しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

稲田防衛大臣が「誤解だ」しか言えなかった理由

 稲田防衛大臣が都議選の応援演説で失言し、その謝罪/釈明会見で「誤解」という釈明に終始した(この表現を30回以上使っていた)というニュースがあった。

 

 

 何か失言をして、「誤解です」というのは釈明としてかなり筋が悪い。大臣としては、ここで間違っていたとあっさり認めてしまうと選択肢はもう大臣辞任しか残っていないので、ぎりぎりの抵抗として「誤解です」と言い続けるほかない。それはわかるけれど、しかし、「誤解です」をただ連呼するのは、あまりに芸が無いというか、逃げ方・ごまかし方の奥行きに欠けるなぁとおもう。

 

 なぜ、彼女は「誤解」という表現しか使えなかったのか。いろいろ事情や要因はあるのだろうけれど、わたしは、この「誤解だ」の連呼に、現在の政権の考え方がとてもはっきり現れていると感じる。

 

 現政権のひとびとの言動の基本には、「私は正しいのだが、何かが私の邪魔をしている」という考え方がある。「何か」にはいろいろなものが代入されうるけれど、彼らにとってもっとも主要なものはマスコミである。

 かれらは、自分たちが何か正しいものごと=〈真実〉を心のなかに所有しており、それが有権者にうまく受け渡されさえすれば、自然と政権運営がうまくゆくと考えている。ところが真実を受け渡そうとするとき、途中でだれかがそれを奪い取り、塗り替え、歪めてしまう。そのために自分たちの真実が適切に伝わっていない。このような考え方をしているように思われる。

 わたしはこの考え方を「真実のキャッチボール・モデル」と呼んでいる。投手(政治家)は自分の持つ真実や信念(ボール)をキャッチャー(有権者)に投げようとするが、途中で邪魔者がボールを奪い、それを別のボールにすり替えてしまう。そのためにうまくいかないのだ、というモデルである。

 ここで自民党政権のひとびとが「邪魔者」として真っ先に想定するのがもちろん左派系の大手マスコミである。また、幼いキャッチャーの耳元で「あんな奴らのボール、受け取っちゃいけません」とひそひそ声で教え込もうとする悪いコーチが日教組である。

 

 マスコミがさまざまな歪曲や切り貼りや「印象操作」を行っているというのはそれなりに現実の出来事であろうし、政治の責任ある立場にいる人々にとって、自分の言動が適切に伝達されないことの苛立ちは想像以上のものなのだろう。こうした苛立ちは別に今の自民党政権に限定されたことではなく、民主党政権菅首相(当時)や各大臣の仕事やメッセージを直接伝えるためのYoutubeチャンネルを開設していた。

 したがって、政治家のマスコミに対する苛立ちや不信は、理解不能なものではない。とはいえ、「おまえらがうまく伝えてくれないから、うまくいかないのだ」という不満に固執するのは独りよがりでもある。

 

 現在の自民党政権のとても巧妙なところは、この「真実のキャッチボール・モデル」を、ある程度まで有権者(あるいは政権支持者)と共有することに成功したことである。現政権のひとびとは、ひたすらマスコミを悪者に仕立て上げ、「うまく伝わっていないのです」とだけ言い続けてきた。その結果、おそらくそれなりに多数の有権者が、自分たちは誤ったボールを手渡されていると信じるようになった(この理解自体は決して間違っていない)。「大手メディアではあのように報道されていたが、実は…」というタイプの記事が、バイラルメディアのお家芸というか、一種の様式美のようになった。

 ところで、ここでさらに興味深いことが生じる。政権のひとびとは、マスコミがボールをすり替えていると有権者に信じさせるだけでなく、さらに一段進んで「自分たちの手元には、邪魔者に歪曲されていない、ピュアな真実・真理・正義が保管されている」という理念をある程度共有させることに成功した。

