しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

臭いについて

 今朝、自宅のトイレの水位が下がっていた。いつもは洋式便器の中に溜まっている水が無くなっていた。原因はわからない。気圧のためか、あるいは下水道工事か。

 水位が下がっていることに気づいたのにわずかに遅れて、ひどい悪臭を感じ取った。普段は溜まっている水で封じられている下水道の臭いが昇ってきたのだろう。あわてて水を流すと、普段どおりに水位が戻った。けれども悪臭は残った。トイレの窓を開け、扇風機をトイレの入り口に置いて回し、塩素系洗剤を便器に垂らして再度水を流した。臭いはかなり弱くなった。それでもまだ、何年も掃除していない公衆トイレのような、酷く「こびりついた」ような臭いを認めた。

 

 臭いが収まるのを待っているあいだ、臭い/匂いは「見る」「聞こえる」といろんな違いがあるなと思っていた。

 何かの臭いを感じるとき、臭いの原因が存在しているという知覚が同時に生じている。わたしたちが臭い/匂いを感じる時、つねに「これは何の臭いだ?」という探索を始めている。臭いの原因はすぐさま特定されることもあれば、具体的な探索の後に発見されることもある。探索は、臭いの原因そのものの把握と、空間的な特定によって終わる。「ここから、これが、臭いを放っていたのだ」とわたしたちは知る。そうした特定が不首尾に終わったままその場を去ることもありうるが、臭いがつねにその原因の存在の定立とセットになって立ち現れているということに変わりはない。

 聴覚の場合も、おおむね同様に、聞こえることと、その音の原因の把握がセットになっている。鳥の鳴き声が聞こえることは、鳴いている鳥が近くにいることを意味している。

 視覚の場合はかなり事情が異なる。視覚の場合、それが見えていることがそれが存在していることそのものである。いまわたしは、解釈学についての日本語の論文集を目の前の机の上に見出す。それだけで済んでしまう。その本をわたしが見ることになった「原因」は他にさまざまにある(その本は後輩のKさんが図書館から借りて持ってきたものであり、その本は高名な現象学研究者が20年以上前に編纂したからこの世に存在するのであり、天井の照明と窓から放たれた光がその本の表面で反射して私の網膜に達しているために像を結ぶのであり、私がコンタクトレンズを付けているからその本の背表紙と形をはっきりと見出すことができるのであり、私がそもそも字を読むことができ、「本」とは何かを既に理解しているから自然とその本を見出すことができるのだ、云々)。しかしそれらは原因というより、わたしが本を見出すことができることの前提や「由来」であって、それは臭いや音の「原因が存在しているはず」というセット的感覚の構造とは異なるように思える。

木を見ることについて

 木が風に吹かれているのを不思議な気分で見ることがある。とくに、窓の向こう、ガラスを通して見るとき。

 木の枝葉が揺れているので、風が吹いているのだとわかる。けれどその光景はガラスの向こうの視覚に過ぎず、吹いているはずの風はじぶんの肌には触れてこない。だから、風が本当に吹いているかどうか、あまり確実ではない。いや、木があのように揺れていることの原因は風以外にはありえないから、揺れる木を見ながら風の存在を定立するのは、なにも間違ってはいない。間違っていないけれど、風そのものを見ているわけではない。

 

 そこで、強いて風が吹いているとも考えず、かといって風が吹いているかどうかわからないぞと強いて疑うこともなく、木の枝葉が揺れるのをただ見ている。すると、とてもとても不思議な気分になる。なにが不思議なのか説明が難しいのだけれど(だから不思議と呼ぶほかない)、強いて言うなら、世界がさまざまな動きに満ちあふれていることへの驚きがある。そこに風があるから、と理由付けを急いでしまうと、案外この細かで大きな動きの数々は見落とされてしまう。

 この驚きをもうすこし言語化してみる。樹木の肢体は、普段おもっているよりもはるかに複雑に、しなやかに動くのだということに気づく。古代から人間は「植物」と「動物」をはっきり区別してきたけれど、こうやって見る限り、木はけっして「静物」ではない。もちろん、木が足によって歩き回ったり、筋肉の作用によって枝を自らぎゅっぎゅと搔き動かすことはない。けれど石像のように佇立しているのではなくて、樹木は樹木なりの仕方で、動きを通じても世界と関わっている。

