しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

性暴力と政治:「同情できない」の心理について

はっきりと同定できる敵による残虐行為、あるいは自分自身の行為としての残虐行為について、男性が遅延性の記憶を呈している限りにおいては、何ら論争は起こらない。しかし、同じような記憶の問題が、家庭内での虐待というコンテクストで女性や女の子が遅延性の記憶を述べ始めるや、情況は一転して耐えられないものとなる。女性の被害者が、加害者と目されるものに対する正義を求め始めたとたん、問題は科学を離れ政治へと移行する。(ヴァン・デア・コルクほか編『トラウマティック・ストレス』誠信書房、621頁)

 

 女性が性暴力を受ける。正義を求めて声を挙げる。すると、政治が始まる。ここでの政治とは、何が正しいのかを自分自身で決めることができると信じている人々が相手の正しさについての言説を吟味し、批判する過程である。しかしその過程で真っ先に攻撃されるのは、被害者自身が最初に求めた正義である。

 被害者の求める正義と、それを「修正」すべきだと信じる人の言う正義には、圧倒的な隔絶がある。前者は言明そのものが苦痛をもたらす。後者はなんら苦痛を感じておらず、むしろ政治的言明のあとに心地よささえ残る。行為の後のすっきりとしたかんじは、暴力の必要条件のひとつを満たしている。

 

 性暴力に対する政治的プロセスは、多くの場合、減刑の判断とその表明から成る。かれらは言う。「女性の側にも何らかの落ち度があった」「男性の側が何か悪いことをしたのは事実だとしても、女性の証言にはやや疑問点が残る」「この件は被害者に同情できない」。しかし、被害者は同情など求めてはいないだろう。

 かれらは道徳的審判者の立場を即座に確保する。混乱している被害者と、過剰なバッシングを受けている加害者の双方の道徳的過失を、冷静な観点から判断し、量刑判断する。その権利があると信じている。

 重要なのは、こうした「同情できるかどうか」という判断全体が、加害行為のインパクトを縮減しようという意図を背景にしているという点である。かれらはこう考える。たしかに第一に悪いのは男性の側である。しかし女性の側にもある程度の非があったとおもわれる(誘惑したのだろう、そんな服装をしてたからだ、OKのサインだとみなされてもしょうがない、もしかしたらお金目当てなのでは、被害者ビジネスだろう……)。すると、おそらく過失の割合は7:3ぐらいだ、と。そして奇妙な減刑判断の心理学的算術が行われる。過失割合が7:3ということは、差し引きすれば加害行為の重要性は実のところ7−3=4ぐらいじゃないのか?と。

 10を4にするこの減刑判断は、以下のより単純な心理的要求に還元される。「世の中はそこまで悪に溢れていない」と「男性の性的”自由”は抑制されるべきではない」と「わたしこそが全体の道徳的審判者であり、潜在的被害者だ」である。こうした基本的信念にとって、4の悪事にすぎないものを10の大きさであるかのように言い立てまわっている被害者の存在は、性的秩序と道徳への強烈な侵略者に映る。しかし上記3つの要求はいずれも間違っているし、これらの貫徹を政治的過程の目標にすることは不正である。

 

 いわゆる被害者バッシングに走る人とそうでない人の間には、「正義」の捉え方にはっきりとした違いがあるのだろう。正義を求めている被害者にとって、正義とは文字通り「求める」ものである。しかも、自分の全存在、尊厳、苦痛を賭けて求めるものである。一方、被害者バッシングに走る人や「同情できない」と言う人にとって、正義とは自分の的確な裁定によって防衛されるべきものであり、さらに言えば、自分の存在や尊厳が脅かされず、苦痛を被らないようにすることが正義の存在意義である。裁判官であり、神である。したがって同じ「正義」という概念を使っているけれど、一方は「苦痛からの正義」であり、他方は「苦痛を感じないようにするための正義」である。