しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

怒りについて

 先日、大学の売店に行ったとき、見知らぬひとが店内で携帯電話を耳に当てていた。わたしがそばを通り過ぎたとき、そのひとは突然電話の相手にむけて怒りを露わにした。

「それは授業の問題でしょう! わたしは被害者なんですよ!」

と、そのひとは言った。そのひとが教員なのか学生なのか、それ以外の立場のひとなのか、また電話の相手が大学の事務方なのか教員なのか、まったくわからなかった。

 

 おもわずそのひとの方に目を向けてしまったとき、見てはいけないものを見てしまったというかんじがした。下品な好奇心もあった。

 

 そのひとの顔つきは怒りそのものだった。眉と目が釣り上がり、口が大きく横に開いていた。電話なのだから相手に見せるための表情ではなかった。鬼の形相というのか、怒りの純粋な質を「お面」にして、そのお面が顔の裏側から表に浮き出て、張り付き、完全に一体化したかのようだった。

 何に怒っていたのかわからないけれど、とにかく怒りを爆発させるに足るなにかが確かにそのひとに起きた(相手からそのような仕打ちを受けた)のだろう。

 

 「見てはいけないものを見てしまった」と感じたのは、その表情や声の破裂に、ある種の「余裕の無さ」を感じ取ったからだとおもう。その怒りはまさに今この瞬間、この場で、その顔において爆発しているものだった。

 これに対して、余裕のある怒り(?)という怒りの形態があるのだとおもった。この形態の怒りには、その感情を向こうへ届け、貫いてゆくという時空間的な「見通し」がある。視野や射程がある。距離感があるので、相手へ怒りを差し向けつつ、相手の弁明や謝罪やクールダウンを受け入れる余裕も無いではない。怒りにおいては普通、時間・空間の視界が狭まってしまうと思われているけれど、むしろ怒りに独特の「貫き視界」が生成していると考えるべきかもしれない。

 あのひとの怒りは、そうした志向性が無いように思えた。怒りは確かにここで爆発しているのだけれど、この場で内にくぐもってしまい、むしろ自分の内部へ濃縮してゆくような。断続的な叫びが相手の耳にぶつかるけれど、そこで砕けてしまう。余裕のある怒りが砲弾やミサイルの投射だとすれば、鬼の怒りは手榴弾で自爆するような怒りの破裂である。

 爆発するけれど届かない怒りは、内側への濃縮を繰り返して次の爆発の機会を待つのかもしれない。そうして怒りの源泉が蒸留を繰り返してゆくと、そこで当人とは別の何かの存在、「鬼」そのものが巣食うようになるのかもしれない。そうすると、怒りは世界の見通しをどんどん失わせてしまい、世界はただ、のっぺりした、決して壊れない壁のようなものとしてその人の周囲を取り囲むものになるのかもしれない。

 他人の心理過程を想像しすぎるのは下品なことなので、ここらへんでやめておく。あのひとの怒りが解除されればよいなと、ひとごとながら思う。