 もうひとつ気付くことは、木の揺れ方には独特のリズムが含まれる、ということである。なるほど木が風に吹かれて左右にどおうどおうと揺れることは誰でも知っている。けれども、いま、揺れる木をできるだけそのままに感じ取ろうとするとき、そのリズムはきわめて複雑でこまやかな複合体であることに気づく。主軸となる幹があり、そこから枝が分かれていて、先に行くほどに枝が細かくなり、先端には大量の葉がある。それらの節がそれぞれの周期と振れ幅で揺れつつ、全体として調和を保っている。この複合的リズムは木の一本一本がそれぞれ独自に持つけれども、林全体でも「まとまり」をもって揺れている。林全体のリズムと動き、それぞれの樹木全体の、そして個々のこまかな枝葉のリズムと動き、それらが個別かつ全体的に視界に収まっている。人間はこれほどまでに細やかに風に吹かれることはできない。

怒りについて

 先日、大学の売店に行ったとき、見知らぬひとが店内で携帯電話を耳に当てていた。わたしがそばを通り過ぎたとき、そのひとは突然電話の相手にむけて怒りを露わにした。

「それは授業の問題でしょう! わたしは被害者なんですよ!」

と、そのひとは言った。そのひとが教員なのか学生なのか、それ以外の立場のひとなのか、また電話の相手が大学の事務方なのか教員なのか、まったくわからなかった。

 

 おもわずそのひとの方に目を向けてしまったとき、見てはいけないものを見てしまったというかんじがした。下品な好奇心もあった。

 

 そのひとの顔つきは怒りそのものだった。眉と目が釣り上がり、口が大きく横に開いていた。電話なのだから相手に見せるための表情ではなかった。鬼の形相というのか、怒りの純粋な質を「お面」にして、そのお面が顔の裏側から表に浮き出て、張り付き、完全に一体化したかのようだった。

 何に怒っていたのかわからないけれど、とにかく怒りを爆発させるに足るなにかが確かにそのひとに起きた(相手からそのような仕打ちを受けた)のだろう。

 

 「見てはいけないものを見てしまった」と感じたのは、その表情や声の破裂に、ある種の「余裕の無さ」を感じ取ったからだとおもう。その怒りはまさに今この瞬間、この場で、その顔において爆発しているものだった。

 これに対して、余裕のある怒り(?)という怒りの形態があるのだとおもった。この形態の怒りには、その感情を向こうへ届け、貫いてゆくという時空間的な「見通し」がある。視野や射程がある。距離感があるので、相手へ怒りを差し向けつつ、相手の弁明や謝罪やクールダウンを受け入れる余裕も無いではない。怒りにおいては普通、時間・空間の視界が狭まってしまうと思われているけれど、むしろ怒りに独特の「貫き視界」が生成していると考えるべきかもしれない。

 あのひとの怒りは、そうした志向性が無いように思えた。怒りは確かにここで爆発しているのだけれど、この場で内にくぐもってしまい、むしろ自分の内部へ濃縮してゆくような。断続的な叫びが相手の耳にぶつかるけれど、そこで砕けてしまう。余裕のある怒りが砲弾やミサイルの投射だとすれば、鬼の怒りは手榴弾で自爆するような怒りの破裂である。

 爆発するけれど届かない怒りは、内側への濃縮を繰り返して次の爆発の機会を待つのかもしれない。そうして怒りの源泉が蒸留を繰り返してゆくと、そこで当人とは別の何かの存在、「鬼」そのものが巣食うようになるのかもしれない。そうすると、怒りは世界の見通しをどんどん失わせてしまい、世界はただ、のっぺりした、決して壊れない壁のようなものとしてその人の周囲を取り囲むものになるのかもしれない。

 他人の心理過程を想像しすぎるのは下品なことなので、ここらへんでやめておく。あのひとの怒りが解除されればよいなと、ひとごとながら思う。

 

400年生きる深海ザメ

 ある種のサメは深海で400年生きる、というニュース記事を読んで衝撃をうけている。全ての個体がそのように長生きなのではなく、捕獲されたある幸運な個体が400歳だった、ということなのだろう。

 

 400年前、日本では徳川家康が江戸に幕府を開き、ヨーロッパではデカルトが暖炉の前で蜜蝋を見つめていた。地上のあちこちで人間が戦争をしたり科学を発展させたりしているあいだ、深海でサメがひっそり生き続けていた。いまもそのように生き続けているヤツがいるのかもしれない。

 

