しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ちゅーをする両親

 わたしの両親は仲がよい。朝、父が仕事に出るとき、玄関でキスをする。夜、帰宅したときも、玄関で出迎えのキスをする。わたしが物心ついたときからそうだったし、ふたりとも還暦を迎えた今でもそうである。

 

 欧米か。

 

 わたしはこの両親のすがたが「デフォルト」だと思って育ってきた。言い換えると、日本中どの家庭でも、お父さんとお母さんは毎朝毎晩玄関でキスをするものだと半ば思い込んでいた。キスはしないかもしれないが、要するに夫婦というものはどこも無理なくこれぐらい仲が良いものだとおもっていた。

 

 だから、実際は、世の夫婦すべてがわたしの両親ほどには仲が良いわけではないらしいということに気づいたとき、それはちょっとしたショックだった。現実を知ったわけである。

 

 それに気づいたのは、雰囲気としては小学校の高学年くらいだった。はっきりと意識しなおしたのは、つい最近のことであるかもしれない。子どものころだって、離婚という制度があることはもちろん知っていたけれど、それは芸能人だけがするものだと思っていたのではなかったか。

 

 6年生の秋ぐらいのことだったと思うのだけれど、同級生のAが、西陽の坂道を下りながら、とつぜん「お父さんとお母さんな、離婚してん」と言った。わたしは「えっ」と言い、それから「あ、うん」と言った。

 

 もうちょっと気の利いたことを言えばよかったなぁと繰り返し思い起こすのだけれど、実際なにを言えばよかったか今でもわからないし、そこで爽やかな慰めを切り返す小学生というのもイヤである。

 

 世の夫婦の全てがじぶんの両親のように仲が良いわけではないと気づき始めたのは、こういった小事件(A当人にとっては大事件なのだけれど)の積み重ねによる。なんと穏やかな世界に生きてきたことだろう、と改めておどろく。

 

 大人になって、「トラウマ」を軸に震災研究を始めると、そこから派生してDVや虐待といったテーマの本も読むようになった。こうなるともう、話の次元が「仲が良い・悪い」といったところではなくなる。この日を生きるか死ぬかという恐怖が、「家族」のなかで生まれている。それも日本中でけっこうたくさん。

 

 そうした恐怖や暴力を含みながら世の中ががちごちと回転している。それは変なことやなとおもう。回転を止めないようにしながら、噴き出てきた事件を個別対処しようとしても追いつかない。