しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

頭を下げるということ。

さいきん、頭を下げること、を覚えた。

そう大げさなことがあったわけではない。お世話になったひと、なっているひと、これからお世話になるかもしれないひと。そのようなひとに対して、感謝をこめて、素直に、強引なかんじを帯びず、ただ頭を深く下げて一礼する。大切なことだとおもう。

 

そして気づいたことは、ほんとうに心の底から素直な気持ちで、おだやかな笑顔をたたえてお辞儀をしてみると、深い感謝の念がごく自然にこころを満たし、

 

そしてその直後に、なにかすごく腹立たしい気持ちがふつふつと湧き上がってくる、ということである。

なぜ俺が頭を下げねばならんのだ。何なのだこの非対称性は。むしろ全宇宙が俺にひれ伏せよ。そういう、謙虚な怒りが沸騰してゆく。

 

誤解の無いよう書いておくと、頭を下げるつもりもないのに面従腹背でニコニコお辞儀をしています、ということではありません。深く純粋な感謝の念のあとに、同じ深さから怒りが湧いてくる、ということ。

 

ふしぎなものだとおもう。

被害者をだまらせる技法・再 山口放送「奥底の悲しみ」演出・クレジット非表示問題

 

 若手女性研究者による戦時性暴力の論文が、山口放送のドキュメンタリー番組に利用されたものの、研究者の氏名が番組にクレジットされず、さらに番組の独自取材であるかのように演出されている、という問題。研究者(山本氏)は番組ディレクターに著者名/論文題名のクレジット等について一定の配慮をするよう代理人を通じて求めたが、相手側からはゼロ回答しか返ってきていない、という。

 

 引揚女性に対する性暴力の存在については以前どこかで読んだのでうっすら知っていたが(というか、読んだのはこの山本氏の論文だった可能性が高い)、研究者とテレビ局との間でこのような問題が起きていたことは、研究者自身によるこの告発/公表によって初めて知った。

 すでに上記サイトで山本氏自身が整理されているので蛇足になるが、この問題には

(A)テレビ局が研究者の研究成果を利用しながら、研究者名をクレジットしない(さらにあたかも独自取材の成果であるように演出している)という著作権剽窃/あるいは道義上の問題と、

(B)若手女性研究者による戦時性暴力の研究成果を男性が横取りし、なおかつその事実を隠蔽しようとする、セクシズムの問題

が複合している。

 

 以下、主にBの問題について、いくつか感想を書きたい。

 上記サイトで山本氏が、山口放送ディレクターの対応に「セクシズムの問題」を読み取っているのは、きわめて的確なことであるとわたしはおもう。

 仮にこの著者が男性の若手研究者だったら、あるいはベテランの男性「教授」であったら、あるいは女性でも一定年齢以上の「教授」であったら、ディレクターの対応は同じではなかっただろう。最初からクレジットとして氏名を入れていただろう。

 ただし、「小娘あつかいして*1甘く見ている」というだけの話ではない。女性による戦時性暴力の発掘/研究を、地位・発言力のある男性が横取りし、制御しようとしているという点に、より根深い問題がある。

 もしこの研究内容が「再生医療技術のブレイクスルー」や「新たな物理法則数式の発見」や「本能寺の変について通説を覆す古文書の発見」であったなら、ここまで問題は”こじれ”なかったのではないか。むしろ「リケジョ」「レキジョ」などと研究者をアイコン化しようとしたかもしれない。

 (主語を敢えて大きく取った上での)「男性」にとって、女性が女性への暴力を理解し、告発することは、じぶんの存在を脅かす極めて危険な行為に映る。男性から女性への暴力を、女性が「知恵を付けて」告発してくる、ということだからだ。

 もちろん、これは非常に大雑把な「男性」というイメージのうえでの話である。この番組ディレクターはもちろん引揚女性に対する性暴力加害者ではないし、むしろ逆に、その暴力の存在を番組を通じて掘り起こそうとする立場である。

 ところが山本氏への対応においては、番組ディレクターは若手女性による研究成果を結果的に隠蔽・無効化しようとしている。結局、上記の大雑把な「男性」イメージに同化反復してしまっている。テレビと学術界の慣習のズレは確かにありうるものの、当の研究者からすれば、自身のプロジェクトに対して「男性性」が強力に介入・制御しようとしていると映っているのではないか。