 400年間深海で過ごすとは、どういうことだろう。

 まず、サメが人間のような年代記法でものごとを覚えているとは思えない。つまり、「2001年にNYで同時多発テロが起きた」とか、「祖父が死んだのは確か自分が9歳のとき」といった時間と歴史の把握の仕方である。

 そもそも、「年」という感覚があるのかどうか。おそらく多くの地上生物は3年前と4年前を区別していない(人間も普段はそこまで意識しない)。ただし多くの場所では四季があり、繁殖や冬眠や毛の抜け替わりなどのリズムがある。他方、深海の四季は地上ほど激しく遷移しないだろう。わずかな水温の変化や、匂いや水圧の変化があるのかもしれない。深海ザメは1年ずつ、そうしたかすかなささやきのようなリズムを積み重ねてゆく。「年」という感覚があるような無いような、不思議な、ぼんやりした過去の積層。

 深海だから、「日」の感覚もほとんど無い。昼間と夜の区別がほぼ無い。どよめきの無い白夜をのたりのたり、ずうっと泳いでいる。じぶんの時間を明確に刻んでくれるものが無く、思い起こせばずうっと切れ目の無い時間が自分の孵化の瞬間まで続いている。とはいえ「思い起こす」とはかなり擬人化した表現で、実際のところ深海ザメが「やんちゃな学生時代」や「貧乏だったあのころ」や「世界と視野がぐんと広がった時期」などという想起をすることはないだろう。人間が「ものごころ付いたころ」という奇妙な表現で指し示しているあの意識の始原と、その後の年代記的な自分史をセットにして双方を把握しているのとは反対に、深海ザメはずっと「ものごころ」付いていないまま、それでいて400年間を生きている。

 人間は老いると一年が速くなると俗に言う。5才児にとっての1年は、それまでの人生の1/5に匹敵するのだから、当然波乱にとんでいて、あまりに長い。50歳にとっての1年は、これまで過ごしてきた人生の1/50の時間を繰り返すだけだから、すぐに過ぎてしまう。これをそのまま深海ザメに移し替えると、かれにとっての新たな一年とは、これまでの人生(鮫生)の1/400にすぎない。すごく速く過ぎるだろう。しかし、人間が「もう1年経ったの?速いなあ」と言うとき、体感時間とカレンダー(および過去の自分の体感)とを比較して、そのズレに驚いているわけであって、深海ザメは自分の体感時間を比較する他の対象を持たない。ただ過ぎてゆくが、それは速くも遅くもない。

「嫌なのです」を聞くということ

 嫌なのですと言っている人がいるなら、なぜ嫌なのか、とりあえずじっくり話を聞いてみるのも良いのではないか。聞いて、聞いて、聞き尽くして、相手の思考のさまざまな層をめくっているうち、いつのまにか自分自身の思考の層が開示されてしまい、自分の心理的抵抗の核心と、相手の主張の根幹部分がちょうどお互いに解錠しあう、という瞬間も、意外と無いことはない。

 

 「クソフェミ」や「まなざし村」や「村民」といったワードを使い慣れるよりも、そして正誤善悪の判断を効率良く下すよりも、「なぜ嫌なのか」を聞き取る癖を付けたほうがいいんじゃないか、とおもう。

 このように主張するのは、大きく分けて3つの理由がある。第一に、「なぜ嫌なのか」をじっくり聴くことは、人間の理性や正義に直結しているということ。本当に正しいことは、いずれの意見が理性的であるかを即座に裁定しようとする立場からはたいてい見落とされてしまう。人間の理性の役割は、たぶん、他者のことばが非理性的であると却下することではなく、はじめは非理性的であると思えたようなことばの奥から、隠れた真実を探りとることにある(実際、「隠して」いたのは自分自身の側なのだけれど)。相手の言い分を1,2分聞いただけで「おまえの言っていることは無茶苦茶だ」と却下するような態度は、そのひとの世界観を守るけれども、正義についての信念を更新することはない。

 第二に、「なぜ嫌なのか」を聞き取る癖を付けていかないと、意外と世の中の変化から取り残される、ということ。近代社会の大きな変動のいくつかは「それは本当に嫌だからやめてくれ」という声を原動力として生じてきた。世の中の安全は、それが声になる前に殴りつける、あるいはそうした声がささやかれる場所を監獄や取調室に限定する、あるいは「〜〜主義」「〜〜イズム」というイデオロギーとして性急にラベル付けすることで保たれてきた。「なぜ嫌なのか」を聞いて理解しようとする態度を身につけることで、あなたは「抑圧に加担していた多数派」から「声を上げ始めた弱者に味方する意識高い市民」へとスムーズにクラスチェンジすることができる。その機会を逃すと、「頑迷な差別主義者」にクラスチェンジさせられてしまう。

