しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

マイクロフィルムを使った/記録密度と信頼感は反比例する

 マイクロフィルムを初めて触った。

 神戸の中央図書館で使った。神戸新聞の記事を調べる必要があった。1995年から1997年までの記事で、ネットでは検索できない。マイクロフィルムで保管されている。

 

 フィルムのリールを映写機に取り付けて、手元のツマミでフィルムを巻き取ってゆく。巻き取りはモーターがやってくれるけれど、速度の調整はじぶんでやらなくてはいけない。

 

 アナログではあるけれど、プリンタに接続されていて、スイッチひとつで印刷できる。ただし印刷に適した画面を作るためにはやはり人間が調整する必要がある。

 

 モーターの速度を上げると、画面上の紙面が高速で巻き上がってゆく。速度をゆるめると何日か進んでいたことがわかる。95年3月、紙面が震災から地下鉄サリン事件とオウム騒動に切り替わる。タイムマシンを操作しているような気分になる。

 

 しょっちゅう巻き上げが止まる。モーターが弱っているのか、フィルムの取り付けが悪かったのか。いったん巻き戻してから進めるとうまくいくこともある。機械を使っているけれど結局手作業の感覚がある。なんどトライしてもうまく巻けないリールが一本あった。きょうは見てほしくないのかなぁ、などと思った。ここまでくるとアナログを通り越してオカルトかもしれない。

 

 メディアとしてのマイクロフィルムを考えてみる。片手で掴めるほどのリール(35ミリ)に15日分の紙面が焼き付けられている。記録媒体の密度としては相当低い。

 保存期間はどうか。wikipediaによると、素材によって100年もしくは500年だという。再生に特殊な技術を必要としないのは大きな強みだ。レンズと電球があればとりあえず見れる。DVDだとこうはいかない。

 

 記録密度が上がるほど、読み取りに必要な技術が高度になる。技術が高度になると、それを利用可能な期間が短くなる。人間がメディアに対して感じる信頼感はこの利用可能期間の長さに依存している。メディアの記録密度と信頼感は反比例する。

 

 「この指先ほどのメモリに、何時間分もの動画を詰め込むことができます」と言われると、おおスゴイ、と感じてしまう。けれども、そういった高密度メディアを選択することは、実のところデータを長期保存するつもりがあまりない、ということの裏返しなのかもしれない。データがリッチになるほど刹那的になってゆく。動画の画質や録画時間を際限無く向上させるのは、実のところそれを残すつもりは無く、ただ撮り捨てるためなのかもしれない。

 

 

便箋に時間を吸わせる。

 手紙を書いたあと、その便箋をすぐに封筒に入れて封をせず、しばらく机のうえに置いたままにしておくことがある。便箋が部屋の時間を「吸っている」ようなきぶんになる。すぐに投函しても、2日ほど間を置いてから投函しても、便箋に書いた内容には変化は無い。無いのだけれど、じぶんの手からすぐに引き剥がすのはしょうしょうもったいない気がして、しばし時間を待つ。すぐに送ると電子メールと同じことになってしまう気もするし。

 

 書き上げられた便箋の時間はすでに停まっていて、部屋の時間は進み続ける。けれど便箋の文面のなかには、わたしが一行目から最終行まで書き進めたときの時間が流れている。手紙の受取り手がそれを読むとき、読み手の時間と、わたしが書いたときの時間がある種の仕方で同調している。そしてまた、書いた内容の時間がある。今日の午前中は何をしていて、午後は何をしていた…というような。さらにまた、手紙を書き終えてから、宛先に届くまでのラグがある。手紙の受取り手が読むのは10日ほど前のわたしの時間である。

 

 封を切られ、便箋が広げられ、読まれたとき、手紙は自分の任務をさしあたり達成する。そうして手紙を捨ててしまうひとも中にはいるかもしれないけれど、親しい人から届いたものなら、どこかに保管するだろう。すると、手紙の封が切られた瞬間がもうひとつの時間の焦点をつくる。何年か経ってその手紙を保管庫からふたたび取り出したとき、そのひとは手紙の内容そのものよりも、手紙を受け取ったこと自体にひとつの感情を覚えるだろう。便箋を取り出して読み直すと、そこにまた書き手の時間が再生成されるけれど、それは最初に手紙を受け取って読んだときの時間と同じでもあり、違ってもいる。手紙の内にたくさんの時間が入れ子状になって格納されていて、それを受け止める側の人間の時間を逆に照らし出し、立体的な陰影を作り出す。

 

 そうした複雑さを受け止めることに耐えきれなくなったとき、ひとは「懐かしい」とシンプルに言う。手紙が帯びる複雑な時間の迷宮の内へはまりこむのはよろしくないことであるから。「懐かしい」という表現で迷宮の入口に封をして、日常生活のクリアで充実した時間の流れに復帰する。

 