 (おそらく、性暴力の発見・告発にかぎらず、そもそも女性同士が独自に何かをしようとすること自体を、このイメージとしての「男性」は許すことができないのだ。自分の目の届かないところで女性が独自に親密圏を作り出すことに恐怖を覚えるのだろう。自分がそこに参与しえないという疎外感のため、また自分の目の届かないところで生殖を始めるのではないかという不安のために。そこで「かれ」は自分の視線の先をすべて照らし出そうとする。ただし自分の下半身は暗がりのままにとどめておこうとする)

 

 番組ディレクターから山本氏への返信は、以前とりあげた伊藤詩織『ブラックボックス』での山口氏の返信と、どこか似通っている……というか、ある観点においては、これは本質的に同根のものなのだろう。

 

最後に、私はこの一連の出来事はセクシズムの問題でもあると思っています。第一に、女性の性暴力研究の成果を男性が自分のもののように発表するというグロテスクさ、第二に私からの批判に対する応答の問題です。佐々木氏は私あてに「外部機関に聞くならば、全てを話さないといけないので、僕はやらない方がいいと思います」「学術界と放送界のルールの違いから生じたことでしょうから、出るところに出ても何の解決にもならないと思います。お互いに傷ついて終わりのような気がします」などのメッセージを送ってきたのですが、私が男性だったとしてもこのような脅し文句をちらつかせたりするでしょうか。
 
そもそも「全てを話さないといけない」「傷ついて終わり」と言われても私にはまったく心当たりがないのですが、それでも複数回にわたってこのような文言が送られてくれば何らかの報復も覚悟しなければならないのかと弱気になります。
 
女性の研究を利用し批判を向けられると口を封じようとする。佐々木氏は「奥底」で描いた性暴力や二次加害を自ら反復するという逆説に陥っているのではないでしょうか。
 
 ここでは「被害者をだまらせる技法」が再度発揮されている。「お互いに傷ついて終わり」という表現は、「実は双方が被害者なんだよ」という”諭し・赦し”のメッセージを意味している。これはつまるところ「あなた自身もわたしに対する加害者なんだよ」ということであり、関係をイーブンに持ち込もうとする戦術である。そのことを”気づかせ”たうえで、そちらが告発を取り下げさえすれば、平和が戻ると脅迫的な慈愛でもって示唆するのである。
 なぜ、このような言い回し・語り口を、「かれら」はごく自然に、流麗に運用することができるのであろうか。そしてまた、なぜその言い回しが、みな同じなのであろうか。
 

*1:山本氏とディレクター佐々木氏の実年齢は存じ上げないのだが、学術振興会特別研究員という肩書から、佐々木氏よりやや年下であろうとさしあたり仮定させていただいている

FF7シナリオ再考: ジェノバの存在がどうしても浮く

  以下は妄想です。

 

 結論を先に書いておくと、FF7のシナリオは(1)「〈古代種/ライフストリーム/エアリス〉対〈魔晄/環境破壊/神羅〉の戦い」を基盤とした設定・シナリオ原案と、(2)「神羅カンパニーのエースだったセフィロスが自分の出自を求めてジェノバに行き着き神羅から離反し、セフィロスを師と仰いでいたクラウドが彼を追う」というシナリオ原案の2つがやや独立してそれぞれ存在し、それらが製品版では統合されて「古代種 VS セフィロスジェノバ VS 神羅」という複層構造の物語となってしまったのではないか。2つの「原シナリオ」は、物語終盤のメテオ対ホーリーという構図によってきわめて丁寧に統合されたが、ジェノバの存在がどうしても浮いてしまっている。

 

1. FF7のわかりにくさ: ザックスの存在

 「FF7」を初めてプレイしたとき、いまひとつストーリーがしっくり飲み込めなかった。その理由のひとつが、ザックスの存在にある。とくに初代FF7(PS版)では、クラウドの過去と正体に関するキー・パーソンでありながら、基本的にクラウドの回想シーンでしか登場せず、いつのまにか現れていつのまにか消えるという、よくわからない人物になっている。そのため後発の続編ではクラウドとザックスの過去が改めて描かれ直すことになったが、これは初代の時点でザックスの存在がシナリオの中にうまく組み込みきれていなかったことの裏返しでもある。

 ザックスのシナリオ上での「落ち着きの悪さ」については、彼がFF7の製作中のシナリオ改変によって登場せざるをえなくなった「ご都合キャラ」ゆえなのではないか、という考察がある。…のだけど、どのサイトだったか再発見できない。とても説得力のある考察だった。

 ザックスがわかりやすい例になるが、FF7のストーリーはいろいろなところで凸凹している(それがあの大作の魅力でもあるのだけど)。おそらく、複数の製作スタッフがいろいろとアイデアを出してシナリオを練り上げている最中に、さまざまなストーリー原案が混じり合い、統合され、最終的な製品版の物語として成立したのだろう。そうした練り上げ作業のなかでどうしても無理がでてきてしまった一例がザックスなのかもしれない。

