しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

鏡を見なければできないこと

 鏡を見ながらハサミを鼻の穴に入れて鼻毛を切ろうとすると、奇妙な難しさがあった。ということを先日書いた。

 そのなかで、鏡を見なければできない作業が意外と無い、ということを書いた。

 

 ここで書いた「作業」とは、日常の作業のなかで、とくに手を使ってあれこれするようなことを想定していた。鏡を見て顔や表情をチェックするとか、服が似合うかどうか見てみる、ということはさしあたり含まない。

 

 あらためて考え直してみると、自分で髭を剃ること、化粧をすることは、鏡が特に必要だなと思い当たった。化粧はしたことがないので、髭を剃ることに限定して考えてみる。

 

 電気シェーバーでない、ふつうのヒゲソリで髭を剃るとき、鏡がどうしても必要である(無くても不可能ではないけれど…)。利き手の右手でヒゲソリを持ち、左手の指先も顔に当てている。左手の指先は、髭の生えているちくちくしたところを探索して確かめている。ヒゲソリはそのロックオンに従って刃を肌に当てる。このとき右手はあまり迷っていない。ところどころ、ヒゲソリを指揮棒のように持ったり、鉛筆のように持ったりする。左手によるガイドと、右手の運びが慎重に連動している。刃が滑ると肌が切れるし、唇は避けなければいけない。唇の下側の少しへこんだところや、鼻の下の膨らみや、顎の首に近い柔らかい部分。すべて馴染みの肌の立体だけれど、それはヒゲソリの動きの慎重さとあいまった「馴染み」の感覚である。触る指先、刃先の感覚と、触られる顔の肌の感覚がカチッとはまりあっている。

 ところがこれらには「鏡を見ながら」ということが必要である。指先で確実に触れ確かめているのに、視野がその確実さを深めなくてはならない。

 

 たとえばポケットの中に入っているパチンコ玉を指先で確かめるとき、それを改めてポケットから取り出して目で確かめる必要なない。とりわけ、ポケットにパチンコ玉が入っていると以前から知っている場合には。

 ところがヒゲソリの場合には、左手の指先、右手の刃先や持ち方、肌の感覚に合わせて、さらに、それらの様子が鏡で表されているということが必要である。

 

 じゃあ一方、鼻毛を切るのはなぜ、どう難しいのか、ということがやはりわからなくなる。

 

 余談だが、迫水久常『機関銃下の首相官邸』には、東京裁判のため収監中の東条英機が「自分は鏡無しでも髭をきちんと剃れる」と威張って、迫水が「おまえはそういうところがあかんねん」とぼんやり呆れるシーンがある。