 これは非常に巧妙・狡猾な手続きである。かれらは「あいつらが邪魔をしている、あいつらは嘘を言っている」とだけ言う。しかし自分が持っているようにほのめかしている、本当の真実なるものを具体的に開示することは無い。つまりボールを実際には投げないで、さらにはボールを実際には持っていないらしいのに、「ボールが奪われるから、投げないのだ」と言うのである。

 善良なキャッチャーがそれを信じるのは、たしかにマスコミの側に前科が多すぎるからでもある。ただし単純なマスコミ叩きだけでは、この「ボールは持っているのですが投げられないのです・モデル」は成立しない。これを補強するのが、「日教組」や「印象操作」といった、〈ネトウヨニヤニヤ系キーワード〉の活用である。

 


 この「日教組!」というヤジを首相閣下は誰に対して言っているのか。かれはおそらく、委員会の質問者や参席議員に向けて言っているのではなく、マスコミの向こう側の固定ファンにウインクを送っている。このとき「日教組!」と言われた議員は日教組とは無関係であるし、仮に日教組に属していたら何だというのだろう。実際、いまの日教組に往時の力など無いことは、若年層の政権支持率の高さを見れば一目瞭然である。つまり日教組云々というのはもはや相当のファンタジーであるのだけれど、このファンタジーをまだ共有するひとびと、つまり政権のコアなファンにとっては、なにかニヤっとしてしまうのだろう。そのようなひとびとに向けては単語で十分なのだし、むしろ単語でなければならない。

 現政権と首相閣下は、自分たちのコアな支持層と、浮遊層へのメッセージの送り方をきっちりと区別している。「日教組」や「印象操作」という単語の繰り返しは、もっぱらコアな支持層を受け手としたものだろう。真実や真理のボールは直接見せない・投げないかわりに、「ボールはちゃんと持っていますよ」という暗示をこれらの単語に託して伝えるわけである。そうして成立したニヤニヤ的紐帯が、政権支持率の岩盤となっている。

 

 話を稲田防衛大臣の会見に戻そう。ここまで述べたところから、彼女が「誤解だ」としか言えなかった理由がある程度明らかになったようにおもう。キャッチボール・モデルと、それを逆手にとった戦術に依存してきた彼らは、ボールをうまく取り次いでもらっていない(=誤解)という言い回し以外の表現方法を全く知らないのである。稲田防衛大臣自身、「誤解だ」はかなり苦しい弁明だと理解しているだろうけれど、その一方でアタマの半分ぐらいは「本当に誤解にすぎないのに」と考えてもいるのかもしれない。

 しかし彼女にとって苦しいことに、今回の失言はもはや、ボールを隠しているようにほのめかすというレベルで乗り切れるものではない。実のところ、謝罪や釈明の会見は、正規の「キャッチボール」がきわめて的確に遂行される、数少ない舞台である。マスコミは一言一句それを伝えてくれるし、「失言だった、私が間違っていた」というボールがまさに目の前にあり、それは誰の目にも隠されていない。そのボールを投げたなら、まさに有権者の心にまっすぐストライクする。その結果、ピッチャーはそれを最後の投球として降板しなくてはならないが、キャッチャーの側から再度ボールが返ってくる可能性も無くはない。その可能性を信じて投げるほかないのだけれど、防衛大臣は「あなた方がキャッチボールを邪魔する」としか言わない。

 

 実際のところ、真実や真理や正義とは、じぶん一人の心の中で確固として完結するものではないようにおもう。強いて言えば、心の中に存在するのは、それなりの信念や自分なりの意見といったレベルにすぎない。おそらく真実や真理は、語る者と聴く者のさまざまなやりとり全体のなかでそのつど凝固し、解体しているものである。(国政の場合、そこにマスコミやネットという特異な次元が関わってくるので、たしかに単純ではないけれど、基本は同じことだとおもう。)