 さて以下の文章では、FF7の中でもうひとつの「無理が出てしまった存在」としてジェノバのことを考えてみたい。FF7のシナリオをいまいちど辿り直してみるとき、どうしても浮いてしまうのが彼女(?)なのだ。

 

 ただし考察するといっても、「物語の謎を、作中のヒントや設定資料集の情報から解いてゆく」というタイプの考察ではない。あくまで、物語がどのように成立したかという点を考えたい。したがって基本的に初代PS版FF7のみを対象として、そのシナリオの破綻しかけている部分を「解体」してゆくつもりだ。その後に出た「クライシスコア」等のシリーズは、基本的にPS版のシナリオで破綻しかけている部分を修復するように物語を作っているから、これらを追いかけてもあまり意味が無い。

 他方、製作スタッフのインタビューや「裏話」的なものを引き合いに出すこともしない。本当はそれらを読むのがもっとも正確なのだろう。しかしやってみたいのは、PS版FF7のストーリーのみを再考しながら、その成り立ちを仮想的に再構成する作業である。

 

2. ライフストリームと神羅カンパニー: 基礎的な世界観

  FF7の基礎的な世界観をかたちづくっているのは、ライフストリームと、それを収奪する環境破壊企業・神羅カンパニーの存在である。この世界の地球ではライフストリームという一種の生命エネルギーがめぐっており、これは太古の魔法的知性の媒体でもある。要するにライフストリームをうまく使うと魔法が行使できる。「古代種」と呼ばれるひとびとはこのライフストリームの保護者のような立場だった。しかし現在生き残っている古代種はエアリスひとりのみである。一方、世界企業である神羅カンパニーはこのライフストリームを「魔晄」と名付けて吸い上げ、独自のエネルギー源として都市の工業化を推し進め、軍事力で世界を支配していた。神羅が魔晄(ライフストリーム)を際限なく一方的に吸い上げ消費することで、その土地の生命力は減退し、環境破壊が進行してゆく。

 この設定では、「ライフストリーム/古代種/エアリス」と、「魔晄/現代工業社会/神羅カンパニー」という二項対立が設定され、この対立構造に「魔法vsバイク」「エコロジーvs環境破壊」という属性が重ね書きされている。中核的ゲームシステムである「マテリア」も、この設定のなかにうまく組み込まれている。この基本設定はシンプルで説得力があり、製品版でそのまま用いられている。

 問題は、この設定からストーリーをどのように立ち上げればよいか、ということだ。まず古代種の最後の生き残りとして、エアリスというヒロインが設定される。次に、「反神羅を掲げる武装組織」としてバレットのアバランチが登場し、アバランチに傭兵として参加するのが主人公クラウド君である。これらの最小要素のみでストーリーを作るとどうなるか。「アバランチにたまたま雇われた元神羅カンパニー所属ソルジャーであるクラウドが、反神羅カンパニーの武装闘争に従事するなかで古代種のエアリスと出会い、彼女を神羅から救い出して、バレットとともに神羅をやっつけ、ライフストリームを守る」という筋書きが一応成立する。これを原エアリス・シナリオと呼ぶことにする。

 製作チームの中で実際にこのような原シナリオが存在していたかはわからない。はっきりとしたかたちでは成立していなかったかもしれない。したがって、この原シナリオはあくまで理念上、仮想上の存在である。ここで言いたいことは、「ライフストリームvs神羅」というシンプルで強力な基礎設定から無理なく物語を生み出すとすれば上記のようなシナリオになるだろうということ(つまり原エアリス・シナリオは基礎設定から全く乖離しないということ)である。

 ところが問題が生じる。この原エアリス・シナリオはたいして面白くないのだ。『天空の城ラピュタ』の劣化コピーでしかない。基本的にエアリスとクラウド神羅の魔の手から「逃げる」物語となるため、RPGとしても相性が悪い。そこで、ストーリーを改めて組み立てるために、「ライフストリームvs神羅」の基礎設定の上に別の物語要素を上積みする必要があった。そこで登場したのが「セフィロスジェノバ」というもう一つの原シナリオである。

 

