しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「迷惑な空襲」/『この世界の片隅に』を見ながら

 おばあちゃんに一度だけ空襲のことを聞いたことがある。聞いたといってもそう詳しい話をされたのではなく、いったいなぜその話題になったのかもよく覚えていないのだけれど、「火なんかすごい熱くて、ガラスも溶けてね」と言った。そして「もうあんな迷惑なことしたらあかん」と決断するように短く言って終わった。実際、物語というよりは3文くらいで終わった。

 この「あんな迷惑なこと」という表現を聞いたとき、いくらなんでもそりゃないだろう、とわたしは思った。あまりに他人事というか、無責任というか、ゴミ出しのマナーの話じゃあるまいし。そして近代国家の公民としての戦争責任というものも、1ミリの千分の一くらいは引き受けていいのではないかとおもった。おばあちゃんにそれを押し付けるのは酷だけれど、「迷惑なこと」というのはあんまりだと。もちろんおばあちゃんが生きていた当時、彼女の政治的主体といったものは無いにひとしい。選挙権もなければ、意思を表明する自由もない。けれどそれでも、わずかな責任のかけらみたいなもの、空襲体験と大文字の歴史の間に「国民」としての自分を位置づけるような表現があってもいいのではないかとおもった。「迷惑なこと」というのは、その位置のまったく対極にある言い方だ、と。

 

 そう思っていたのだけれど、アマプラで『この世界の片隅に』を見ていたとき、この「迷惑なこと」という表現が、なぜかしっくりと腑に落ち直した。とくに空襲警報が何度もかかって、はるみちゃんが防空壕のなかで「もう空襲警報飽きたぁ」と言ったらへんで、すっと、うちのおばあちゃんは確かにそう思ったんだな、思っているんだな、ということがわかった気がした。上の段落で書いた「主体」や「歴史」や「国家」といったワードとは全く別の視界があった。

 おばあちゃんは『この世界の〜』のすずさんのような感受性は持っていない。また、すずさんが「迷惑なこと」という実感を持っていたということでもない。ただ、あの世界のなかの登場人物の一人に、そういう感想を持つひとがいても全く不思議はないなとおもえた。不思議な作品だ。

 

 それにしても、「もうあんな迷惑なことしたらあかん」というのはきわめて不思議な表現である。「したらあかん」の「する」主体は誰なのだろう。焼夷弾を落としたアメリカに向けて言っているのか、開戦した大日本帝国に向けて言っているのか。自分を含めた、近代国家の国民としての同世代の人びとに政治的に呼びかけているのか、無差別爆撃という手段を非難しているのか。おばあちゃんはそこらへんをほとんど分節していないし、できない。世界や歴史がなんらかのメカニズムによって駆動し積み重なってゆくという見方をせずに、もっともっちゃりした視界で世界を見ている。岡山の田舎の旧家の農家でそれなりに良い暮らしをしていたら戦中に縁談が来て、家から駅までゆくタクシー用の木炭を役所から特配してもらい、岡山駅から神戸駅まで白無垢で汽車に乗って突然都会の旅館の嫁になってしまった。おばあちゃんにとって、夫となったひとは東京の学校に行っていたたいそう賢いひとであるが、自分自身は「学」はない。もにゃーっとした世界を見上げている。するとそこに焼夷弾が落ちてくるし、夫は根こそぎ動員で満州に送られるしで、そりゃたしかに迷惑なことである。「もうあんな迷惑なことしたらあかん」という断言は、彼女がそうして生きながら最終的に得た結論である。ポリティカル・コレクトネスには欠けているかもしれないが、生きた視界から剥がれていない。