 けれども現政権のひとびとはこの種の真理モデルには依拠せず、代わりに上述のキャッチボール・モデルに頼ってきた。これによって高い支持率を維持し、(彼らと支持者にとって)正しいと信じる政策を実行してきた。目的達成のためには悪い手段ではなかったけれど、稲田氏だけでなく政権全体で、ボールを持っているとほのめかすことがだんだんと無理になってきたようにも思える。

これが最後の朝だったら

 朝、目が覚めたあとすぐ、もし仮にこの朝がじぶんの人生のさいごの朝であったならどうだろうと考えることがある。

 布団から出ないまま、壁を見つめる。曇り空を透過してきた光を壁紙が受け取って陰影を強めてゆくのをみる。いろいろな匂いがする。車のエンジン音、鳥の鳴き声。この朝が最後で、次はないとしたら。

 別に大病を患っているわけでも、死刑執行を待っている身でもないし、自殺を考えているわけでもないし、戦地にいるわけでもない。しかしとにかく、「さいごの朝」がいつか来ることは確かである。

 

 考えてみてわかることがいくつかある。第一に、「朝」そのものに取り立てて大きな変化は起きようがないということ。じぶんがその日のうちに死ぬのだとしても、自動車は走っているし、鳥は鳴いている。雨か曇りか晴れか決められないけれど、とにかくなんらかの気候があるだろう。わたしの最後の朝だからといって、鳥が鳴かなくなったり、ゴミ収集車が活動を自粛するといったことは起こりようがない。

 第二に、これが最後の朝だったらと仮定して朝を過ごしてみても、「とにかく生を大切に、きょう一日をがんばって生きよう」といった殊勝な気持ちにはあまりならないということ。そういう気持ちがほのかに湧くことも無いではない。けれど、実際に朝の身支度を始めると、そんな気持ちはすぐにどこかへ消えてしまう。「一日一日を大切に」という心構えを造ることを目的として「これが最後の朝だったら」と考える、という人もいるかもしれない。けれど自分にはその趣味は無い。

 第三に、時間はそのまま流れてゆく、ということである。なるほど、最後の朝かもしれないと仮定して考えることで、なにか生の輝きのようなものを実感しても良いかもしれない。一秒一秒が貴重なものに実感されるかもしれない。かといって、そのような刻々とした「生の実感の更新」も、自分の死を順延してくれないということ。死へのカウントダウンが始まっていると想定しても、その一秒ずつをけっこう持て余してしまう。ただ、時間が過ぎる。

 

 現実問題として、病死や老衰死といった「死の接近を予感しうる」状況でも、これが自分の最後の朝だと自覚できるケースはそう多くないだろう。意識が明瞭に保たれていない状況のほうが多いかもしれない。もし運良く(あるいは運悪く?)、どうやらこれが最後の朝らしい、と直観したとき、どのような感情が起こるのだろうか。それは恐怖そのものかもしれないし、苦痛からの解放を静かに喜ぶかもしれない。世界との別れをいまいちど悲しむのかもしれないし、それら全てを過ぎ去って、どこか澄んだ気分になるのかもしれない。そうした諸々の感情は自分の臨終を自分に対して演出するけれども、それによって何かを得たり失ったりするのも結局じぶん一人(あるいは周囲の少ない人間)であって、鳥が鳴いたりアナウンサーが朝のニュース原稿を読み上げることに何らの影響も与えない。それは、気持ちのよいことである。

 

 などなど考えたあと、飽きて起床する。そのあたりでようやく、これは「もし」ではなく、ほんとうにこれが自分の最後の朝なのかもしれない、ということに気づく。気づくというのも変な表現だけれど、不慮の事故や事件や災害で死ぬことだって当然ありうるわけで、「これが最後の朝だと仮定する」と考えているときの「仮定」が仮定であることには実は何の根拠もない。ハイデガーのdas Manの話をそのままなぞることになるけれど、「いつかは死ぬと思っているけれど、さしあたり今ではない」という変な信念を持っていて、その信念の上に上記の想像を仮構していた。