3. セフィロスジェノバ: ダイナミックなドラマ

 セフィロス神羅カンパニー最強のソルジャーである。ソルジャーとは魔晄エネルギーを注入(?)されることによって超人化した兵士であるが、セフィロスの強さは群を抜いていた。実はセフィロスは、古代に地球に襲来し神羅が発掘した異生物「ジェノバ」の細胞を埋め込まれた戦士だったのだ。製品版の物語では、セフィロスは自身の正体を知って神羅から離反し、母親であるジェノバとの融合を果たす。かれは星の全てのエネルギーを奪い、神に等しい存在となるために、黒マテリアを用いてメテオを発動する。しかしエアリスが白マテリアによって発動したホーリーと、ライフストリームの励起、そしてクラウド達の死闘により、セフィロスジェノバは倒され、メテオは防がれ、神羅カンパニーも壊滅する。めでたしめでたし。

 

 以上はFF7の中盤以降の物語である。セフィロスジェノバクラウドの関係が立ち上がってくるのだが、古代種の存在や神羅カンパニーによる環境破壊という文脈が一気に弱まることに注目したい。さて、ここからはほとんど根拠の無い「勘」レベルの話なのだけれど、セフィロスの設定において当初立ち上がったシナリオは、「神羅最強のソルジャーであったセフィロスが、実は自分がジェノバ細胞から創り出された異形の生物であることを知り、神羅から離れて暴走し始める。主人公であるクラウドセフィロスを師として兄として慕っていたが、異形の存在となったセフィロスをライバルとして追うことになり、最終的にかれを倒す」というものではなかったか。これを仮にセフィロス・シナリオと呼ぶことにする。この、もうひとつの原シナリオが、原エアリス・シナリオに組み込まれたというのがわたしの基本的な想定である。

 なぜセフィロス側の物語を上記のように想定できるかというと、「ジェノバ細胞を埋め込まれた異形の戦士」というセフィロスのキャラクター設定から自然と成立し、なおかつ「暴走した師を主人公が討つ」という物語が古典的でシンプルなものとなるからだ(例:Gガンダム東方不敗とドモン)。

 この原セフィロス・シナリオの利点は、世界のあちこちへ移動するターゲット(セフィロス)を追って、主人公クラウドが旅を前進させてゆくという、RPGに適した物語論理を持っていることだ。「追跡」の物語は描きやすいし、プレイヤーも感情移入しやすい。

 欠点は、このシナリオではクラウド神羅カンパニー内部の人間で有り続けざるをえないということ。もちろん物語のどこかでクラウド神羅から離反するという流れを作ることは容易だけれど、このシナリオでは基本的に「セフィロスジェノバ vs 神羅カンパニー」という対立構図が用いられているため、セフィロスと対峙するクラウドは基本的に神羅側で行動するという論理にならざるをえない。

 

4. ふたつの原シナリオの対比: ザックスとティファの位置づけ

 以上、2つの原シナリオの存在を仮定した。繰り返し言うが、こうした原シナリオが実際に製作過程で成立していたかどうかは確かではない。極論、存在しなくても別にかまわない。このように2つの異なる原シナリオを想定することで、どうにもスムーズでない製品版のストーリーがかなり見通し良く理解される、ということである。

 それぞれの原シナリオにクラウドが登場するが、事実上は別のキャラである。原エアリス・シナリオのクラウドは、いわばラピュタのパズーである。ボーイ・ミーツ・ガールを通じて巨大悪徳企業を潰し、エコな世界を守ることが彼の役割となる。かれをクラウドAと仮に名付けておく。

 他方、原セフィロス・シナリオで主人公となる「クラウドB」は、セフィロスとの対峙において立ち上がってくるキャラクターとなる。セフィロスに憧れ、かれの背を追うが、自分自身は特異な存在ではない。それを自覚したうえで、異形の暴走存在となったセフィロスを倒すことを決意する。仲間の協力のもとクライマックスでラスボスとなった師と対決する…。ここで、クラウドBはザックスとほぼ等価であることが理解される。2つの原シナリオを統合する際、エアリスを救うパズー型クラウドAと、セフィロスと対決するクラウドBが合体することになった。このときクラウドAに半ば押し出されるかたちで抽出されたクラウドBの「影」が、ザックスであると言える。

 2つの原シナリオを想定すると、ティファの存在もわりあいすんなりと位置づけることができる。ティファは完全に原セフィロス・シナリオ側のキャラだ。理由は単純で、原エアリス・シナリオにティファが存在する余地は一ミリも無い。実際、最終的な製品版の物語でも、ティファはバレットよりもセフィロスにずっと強く絡んでいる。ニブルヘイム出身で、乱心したセフィロスに故郷と両親を奪われている。おそらく原セフィロス・シナリオでは、その復讐のためにクラウドの仲間になり、セフィロスと戦うのだろう。クラウドと幼馴染という設定もうまく合う。ところが製品版ではニブルヘイムを追われたティファはミッドガルに落ち延び、バレット率いるアバランチの一員となっている。しかしティファがミッドガルに移動し、アバランチに入る必然性はほとんど無い。製品版の物語ではバレットとティファは最初から同志であるけれども、両者は実は全く出自が別なのだ。