 電子メールでもこうした迷宮性は実現できなくもないけれど、かなり限定的であるように思える。根本的な違いはラグの有無にある。メールではラグは可能な限り切除される。返信の遅れは負債とみなされる。手紙では返信を待つことは、利息を付けてゆくことになる。時間を吸わせる、ということが可能になる。

 

 では電子メールやLINEは風情を全く欠くのかといえば、そうでもない。とくに紙の手紙と連動するとき、それらは威力を発揮する。手紙のなかで、LINEでやりとりした内容について書き加える。LINEで、手紙を送った報告をする。こういうことをしてしまう。それによって、便箋が受け持つ時間がさらに複線的になってゆく。書き手も受取り手も混乱してゆく。

 

白ランスロットとメル・ギブソン

 高校生のころから、『タクティクスオウガ』の白ランスロットがなんで男なのにスカーフみたいなのを頭に巻いてるのかわからなかった。

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(上記画像はPSP版『運命の輪』。自分がプレイしたのはPS版無印)

 

 さいきんアマゾンで『ブレイブハート』を観たら、メル・ギブソンがけっこう白ランスロットにそっくりだと思った。

 

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(スカーフというより、厚手のキルト地の布みたいですね)

 

 何の証拠も無いけれど、白ランスロットのモデルはブレイブハートのメル・ギブソンなんじゃないかとおもう。敵の正規軍にボコられることや、捕らえられて拷問されることも似てるし(TOのモデルはスコットランドではなくユーゴ内戦で、白ランスロットさんはいちおう死なずにすみますが)。

 

 そんだけの話です。

 

2才児「こえわー?」ラッシュ

2才の甥が「はたらくくるま」の本をひらく。警察、消防、工事用車両などなどがページごとに載っている。載っている車をひとつずつ指差して、「こえわー?」と聞く。「これは、『コンクリートミキサー車』」と妹(2才児の母)が答えてゆく。

 

全ての車について「こえわー?」と聞く。

「こえわー?」「これは、みきさーしゃ」

「こえわー?」「これは、こうしょさぎょうしゃ」

「こえわー?」「これは、きゅうきゅうしゃ」

「こえわー?」「これは、すーぱーあんびゅらんす」

「こえわー?」「これは、かがくしょうぼうしゃ」

「こえわー?」「これは、ぽんぷしゃ」

 

全ての車について聞く。全ページ聞く。聞き終わったらまた最初に戻る。

かれは何をしたいのか。知らない車の名前を新たに知りたいのではないことは、たまに「ちゃう」(ちがう)と応答することからわかる。

 

「こえわー?」「これは、みきさーしゃ」

「こえわー?」「これは、こうしょさぎょうしゃ」

「こえわー?」「これは、きゅうきゅうしゃ」

「こえわー?」「これは、すーぱーあんびゅらんす」←ここらへんで妹の集中力がすでに切れている

「こえわー?」「これは、かがくしょうぼうしゃ」

「こえわー?」「これは、ぽんぷしゃ」

「ちゃう」「あ、ほんまや、これは『はしごしゃ』や」

 

 ここらへんで、知っとるんやったら聞かんでもええやんけ、と周囲の大人から一斉にツッコミが入る。

 

 このやりとりを見ていると、甥にとって「こえわー?」は必ずしも未知を既知に変化させる質問では無いように思える。知っているものでも、知らないものでも、とりあえず「こえわー?」と聞く。大人から毎回答えが返ってくる。とにかくそのやりとりが大事なようである。

 

 大人の場合、既知と未知の区別は非常に重要である。既知のものを問い直すことはエネルギーの無駄であり、未知のものは早急に把握するか、無視する。自分が未知のものをすでに知っている人には教えを請い、その逆ならば自分が優位に立つ。あるいは知識を共有する協力関係が生まれる。

 大人が既知のものを敢えて問うとしたら、相手にとってこれが既知であるかどうかを確かめる、相手をおちょくる、哲学者である、といった場合に限られる。

 

 甥はこのどの場合にもあてはまらない。そもそも、既知と未知を区別してゆくことにさほど重要性が無いのだろう。むしろ、そのつどそのつど、それになまえがある、ということこそが大切で、喜びなのだろう。

 

「間」を獲得する甥(2歳)

10日ぶりに甥とその母(わたしの妹)と会うと、以前と違って会話に「間」ができていて、びっくりした。

 

具体的には、甥が妹に何か言ったあと、彼女の返答をうまく待つようになっていた。そのため、両者とも声を出していない時間が生まれている。客観的には0.2秒くらいの時間だろうか。

 

格段に人間的な話し方というか、会話のような会話になっていた。

 

なぜ甥は間を獲得したのか。何が起きているのか。じぶんが言った内容が母親の頭の中をぐるりと周回して返答が彼女の口から出てくることをわかっている、ということなんだろう。それだけ甥の言うことが複雑になってきたということなのだけれど、それだけではない。返答を待つことができるということを裏返すと、相手には「あたまのなか」「こころのなか」があるということをぼんやりと理解しはじめた、ということではないか。

 