 そこで、それが「もし」であるという保証はどこにも無いぞと決めてから、再度、「これが最後の朝だとして」と考えてみるけれど、すると途端にリアリティが無くなってしまう。なんとなくぞわっとしたかんじ、あるいは、どことなく悦ばしいかんじが生まれるけれど、最初のようにはうまくいかない。「そうは言ったって、いくらなんでも今日死ぬとはやっぱり思えない」という観念が邪魔をするのだろう。それはそれで健全な態度でもある。あまりに強引に「きょう死ぬ可能性だってあるのだぞ」と自分に言い聞かせたとしても、それで思考の可能性がより豊かになるとは言い切れないと思う。

 

 

囚人の首を絞める医学者

21世紀に入って、英国の精神医学界はこの領域における20世紀の誤りを今世紀に繰り返さないために、精神医学者のワースト・テンを選んだ(2001年3月の新聞報道)。その1位は、脳の血流が止まった場合の精神状態を調べるために刑務所の囚人の首を絞めた学者、フロイドが6位、モニスは7位にランクされたという。(『シリーズ生命倫理学 9巻 精神科医療』丸善出版、73頁)

 

1位はさすがにあかんやろ…。

なおモニスはロボトミー手術を創始したポルトガルの医者。1949年ノーベル賞

なんであれ時代の変化を感じたがる

 2週間前、ロンドン橋の根元のバラ・マーケットで無差別テロがあって、7人の民間人が殺されて3人の犯人が警察に射殺された、というニュースを見て、なんとなく聞いたことのある地名だなと思い起こしてみると、4年前に研修でロンドンに行ったときわたしは旅程の最終日近くにそこを訪れていた。焼いたソーセージや石鹸や、チーズやオリーブオイルが売られていて、密度の高い雑踏で、じぶんもその中のひとりだった。とはいえ誰も切りつけられず、誰も撃たれていなかったし、じぶんもその中のひとりだった。

 もし何かがズレていたら、自分も切りつけられていたひとりだったかもしれない、と想像してみることはできる。けれども、その想像はまあ数分ぐらいの「ぞっとしたかんじ」で終わってしまう。「死んだのは彼らであって私ではなかった」という確認は、災いに遭ったひとびとへの共感のようでいて、一歩間違えればひそやかな愉悦に転じる。

 

 実際のところ、4年前にはISISはまだ存在しておらず、ロンドンやパリで無差別テロが起きるということはほとんど想像できなかった。想像しないままロンドンへ行って何にも遭わずに帰国したのだから、「もし何かがズレていたら…」という想像はかなり虚構の程度が強い。4年前と今では状況がかなり違う。

 

 たった4年で何かが大きく変動した。「以前と比べて、いまや、あらゆるものごとが加速度的に変化している」……とブルクハルトが『世界史的考察』のなかで述べているけれど、かれがそれを言ったのは19世紀末の講義でのことである。19世紀末で既に「世の中加速してんなぁ」と愚痴られていたのだから、21世紀の持つ速度/加速度は、人間の目には捉えられないものになっているに違いない。この4年の間に何か決定的な変化が生じたというのではなく、4年という期間は、あらゆる変化が巻き起こり、ものごとを破裂させ、その破片をゴミ捨て場へ押しやるのに十分な時間だ、ということなのだろう。

 

 4年前からアシスタントとして参加させてもらっている授業で、「AIは考えているのか」というテーマで受講生(おもに理工学部の1年生)に議論してもらっている。4年前は「ディープラーニング」という単語は1年生のパワーポイントには出てこなかったし、囲碁でもまだAIは勝利を収めていなかった。今年はパワポにも登場した。ドッグイヤーの好例である。

 「4年」というスパン自体にたいした意味は無い。2年であっても8年であっても、ある程度の期間で区切れば、つねに激しい変化と隔絶を感じることができる。ただし自分自身が社会的実感としての記憶を持っていることが必要である。先日、授業の準備をしているとき、教室で学生同士が「ロンドンとかパリでテロがあったニュース聞くと、まだまだ日本平和やなっておもう」と話していた。彼女らが生まれたのは東京のど真ん中で毒ガスが撒かれた事件の後のはずである。世代が変われば比較の起点も変わる。