 バレットは徹底的に原エアリス・シナリオ側のキャラである。原セフィロス・シナリオでは、アバランチはほとんど活躍の余地が無い。セフィロスたちに蹴散らされるほかない。これに対し、バレットとアバランチが生き生きとしてくるのは、原エアリス・シナリオ側の物語においてである。初代PS版FF7の物語最序盤、魔晄炉の爆破からエアリスとレッド13をつれてのミッドガル脱出までは、おおよそ原エアリス・シナリオの影響を色濃く残していると推定できる。ついでに言えば、レッド13=ナナキも原エアリス・シナリオと親和性が高い。作中ではライフストリームに強く絡み、セフィロスジェノバの展開ではほとんど仕事が無い。

 ティファの位置づけに話を戻すと、彼女がニブルヘイムを離れてアバランチに加入することになるのは、2つの原シナリオの統合によって生じたご都合的な移動という側面が強い。おそらく、原エアリス・シナリオでジェシーが果たしていた役割を、ティファが部分的に奪っているのだろう。列車内でジェシークラウドの顔を拭くシーンは、もしかしたら、原エアリス・シナリオでもうちょっと活躍していた(かもしれない)「原ジェシー」の名残なのかもしれない。

 以上のように説明すると、アジトに戻ると巨乳の幼馴染がなぜか待っていて、外で活動すると謎の花売りの美少女に出会うという、最序盤クラウド君の妙なエロゲ原作アニメっぽい立ち居振る舞いもある程度理解される。元来、ミッドガルでクラウド(A)が出会うべきなのはエアリスだけなのだ。ミッドガルではティファはどうしても浮いてしまう。

 

5. ジェノバの立ち位置: ふたつの原シナリオの統合

 原エアリス・シナリオと原セフィロス・シナリオのどちらが先に作られたのだろうか。たぶん実際の製作作業としては、巨大世界支配企業神羅カンパニーの設定を中心として、一方でそれと対立するライフストリーム/古代種/エアリスの物語が生まれ、もう一方で、神羅内部で反乱を起こすセフィロスクラウドBの物語が生まれたのだろう。おそらくこれらは同時進行であり、「どちらが先」という問い自体無理がある。しかし、物語構成の論理としてどちらがより基層的であるかを強いて考えてみると、原エアリス・シナリオのほうが「古い」。

 その理由は単純である。セフィロス・シナリオは原エアリス・シナリオを必要としないのだ。セフィロスジェノバとそれを追うクラウドBという物語は、それだけで十分魅力的だ。前述のようにクラウドBが神羅カンパニーから距離を取れないという難点はあるが、古代種やマテリアやライフストリームといった背景が無くても十分成立する。他方、原エアリス・シナリオは基本的な世界観設定にすぎず、そこから動的な物語が生まれづらい。つまり、まず原エアリス設定(ライフストリーム、古代種、魔晄炉による環境破壊)が固められたあと、それだけでは物語が生まれないので、原セフィロス・シナリオが要請された。強いて理由付けをすればこのようになる。

 このようにして、原エアリス・シナリオの世界観の上に、原セフィロス・シナリオの物語が構築されることとなった。この統合はかなりうまくいっている。とりわけ、セフィロスがライフストリームから得た知識で黒マテリアを発動し、それに対してエアリスがホーリーで対抗するという終盤の展開は、両シナリオがもっともうまくジョイントしている部分だ。

 しかし全てがうまく噛み合っているわけではない。ところどころ、2つの原シナリオの調停が行われている。物語中盤でセフィロス(実際にはジェノバ)がエアリスを殺害する有名なシーンは、実質的に原セフィロス・シナリオが原エアリス・シナリオを排除して物語を「乗っ取った」ことの表明でもある。有り体にいうと、DISC1は原エアリス・シナリオで、DISC2は原セフィロス・シナリオなのである。DISC3で両者は再度統合されるが、それでも全体的な流れはおおむね原セフィロス・シナリオの方に寄せられてゆく。セフィロスとエアリスはFF7という物語の主導権争いをしており、結局セフィロスがそれに勝つのである。*1

