しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

木を見ることについて

 木が風に吹かれているのを不思議な気分で見ることがある。とくに、窓の向こう、ガラスを通して見るとき。

 木の枝葉が揺れているので、風が吹いているのだとわかる。けれどその光景はガラスの向こうの視覚に過ぎず、吹いているはずの風はじぶんの肌には触れてこない。だから、風が本当に吹いているかどうか、あまり確実ではない。いや、木があのように揺れていることの原因は風以外にはありえないから、揺れる木を見ながら風の存在を定立するのは、なにも間違ってはいない。間違っていないけれど、風そのものを見ているわけではない。

 

 そこで、強いて風が吹いているとも考えず、かといって風が吹いているかどうかわからないぞと強いて疑うこともなく、木の枝葉が揺れるのをただ見ている。すると、とてもとても不思議な気分になる。なにが不思議なのか説明が難しいのだけれど(だから不思議と呼ぶほかない)、強いて言うなら、世界がさまざまな動きに満ちあふれていることへの驚きがある。そこに風があるから、と理由付けを急いでしまうと、案外この細かで大きな動きの数々は見落とされてしまう。

 この驚きをもうすこし言語化してみる。樹木の肢体は、普段おもっているよりもはるかに複雑に、しなやかに動くのだということに気づく。古代から人間は「植物」と「動物」をはっきり区別してきたけれど、こうやって見る限り、木はけっして「静物」ではない。もちろん、木が足によって歩き回ったり、筋肉の作用によって枝を自らぎゅっぎゅと搔き動かすことはない。けれど石像のように佇立しているのではなくて、樹木は樹木なりの仕方で、動きを通じても世界と関わっている。

 もうひとつ気付くことは、木の揺れ方には独特のリズムが含まれる、ということである。なるほど木が風に吹かれて左右にどおうどおうと揺れることは誰でも知っている。けれども、いま、揺れる木をできるだけそのままに感じ取ろうとするとき、そのリズムはきわめて複雑でこまやかな複合体であることに気づく。主軸となる幹があり、そこから枝が分かれていて、先に行くほどに枝が細かくなり、先端には大量の葉がある。それらの節がそれぞれの周期と振れ幅で揺れつつ、全体として調和を保っている。この複合的リズムは木の一本一本がそれぞれ独自に持つけれども、林全体でも「まとまり」をもって揺れている。林全体のリズムと動き、それぞれの樹木全体の、そして個々のこまかな枝葉のリズムと動き、それらが個別かつ全体的に視界に収まっている。人間はこれほどまでに細やかに風に吹かれることはできない。