しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

初等教育で「トロッコ問題」を使うことの是非

小中学校で「トロッコ問題」を題材に授業することがあるとチラホラ読むことがあって、うーんそれは…と思っていた。個人的な意見だが、初頭教育で「トロッコ問題」を使うのは、相当の覚悟が無いかぎり、やめたほうが良いのではないかと考えている。

 以下のような記事が出たので、この機会に自分の考えをまとめておく。

 

 

 きちんと調査したわけでも、関連データを持っているわけでもないのだけれど、「トロッコ問題」を小中学校の授業の題材にする先生がいないわけでもないらしい。その絶対数や割合は知らない。使い方は先生の数だけあるし、いちがいに否定するものではない。ただ、初頭教育でもいわゆる「考える力」が重視される傾向があり(それ自体は良いことだけれど)、道徳の授業などでも、いちがいに答えが出ない倫理ジレンマ系の題材が用いられることが増えているようだ(それも否定さるべきことではない)。すると「トロッコ問題」の利用もこんご徐々に増えてゆく(増えている)のではないかと推測する。もしそうなるとすると、うーん…という立場で、以下書いてゆく。この推測自体が大外れである可能性もある。

 

いくつか理由を挙げてゆく。

 

1. トロッコ問題そのものに、あまり品が無い

 初等教育中等教育で題材にすることの是非以前に、「トロッコ問題」そのものがあまり品が無い。あなたのせいで5人死ぬ、もしくは1人死ぬ、さてあなたはどうする……と迫るのだから。思考実験として一定の意味があることは認めるが、個人的にはあまり使いたくないタイプの題材だ。この理由はあくまで個人的な趣味や好みのレベルの話であるけれど、「品があるかどうか」という基準はあってよいとおもう。

 品が無いというのは、ひとの死を人数でざっくり処理して、その先を語らないことにある。そもそもそのような態度が現代社会に不可避に埋め込まれているのだとしても、それを暴き出すために唯一最善の方法ではない。


 

2.そもそも小学生は「思考実験」ができるのか

 トロッコ問題は思考実験である。実際にそうした事例があったわけでも、トロッコのレバーを操作する機会が満ち溢れているわけでもない。だからトロッコ問題を使うとき、教師(話題提供者)は「あくまで仮定の話として……」と前置きする。

 この「思考実験」という思考法は、やはりかなり高次の認知処理を求める。「実際にトロッコの暴走事件が起きたのではない」から始まり、「とはいえ実際にあなたがその場にいるものとする」と続いて、「レバーの操作をする」と状況を絞り込まれ、「操作によってこうなる」と選択肢が固定され、最後に判断を求められる。

 つまり、「この話は本当の事件ではない、作り話である」という架空設定の構築・受容能力、「その場にいることにする」という一定の想像力、「こうなったらこうなる」という推論能力、レバーを操作することとその結果を自己の存在に結びつけて考える責任応答能力(の架空的発動)、「自分がレバーを操作すると決めた理由はなんだろう」と架空の判断を反省し、判断作用のエッセンスを抽出する哲学的分析能力、そして「架空の世界の想定であるけれど、現実の社会を状況を反映している」という応用的思考能力、さらにはこれら一連の過程を反省して授業中に発表したりする言語能力が必要となる。要するに、めちゃくちゃハイレベルなことをしているわけだ。

 とりわけ、思考実験なんだけれども現実の問題を反映しているという「応用的思考能力」は、実際の社会問題をある程度知っていなければ成立しない。大学の倫理学の授業で用いるなら、ここの部分、つまり「トロッコのレバー操作をする機会なんて絶対にないけれど、実は似たようなことを私達はいつのまにかやってるんじゃないか」という誘導がキモになるし、教員の腕の見せ所になるだろう。そこから具体的事例に進んでゆくというのが一つの手法になるだろうけれど、それ小学生にできますか、という話になる。

 

3. 最適な手段ではない

 初頭教育に限らないが、トロッコ問題であれ校外学習であれ、子どもに何かをさせる以上、心身の安全を脅かすものではないか、そこで生じうるリスクは合理的な範囲の小ささに抑制されているか、というチェックが常に行われなければならない。さらに、トロッコ問題が何らかの教育目的の達成に資するとしても、絶対にその問題でなければならないか、という点もクリアする必要がある。学習者の心身のリスクが最小となる見込みがあり、かつ、目標達成のために唯一の手段でないかぎり、トロッコ問題を題材に採用する合理的理由は成立しない。

 上記の新聞記事では、「授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという」としている。「周りに助けを求めることの大切さを知ってもらう」という目的に対して、トロッコ問題はリスク最小かつ唯一の手段であっただろうか。それは違うだろう。

  そもそも周りに助けを求めて複数人で判断しても選択の正しさを担保しないこと、および複数人で考えることで決断の心理的負荷が下がることの非合理性を突くのがトロッコ問題の要点なのだから、なんというか「わかってますか感」がやや濃い。


4. 教員が勉強してるかどうか

 「トロッコ問題」に明確な答えは無い。だから授業の題材として使うことができるのだけれど、答えが無いにしても、過去に多くの倫理学者がいろいろな考え方を蓄積している。大学の倫理学の授業や論文でトロッコ問題が使われるとすれば、そうした倫理学上の学説をそこから紹介・検討することができるからだ。トロッコ問題自体はさほど古いものではないけれど、倫理学の歴史はずっと厚い。トロッコ問題はいわば入り口のひとつにすぎない。だから倫理学の厚みや深みに学習者を触れさせることができるなら、そうした力量を教師が持っているなら、題材として意味がある。

 そうした力量が無ければ、「いろんな答えがありますね、どれも否定せずに認め合いましょう」「世の中には答えが一つに絞られない問いがたくさんあります」といったのっぺりしたまとめ方をしてしまいがちなのではなかろうか。

 

5. 授業としては盛り上がって成立してしまう(ように見える)

 個人的にこれがいちばんやっかいではないかと思っているのだが、小学校ではわからないけれど、おそらく中学校以上ならトロッコ問題や、類似する倫理ジレンマ系の題材は、おそらくとりあえず盛り上がる。学習者はそれなりに理由付けができ、説明ができ、学習者同士で「議論」ができてしまう。すると「答えの無い倫理的な問いについて、クラス全員がじぶんの頭で考えて活発に議論した」という状態が生まれる。だがそれは本当に学習者の成長に寄与しただろうか。とりあえず盛り上がったかんじ、で終わっているのではなかろうか。

 

6. 倫理ジレンマという思考法をあらかじめ設定してしまう。

 「正義の倫理」および「ケアの倫理」という概念がある。わたし自身、この方面の専門ではないのであまり書けないのだけれど、正義の倫理とは基本的に「二者択一」型の問いを考えることから始まり、その選択に正義の本質を求める倫理学の思考法だ。トロッコ問題はまさしくこの正義の倫理にあてはまる。この「正義の倫理」は、どちらかというと男性的なものの考え方である。「ケアの倫理」は関係のなかで正しさを探ろうとする。ジレンマを引き受けるが、二択のどちらでもない解決を受け入れる。

 どちらが優れているということではないのだけれど、二者択一・決断型の思考法は、人間の倫理的な思考法の一部を強調したものにすぎない、ということは確認しておきたい。トロッコ問題についても、こうした背景をわかったうえで利用するか否かで大きく授業の方向性が変わるだろう。