 また、廃人化したクラウド君が温泉療養(?)を経てアイデンティティを回復する流れは、実際は原エアリス・シナリオのクラウドAから、原セフィロス・シナリオのクラウドBへの移行である。ティファが甲斐甲斐しく介護をしているのも、原セフィロス・シナリオ側のキャラである彼女がメイン・ヒロインの位置をエアリスから奪うということである。

 同時期、プレイヤーキャラが人事不省のクラウドからシドに一時的に変更される。このとき、バレットが「リーダーは俺だ!」と言いかけつつ、「最近気づいたけど、実はそうでもないかもしれない」と謙虚な(?)姿勢を見せてリーダー役をシドに譲る。ここもかなりはっきりと原エアリス・シナリオのアバランチの物語から原セフィロス・シナリオへの移行をプレイヤーに示している箇所だろう。実際のところ、ミッドガルを出た時点でバレットの役割は終わっているのだ。ゴールドソーサー周辺で旧友との対決があるが、これは「テコ入れ」のための挿話という感が強い。(この理屈でいくと、逆にシドは原セフィロス・シナリオ側の人間ということになる。たしかに飛空艇ハイウィンドは逃避行よりもセフィロス追跡の方により噛み合う。だがどうも自分の印象では、シドは2つの原シナリオのどちらかに寄せなければいけないというキャラではないような気がする。もしかしたら、3つめの「原シド・シナリオ」を担当していたのかもしれないが、よくわからない)

 

 さてところが、これら以外の部分を確認してゆくといろいろと齟齬が見つかってくる(というか、この齟齬を説明するために、2つの別々の原シナリオが統合されたという仮定を持ち出している)。その最大のものがジェノバの存在だ。

 おそらく原セフィロス・シナリオではジェノバはそこまで重要な役割を与えられていなかったのだろう。原セフィロス・シナリオの主人公はあくまでセフィロスクラウドBだ。むしろジェノバをはっきりと描かないほうがもともとの不気味さがうまく演出される。しばしば指摘されるように、おそらくクロノ・トリガーラヴォスや、エヴァンゲリオンの「光の巨人」などの設定がおおまかな下敷きとなっていたのだろう。

 ところが、原セフィロス・シナリオを原エアリス・シナリオに組み込むとき、ジェノバがどうしてもうまくはまってゆかない。つまり古代種の存在とかち合ってしまう。現在の基本設定では、「ジェノバが数千年前に地球に来着したあと、古代種はこれを封印しようとしたが、ジェノバは逆にウイルスを感染させて古代種をほぼ滅ぼした」ということになっている。これはかなり苦しい前日譚のように思える。「エアリスというヒロインがいて、彼女はかつてライフストリームを見守っていた古代種の生き残り」という原エアリス・シナリオの設定における古代種の存在と、「数千年前に地球に偶然襲来した異生物」という原セフィロス・シナリオのジェノバの設定がかちあってしまう。原エアリス・シナリオの古代種の設定はジェノバの物語を必要としないし、ジェノバの物語も古代種の設定を必要としない。この両者は合わせて設定されたものではなく、それぞれ別々に考案され、途中で強引に遭遇させられたものだと推測したほうがよい。もし最初から両者を同時に矛盾なく設定していたなら、たとえば「ジェノバは古代種の一員だったが、何らかの意図のために古代種から枝分かれし、かれらと敵対して独自の行動を取るようになった異型の存在」などと設定するほうが楽である(ロマサガ2の七英雄がこれにあたる)。

 ところが出自の異なる2つの古代の存在が衝突したため、「封印しようとした」「ウイルスで全滅させた」という、かなり強引な解決が設定上で図られることとなった。もっとも無理があるのが、「自由に他者の存在をイミテーションできる」というジェノバの設定である。これはもう、シナリオの矛盾を回避するために無理やり導入された最強のご都合便利能力であると言わざるをえない。(これに対して、神羅カンパニーがジェノバを発掘したとき古代種だと誤解して…という物語はかなり上手いとおもう。)

 古代種とジェノバは、神羅カンパニーとの関係においても物語を屈折させてしまう。原エアリス・シナリオにおいて、古代種は神羅に迫害される対象である(生き残りはほとんどいないのだけれど)。古代種=エアリスは、神羅にとって「逃げてゆく姫」の役割である。一方、神羅ジェノバも発掘し、これを活用してセフィロスを作るが裏切られる。利用できると思っていたジェノバに逆に利用されることになる。ここでジェノバは「悪女」の立ち回りを引き受けている。2つの原シナリオからそれぞれ別タイプの対立項が生まれており、それらが統合されて物語が複層化している。いわばプレジデント神羅は二股をかけていることになろうか。大河ドラマとしては深みが出て来るのだけれど、けっきょく神羅はエアリスとジェノバの、どちらに何を求めていたのかが曖昧になってゆく。

