しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

声について

声とはなんだろうか、とおもう。

心地よい声、耳障りな声、というものがある。

 

耳障りな、好きではないタイプの声だからといって、その声の持ち主のことが常にきらいになるということはない。好きな声の持ち主のことがそのままで大好きになるとは限らないけれど、すくなくとも、好ましいなにかを感じる。

 

過去の恋人や友人の顔を直接思い出せないということが、よくある。しかし声を思い出すことができないということは、ほとんどない。過去の知り合いの声すべてを記憶しているというわけではない……声さえ思い出せないひとのことは、すでに記憶のなかで消えてしまっていると言わざるをえない。

 

じぶんの声があまり好きではない。すぐに上ずって甲高くなり、早口になり、しわがれてきて、かと思えばもそもそと低く小さく潰れてしまう。声質や声帯の特性よりも、「上ずる」とか「小さく潰れる」といった対人での態度や性格のほうが自己嫌悪を引き寄せるのだろう。上ずることも、淀んでしまうこともなく、ちょうどいいバランスでゆっくり落ち着いて話せるひとのことが、たいそううらやましい。とはいえそのようなひとも、自分の声そのものが大好きだと感じているかどうかと想像してみると、案外そうではないかもしれないと思える。

 

そもそも、自分の声や自分の喋り方が大好きだという人に会ったことがない。ひそかにそう感じているひともいるのだろうか。声優や歌手やアナウンサーといった、声を仕事にするひとのことはさしあたり考えないとして、それ以外で「自分の声が好き」と確信するひとがいたなら、(余計なお世話だけれども)妙に不健康な気がする。自分の顔が好きというひとのナルシズムとは、どこか異なる。

とはいえ、声に自信をもつことはたいせつだろう。