 第三に、「なぜ嫌なのか」を聞くことを避ける習性を身に着けてしまうと、万が一何らかのハラスメントで訴えられたとき、事態を確実に泥沼化させる選択肢へと突き進んでしまうよ、ということ。

死ぬことを考える。

  わたしが死ぬとき、それは今のことではなくて、わずかに未来のことである。その未来とは、もしかしたらこのエントリの「公開する」ボタンを押す直前かもしれないし、あるいは数秒後のことかもしれないけれど、とにかく「今」ではない。

 未来は、じぶんの体から離れたところにある。数時間後、数日後、数年後、あるいは死の直前の「じぶんの体」を想像することはできる。その「未来の体」は、おそらく老いや病や諸々の変化を引き受けている。けれども、その未来の体は想像されたもので、わたしの、いまのこの体からふわりと離れている。

 

 ところで、死ぬのはまさしくこの体である。それとも、死ぬのは精神や脳や魂や実存や関係や自己や存在や人格なのだろうか。そうしたもろもろの概念においても、たしかにわたしは死ぬ。けれどそれと同時に、なにより死ぬのは、この体である。それはたとえば、病によってさまざまな内蔵の機能が劣化した体であり、事故や事件によって激しく裂かれた体であり、水の底で大気とのつながりを失った体である。そのあと、腐敗し、焼かれ、灰にされ、埋められるか、もしくは長期間放置され、分解される。いずれの場合もわたしの体で起きる。

 しかしそれらの過程が起きるのは、「今」ではなく、未来のどこかにおいてである。病や老いや怪我によって崩落するのはまさしく「この」体だけれど、そう言うときの「この」には、未来(の体)はかなり弱い程度でしか含まれていない。

 

 死ぬことは、とても未知の理念である。ところがそうは言っても、わたしはそれなりの仕方で自分の死を既知のものとしている。問題は既知と未知の日常生活的な定義が死については使えないだろう、ということにある。ある未知のものが既知になるとは、そのあるものが自分に近づいて、とてもはっきりとしたかたちを自分に示したのち、自分から途切れてしまう、ということである。地面に金属質の小さな丸いものが落ちている。なんだろうと近づいてゆく。わたしはそれがコインであるかもしれないという予期を描いている。近づくことによってその予期が次第に肉付けされてゆく。ついにコインであるとわかる。接近はそこで打ち切られてしまう。「あれは何なのだろう」というわたしの関心は消失して、あとはそれをポケットに入れるか、無視して通り過ぎてしまう。地面に置かれたままでも、ポケットの中に入っても、コインはすでにわたしから途切れている。

 ところが、死ぬことは、このような仕方で既知になるということはない。

名刺交換直後のプチ雑談ができない

 ここ1~2年、うっすらと気づき始めたのだけれど、どうやら初対面のひとと名刺を交換したあと、いただいた名刺の内容を見て、なにか一言ふたこと感想を言い合わなければならない、そういう風習というかマナーというのか、とにかくそういうことになっているらしい。

 感想はなんでもよくて、デザインを褒めてもよいし、肩書や役職から何かを連想しても良いらしい。そうして生まれた雑談から、お互いの雰囲気や距離をおおむね探りとり、だんだんと本格的な話に移行する。あるいは初対面では深入りせずに、距離をわずかに縮めたことを確認して去る。そういう決まりらしい。

 

 しかし、これはわたしにとって非常にめんどくさい。そういうマナー?があるらしいと(殊勝に)気づいてからも、それを実践することがなかなかできない。聞きたいこと、言いたいことがあるなら、名刺ではなく、眼の前にいる相手にすぐ直接聞けばよいのだし、自分もそのようにされたい。話を聞きたいわけではないのに名刺を交換するというのも変であるし。だいたい名刺から読み取った情報で始めた雑談から、どうやって哲学や倫理の話にジャンプせよというのだ。いきなり話そう、いきなり哲学しようよ、とおもう。

 

 なお、私の名刺を受け取ってくださった方のほぼ全てが、きれいな名刺ですねぇと褒めてくださる。せやろ、とおもう。わたし自身に興味が無かったり、話し合いたいことが無くても、褒められるのは嬉しいので、わたしの名刺を褒めてくださるのは全然OKです(なんだそれ)。