たぶん、甥の視点では、声とは相手の顔にぶつかって割れるものだったのだろう。それがいつのまにか、声とは相手の顔のおもてからどこかにすっと吸い込まれてゆくものになった。その「どこか」をのちに心とか頭とか言うようになる。そして自分の声が吸い込まれてゆくどこかは、相手の声がそこから出てくる場所でもある。相手の声は自分のどこかに吸い込まれている。そしてなぜか自分の声も同じ場所から外に出てゆく。内と外の区別が生まれる。

Ciniiは研究者を幸福にしたか

 CiniiとAmazonが無い時代、院生や研究者はどうやって研究をしていたのだろう、と思う。

 Ciniiは日本語論文の総合検索サイト。日本国内では、ほかにJ-STAGEや医中誌WEBやメディカルオンラインといった論文関連のサイトがある。海外にもまたいろいろある。分野によって多少異なるかもしれないけど、自分はCinii無しの研究活動など考えられない。

 文系の自分にとって、Amazonも重要な研究インフラのひとつ。とくに震災関連は古い手記などがマケプレで安価で手に入るのがありがたい。

 

 大学の附属図書館の論文複写サービスもよく利用させてもらっている。Cinii等で論文の掲載誌を把握したあと、大学のOPACにつなげて、当該誌が学内にあるか調べる。豊中キャンパスの総合図書館にあればそのまま自分でコピーしに行くけれど、吹田キャンパスの図書館や、学外にしかない場合は、複写サービスを申し込む。実費(おおむね50〜500円)はかかるけれど、数日で論文のコピーが手に入る。こちらの手続きは窓口での支払い以外ブラウザ上完結する。

 こうして手に入った論文の情報やPDFは、Mendelayなどの論文管理ソフトにまとめる。

 

 分野や個人のスタイルによって多少の差異はあれ、現代の研究者にとって、これらの電子的リソースを使いこなすことが基礎スキルのひとつになっている。

 

 こうしたツールやリソースの普及によって何が変化したのか。それ以前の事情を知らないのだけれど、論文や書籍を入手する速度が飛躍的に向上したことは確かだろう。論文検索サイトでキーワードを打ち込む、めぼしいものをリストアップする、機関リポジトリにPDFがあればその場で管理ソフトに登録して、画面上で論文を読むorプリンタで印刷する。検索語の打ち込みからプリントアウトまで、最短で5分かからない。(よく知らない海外の雑誌とかの場合、ずるずる泥沼化することもあるが、それでもオンラインで解決する事例が十分おおい)。

 

 調達速度の向上によって、単位時間あたりに入手できる論文の数も増える。Ciniiは研究者をパワフルにした。

 ただ、それによって「良い研究」がどんどんできるようになったのか、研究者が幸福になったのかは、なかなかわからない気がする。

 昔は1日に1本の論文を確保するのが限界だったのが、1日に10本の論文を手元に集めることができるようになったとする。ただ、それを読む速度、咀嚼する速度、考える速度も10倍になるわけではない。

 論文を集めるのにかかっていた無駄な時間が省かれるのだから、考える時間もその分伸びるはずという考え方もできる。のだけれど、そんなに単純にゆくだろうか、ともおもう。のったりもったり、文献を探して図書館をさまよっているうちに、少しずつ考えが熟成してゆくという部分もある。アナログ礼賛のつもりはないのだけど。

 

 どれだけ多くの論文を把握してどれだけ上質の論文をどれだけたくさん書けるかが、現代の研究者同士の競争のひとつになっている。この仕組み自体は、必ずしも現代特有というわけではないだろう。ただ、「読んで考える」という根本的な部分の性能はおそらく向上していないのに、入力の量だけがどんどん増加しているのは、恐ろしい。胃のサイズは変わらないのに、お皿の数が飛躍的に増えている。

丁々発止母子

実家に帰ると、妹と甥がいた。

甥は2歳を過ぎて、「いや!」をよく言うようになっていた。

 

お風呂に入る、いや!!

おしめ換える、いや!!

 

母親(妹)とかれの様子を見ていたが、この「いや」に対する即座の応答のキレが、すごい。祖母も「いや」に対応するのだけれど、どことなく間延びがある。言わば振り遅れている。これに対して、母親は154キロの直球を完璧に振り抜いて打ち返している。

(ただし育児においては、打球を捕球して送球するのも母親の役割で、その間に甥はダブルプレーをすり抜けて相手ゴールへ果敢にドリブルを開始し、妹は審判になってオフサイドを取ろうとするが、甥はそこから切り返して華麗なるスリーポイントシュートを狙い、その球をレシーブした妹があげたトスで甥はスパイクを放つが、妹の出すレッドカードをもらってしゅんとした甥はいつのまにか表彰台でうとうとしている。)

 

文字で書きにくいのだけれど、「いや」への「じゃあ、こうね」の応答のタイミングがある。独特のタイミング、間髪入れず、早すぎも遅すぎもしない。考えている暇はなく、それでいて正しい。