 ちなみに、この二股によって苦労させられるのがタークスの面々である。タークスは基本的に原エアリス・シナリオ側のキャラクターだけれど、原セフィロス・シナリオにもある程度の親和性があるのではという印象がある。DISC1ではタークスはもっぱらエアリスを追っているが、中盤の原セフィロス・シナリオ側の物語でもクラウドたちと絡んでゆく。もしかしたら、原セフィロス・シナリオでも、セフィロスを追って神羅から離れてゆくクラウドを誅殺するためにタークスが送り込まれる、といった役回りがありえたのかもしれない。統合され混乱する神羅の内部で、対エアリス、対ジェノバの両方の尻拭いをさせられるのがタークスである。「古代種の神殿」で、ツォンさんが「クソっ…エアリスを手放したのが運の尽きだった…」とつぶやくのも、このあたりの妄想を前提とするとなかなか味わい深い。両方の原シナリオに噛み合いうるという点が、かれらのキャラの魅力を引き立てているのかもしれない。

 

6. クラウド君の懊悩

 話をジェノバに戻そう。ジェノバFF7で最も重要なキャラクターであり、きわめて目立つにもかかわらず、「ライフストリームと魔晄」の世界観の中にいまひとつ噛み合ってこない。セフィロスと共に物語をグイグイ引っ張るのだけれど、引っ張ったうえで何をしたいのか、という点が見えてこないわけである。星の生命力を吸い上げたいのであれば古代に来襲した時点でそうすればよかった。古代種をウイルスでほぼ全滅させたが彼らに封印されたという前日譚は、物語を構築するためのかなり無理な設定であるように思える。「子供」であるセフィロスにしても、けっきょく何のためにメテオを発動するのかが実はあまりはっきりしない。星の全てのエネルギーを手に入れて神に等しい存在になるということらしいけれど、発想が妙に小物である。

 要するに、ジェノバセフィロスは、原エアリス・シナリオに出会ったあと、彼らに対して何をすればよいのかいまひとつ掴みきれなかったのではないか。かれらがとりあえずやったことは、物語上の「正妻」の位置を、古代種とエアリスから奪取することである(その余録としてティファはクラウドをゲットする。彼女は物語の構造上はジェノバの「影」なのだ)。二股をかけていた神羅に対して、自分たち母子こそが愛されるべき対象であることを明確にさせるのである。しかしその後が続かない。妄想を重ねれば、終盤のメテオは原セフィロス・シナリオにはもともと存在しなかったのではないか。原セフィロス・シナリオではセフィロスジェノバとまだ再会しておらず、かれが北極で眠るジェノバを探し出し、合体しにゆくのがストーリーの大きな流れであり、かれがジェノバと本当に合体する前になんとかかれを倒すのがクラウドの目的で…という流れなら、わりとしっくり来る。

 このあたりの混乱は、物語最終盤、北極に篭もるセフィロスとメテオに対する神羅カンパニーとクラウド達の行動のふらつきとしても現れる。神羅26号の打ち上げ、キャノン砲のミッドガル設置と射撃、ウェポンの襲来など、派手なイベントが立て続けに起きる。個人的に大好きな展開なのだけれど、クラウド達は打倒セフィロスのために神羅共闘するわけでもなく、ウェポンもなぜかセフィロスではなくミッドガルに現れてルーファウスを殺してしまうし。お互いに誰が敵なのか混乱したまま潰し合っている。最終的にミッドガルと神羅はメテオとウェポンとクラウド達の急襲が重なって壊滅する(ラストの「500年後…」はなんとも印象的だったなぁ…)。そしてクラウドセフィロスとの最終決戦に至るが、神羅カンパニーがライフストリームを魔晄炉で収奪して環境破壊をしていたという話はほとんど消滅してしまっている。原セフィロス・シナリオに沿ってゆくと、神羅と魔晄炉は温存されてしまうのだ。

 古代種の神殿と黒マテリアの扱いも、微妙なズレを起こしている。古代種の神殿最深部の、メテオを描いた壁画は非常に不気味だ。あの神殿とメテオは、古代種の持つ暗黒の部分であり、不気味さである。古代種の神殿に帰ってゆくエアリスがすこし不気味に感じるのも良い演出だ。だがその最深部でセフィロスジェノバが現れ、黒マテリアをクラウド君から受け取ってしまう。これによって、古代種が持っていた不気味さが、途中からセフィロスジェノバに奪われてしまう。ジェノバもまた不気味な雰囲気を常に漂わせているのだが、ひとつの物語のなかに、2つの異なる不気味さはどうしても共存しえない。