 

 とはいえ、世代の差異を超えた、絶対的な比較の基点というものもあるだろう。日本においては1945年、1995年、2011年がそれだろう。これは単純な話で、たとえばわたしはアマゾンや図書館OPACで書籍を見つけたとき、それが2011年以前に書かれたものなのか、以後に書かれたものなのかをまず確認する。災害や原発や社会といったテーマに関係の無い書籍でもそのように確認してしまう。Togetterなどで「2010年」のツイートに出会ったときなど、「穏やかな時代のひとびとが書き遺した、黄金の幸福な文字だ」という気分にさえなる。もちろん、2010年でも2005年でも不幸や苦痛や不条理は変わらず存在しているのだけれど……。

 第一次大戦に従軍した/戦時下生活を体験したヨーロッパの青年たちが、戦間期に、大戦勃発前の文学や哲学書を手に取ったときも、似たような感覚を持ったのかもしれない。

 

 他方、中世仏教がやたらと「末法の世だ」と言っていたのは、またちょっと違った時代感覚だったのだろうか。アウグスティヌスが息を引き取ったとき、かれの住んでいた都市はヴァンダル人に包囲されていた。アウグスティヌス本人はどう考えていたかわからないけれど、当時の多くの平均的知識人は、「蛮族」によるキリスト教諸都市の征服を、そのままヨーロッパ・地中海世界の崩壊として、そしてまた終末の到来として捉えていただろう。ただ、そうした「到来」が、ブルクハルトや現代人が感じているような表層・深層の激しい変化の感覚と同列のものであるかどうか、これは簡単に言えないだろうなとおもう。

 

 話がいろいろとズレてしまった。

 4年前と比べて、あまりに時代が変化してしまった……などと感慨にふけるのは、いろいろな事物・生物のなかで人間だけだろう。その感慨の奥には、変化を認識するときに成立する自己の同一性への愉悦があるような気がする。「時代が変わった」とか「俺も変わってしまった」などとつぶやけるのは、その当人に不変のもの、比較の基準点となるものが確保されているからである。というよりむしろ、確固とした自分の内部の基準点などほとんど存在せず、逆に、あやふやな比較を通じて、そのたびに、あたかも不変の自己があるように勘違いするだけなのだろう。

 その点では、ISISやヨーロッパでのテロなどは、時代の変化を安全に「実感」するための対岸の火事にすぎないのかもしれない。本当の変化の真っ只中にいるときは案外それに気づくことができないのかもしれない。

性暴力と政治:「同情できない」の心理について

はっきりと同定できる敵による残虐行為、あるいは自分自身の行為としての残虐行為について、男性が遅延性の記憶を呈している限りにおいては、何ら論争は起こらない。しかし、同じような記憶の問題が、家庭内での虐待というコンテクストで女性や女の子が遅延性の記憶を述べ始めるや、情況は一転して耐えられないものとなる。女性の被害者が、加害者と目されるものに対する正義を求め始めたとたん、問題は科学を離れ政治へと移行する。(ヴァン・デア・コルクほか編『トラウマティック・ストレス』誠信書房、621頁)

 

 女性が性暴力を受ける。正義を求めて声を挙げる。すると、政治が始まる。ここでの政治とは、何が正しいのかを自分自身で決めることができると信じている人々が相手の正しさについての言説を吟味し、批判する過程である。しかしその過程で真っ先に攻撃されるのは、被害者自身が最初に求めた正義である。

 被害者の求める正義と、それを「修正」すべきだと信じる人の言う正義には、圧倒的な隔絶がある。前者は言明そのものが苦痛をもたらす。後者はなんら苦痛を感じておらず、むしろ政治的言明のあとに心地よささえ残る。行為の後のすっきりとしたかんじは、暴力の必要条件のひとつを満たしている。

