」という表現が多く使われるようになった。この一年でとても増えたのではないかと思う。世相を反映しているような気がする。

 

 ここでいう「もらえる」は、企業が消費者へ景品を配るときの広告表現である。

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 以前はこういう場合、「もらえる」ではなく「当たる」とか「進呈する」とか表現していた。「もらえる」という表現を企業の側が使うことは避けるのが当然だった。

 

 というのも、「貰う」とは、財物を持たない貧しい側が、富める側から一方的に財物を贈与される場合に使われることばだからだ。「貰う」と言うのはあくまで与えられる側、持たぬ側であり、与える側に対応するのは「めぐむ」である。

したがって「貰う」は経済的な隔絶を端的に前提とした表現であって、要するに何かを貰う者は乞食である。これが「貰う」ということばに共有された感覚だと思っていた。のだけれど、与える側が「もらえる」と自ら言って、与えられる側がそれを疑問に思わずに喜ぶという、奇妙な状況が出現している。

 

 つまり、企業から乞食扱いされとるねんでおまえら。とわたしは思うのだけれど、みんなそうは感じないのか。

 

 「当たる」「進呈する」といった表現が選ばれていたのも、乞食扱いを避けるための婉曲表現だった。ところがその婉曲表現が急に減って、かといって「我が社はお客にこれを恵みます」と言うのでもなく、「もらえる」という主体と客体がごちゃごちゃになった表現が使われるようになった。たいへん気持ち悪い。

 

 「もらえる」を多用し始めたのはスマホゲームの運営だろうと思う。レアキャラクターや「石」が「もらえる」と宣伝するようになった。これが拡大して、一般企業も「もらえる」を使い始めている。こういう流れではないかと考えている。

 もし役所が「もらえる」という表現を福祉給付金や出産祝い金の給付などに用いたら非難轟々だろう。役所が安易に使わないのはさすがにそのあたりのことに敏感だからだろう。しかし数年後は役所も使っているかもしれない。

 

 企業が「もらえる」という表現を使うようになったのは、消費者を乞食扱いするようになったというよりは、消費者の側が乞食扱いを求めているという側面があるようにも思える。「もらえる」と耳元でささやかれて、ムッとするよりは、乞食扱いでもいいからもらえるものはもらっておこうという気分になるようになった。企業の側も、その心理をごまかすよりは、そこにはっきりつけこむほうが効果が大きいと理解し始めた。ひと昔前は「浅ましい」と忌避していた感覚を、経済の劣化が破却した。そういう世相なのだろう。