 

 性暴力に対する政治的プロセスは、多くの場合、減刑の判断とその表明から成る。かれらは言う。「女性の側にも何らかの落ち度があった」「男性の側が何か悪いことをしたのは事実だとしても、女性の証言にはやや疑問点が残る」「この件は被害者に同情できない」。しかし、被害者は同情など求めてはいないだろう。

 かれらは道徳的審判者の立場を即座に確保する。混乱している被害者と、過剰なバッシングを受けている加害者の双方の道徳的過失を、冷静な観点から判断し、量刑判断する。その権利があると信じている。

 重要なのは、こうした「同情できるかどうか」という判断全体が、加害行為のインパクトを縮減しようという意図を背景にしているという点である。かれらはこう考える。たしかに第一に悪いのは男性の側である。しかし女性の側にもある程度の非があったとおもわれる(誘惑したのだろう、そんな服装をしてたからだ、OKのサインだとみなされてもしょうがない、もしかしたらお金目当てなのでは、被害者ビジネスだろう……)。すると、おそらく過失の割合は7:3ぐらいだ、と。そして奇妙な減刑判断の心理学的算術が行われる。過失割合が7:3ということは、差し引きすれば加害行為の重要性は実のところ7−3=4ぐらいじゃないのか?と。

 10を4にするこの減刑判断は、以下のより単純な心理的要求に還元される。「世の中はそこまで悪に溢れていない」と「男性の性的”自由”は抑制されるべきではない」と「わたしこそが全体の道徳的審判者であり、潜在的被害者だ」である。こうした基本的信念にとって、4の悪事にすぎないものを10の大きさであるかのように言い立てまわっている被害者の存在は、性的秩序と道徳への強烈な侵略者に映る。しかし上記3つの要求はいずれも間違っているし、これらの貫徹を政治的過程の目標にすることは不正である。

 

 いわゆる被害者バッシングに走る人とそうでない人の間には、「正義」の捉え方にはっきりとした違いがあるのだろう。正義を求めている被害者にとって、正義とは文字通り「求める」ものである。しかも、自分の全存在、尊厳、苦痛を賭けて求めるものである。一方、被害者バッシングに走る人や「同情できない」と言う人にとって、正義とは自分の的確な裁定によって防衛されるべきものであり、さらに言えば、自分の存在や尊厳が脅かされず、苦痛を被らないようにすることが正義の存在意義である。裁判官であり、神である。したがって同じ「正義」という概念を使っているけれど、一方は「苦痛からの正義」であり、他方は「苦痛を感じないようにするための正義」である。

「超音波法案」についてのケンタッキー州知事のコメント

ケンタッキー州で「中絶手術を受ける前に胎児の超音波画像と心音を妊婦に聞かせることを義務付ける法案」が今年1月に成立した。現在、反対する団体が裁判所に仮差し止めを申し立て、それが認められている。

 

 

 

 

 この法案について、ケンタッキー州知事のMatt Bevin氏が短いコメントを書いている。

www.thegleaner.com

 

 上記エントリはさいきんのケンタッキー州議会の成果(成立した法案)を喧伝するもので、要するに知事の俺スゴイという話にすぎないのだけれど、そうした成果の一つとしてこの「超音波法案」も一段落だけ言及されていた。

 

Pro-life laws were created that more accurately reflect the values of our voters. Kentucky is overwhelmingly a pro-life state. Huge bipartisan support for the twenty-week abortion ban and the ultrasound bill reflect that. We also moved Planned Parenthood, the nation’s number one abortion provider, to the back of the line for federal funds.

有権者の価値観をより正確に反映した中絶反対法が創られた。ケンタッキー州は中絶反対派が圧倒的に多い州だ。多数の超党派議員が20週〔以降の?〕中絶の禁止に賛成しており、超音波法案はそれを反映したものだ。さらにわたしたちは、州内で第一の中絶処置団体であるプランド・ペアレントフットを、連邦資金の列の最後尾に並ばせた。

 

 法律が「創造されたcreated」という言い回しはよくあるものなのかどうか知らないけれど、ここではキリスト教の文脈を意識しているのだろう。また、妊娠中絶をめぐる米国内の論争は、「中絶反対派 pro-life ≒共和党」vs 「中絶容認派 pro-choice ≒ 民主党」という図式が前提になっているけれど、ケンタッキー州では超党派でこの超音波法案を通過させたのだぜということを強調している。

 

 最後の一文は意味がいまひとつわからなかった。プランド・ペアレントフットは中絶を推進する米国内のNPOである。NPOなので資金助成を探さなければならないが、州ではなく連邦の資金を申請するようにさせた、ということだろうか。

 go to the back of the lineという言い回しをオバマ前大統領が過去に演説で用いたらしい。このときは「市民権が欲しかったら、ちゃんと列の最後尾に行かなきゃだめだ」といったニュアンスで、市民権獲得のための手続きを正当に進めているひとがいるのだから、あなたもちゃんとそうしてください、という話だったらしい。要するに、列に割り込んじゃだめだよ、ちゃんと並んでね、ということらしい。

 Matt Bevinのmove to the back of the line for federal fundsという言い回しは、もしかしたらオバマのこの表現を意趣返しとして借りたものかもしれない(一般的に使われる表現にすぎないのかもしれないけれど)。オバマはpro-choice派で、プランド・ペアレントフットを支持する演説もしている。そのオバマの言い回しを敢えて用いて、「団体運営の資金が必要だろ、ほら連邦政府の助成窓口の長蛇の列にちゃんと並べよ」と言っているわけで、この解釈が正しいとすれば、かなり意地悪な表現だということになる。

 超音波法が成立することと、プランド・ペアレントフットが連邦政府の資金を求めることとの関係がいまひとつわからない。中絶を行う団体への助成を禁止する条文が超音波法に組み込まれているのだろうか。あるいは、訴訟費用とか、超音波画像のための機器購入の費用がかかるでしょ、ということだろうか。

 

ガラスのからだを持つひとびと

「誇大妄想をもち、たとえば自分が王様であると信じている人は今日でも見られる。自分の体がガラス製であると思い込んでいる人はもはや見られない。しかし初期近代には、〔ガラスや陶器で自分の体ができていると思っている〕ガラス人間や陶器人間は比較的一般的であった。ジル・スピークは、1440年から1680年にかけてヨーロッパで見られたガラス妄想について研究しており、いくつもの症例を記述している。たとえば、1561年には、自分の臀部がガラス製であり、そのために座ると〔臀部が〕砕けてしまうのではないかと恐れている患者がレムニウスによって記述されている(レムニウスによれば、この患者は立っているときにだけ安心することができるとのことである)。1614年ごろには、割れることを怖がるあまり医師の勧めで藁製のベッドを使っているガラス人間の事例がアルフォンゾ・ポンセ・デ・サンタ・クルーズによって報告されている。その人物に対しては「適切に調整された炎によって正気に戻す」という異例の治療を用いたという。ガラス妄想はかつて狂気の範例であったが、今日では見受けられない。ガラス妄想は生命の脆さ・はかなさについての宗教的テーマを反映しているのだとスピークは考えている。信仰が薄い時代には、こうしたテーマが我々の心に触れることは少なくなり、今日では他の妄想が見られるようになったのである」(レイチェル・クーパー(伊勢田哲治・村井俊哉監訳)『精神医学の科学哲学』名古屋大学出版会、2015年、83ページ)

 

ガラスはいちど砕けると元には戻らない。救いのない脆さ。

宝石の国』の登場人物たちは、砕けるけれど、破片を接合すると元に戻る。あまり深刻な顔はしない。脆さのイメージにふしぎな違いがある。