 (追記)『天空の城ラピュタ』と比較すると、このあたりの混乱がよく理解できる。古代種のメテオは、「ラピュタの雷」と同じものだ。本家『ラピュタ』では、この古代の畏怖すべき科学力を、当のラピュタ王家の末裔であるムスカが再起動しようとし、もう一方の末裔であるシータがこれを否定する、というところに物語の論理があった。他方FF7では、エアリスがシータの役割を演じるけれど、ムスカにあたる人物がいない。古代種と全く無関係なセフィロスが後からやってきて、黒マテリアを奪うという筋になってしまった。『ラピュタ』にたとえると、ゴリアテで乗り込んだ無能なデブ将軍か、あるいはドーラ一家ラピュタの雷を手にしてドンパチ始めるようなものだ。

 

 このように2つの原シナリオの統合過程でさまざまな凸凹が生まれている。改めて強調しておきたいのだけれど、それこそがFF7の魅力の中核であるとわたしは心から信じている。「物語が破綻しかけている」と表現したけれど、それはけっして作品の価値を低く評価しているのではない。2つの原シナリオが戦うことで、物語に良い意味での緊張感と複雑さを生み出している。ただ、どうしてもジェノバ(とザックス)の位置づけだけは固めきれなかったのかなぁ、とも思うわけで。

 この過程のいちばんの被害者は案外クラウド君かもしれない。中盤、精神世界のクラウド君が頭を抱えて懊悩することになる。それは彼自身の弱さのツケを払っているのではない。悪いのは古代種の使っていたベッドを無理やり奪おうとするジェノバセフィロス母子であり、二股をかけていた神羅カンパニーであり、ダイナミックな物語に参与できない古代種たちである。かれらの引き起こした混乱によって物語の基本構造にいったん断層が生まれ、物語が始まる。ところがその断層の力がクラウド君に集中してしまった、ということになろうか。クラウドから物語を作るのではなく、神羅カンパニーの側から物語を作り始めたところに、作品としての成功とクラウドの悲劇があったのかもしれない。

 

(追記: 書き終わってからもうひとつ思い出したのが、エアリスとザックスが恋人関係にあったという設定がいちおう生きているらしいということ。これは原シナリオ同士のかなり性急な「すりあわせ」の一例なのかもしれない。原エアリス・シナリオ側のヒロインであるエアリスと、原セフィロス・シナリオ側の主人公であるクラウドB=ザックスを結びつけるのだから。このあたりに設定の複雑さよりも微妙な強引さを感じるのも、2つの原シナリオを仮定する理由である。ここらへんを本当に統合したければ、たとえばエアリスとザックスの子供を改めて主人公にして、かれがジェノバの子供であるセフィロスと対峙するといった筋書きになるのかもしれない。)

*1:たしかミルチア・エリアーデが「隠れたる神」という概念を神話構造の分析で使っていた。世界の神話には天地創造の神が必ず登場するが、かれらはその後の神話ではだんだんと引っ込んでしまい、後の世代の神々に表舞台を譲る。ここではエアリスが「隠れたる神」の役割を引き受けている、というのは言いすぎだろうか。

声について

声とはなんだろうか、とおもう。

心地よい声、耳障りな声、というものがある。

 

耳障りな、好きではないタイプの声だからといって、その声の持ち主のことが常にきらいになるということはない。好きな声の持ち主のことがそのままで大好きになるとは限らないけれど、すくなくとも、好ましいなにかを感じる。

 

過去の恋人や友人の顔を直接思い出せないということが、よくある。しかし声を思い出すことができないということは、ほとんどない。過去の知り合いの声すべてを記憶しているというわけではない……声さえ思い出せないひとのことは、すでに記憶のなかで消えてしまっていると言わざるをえない。

 

じぶんの声があまり好きではない。すぐに上ずって甲高くなり、早口になり、しわがれてきて、かと思えばもそもそと低く小さく潰れてしまう。声質や声帯の特性よりも、「上ずる」とか「小さく潰れる」といった対人での態度や性格のほうが自己嫌悪を引き寄せるのだろう。上ずることも、淀んでしまうこともなく、ちょうどいいバランスでゆっくり落ち着いて話せるひとのことが、たいそううらやましい。とはいえそのようなひとも、自分の声そのものが大好きだと感じているかどうかと想像してみると、案外そうではないかもしれないと思える。

 

そもそも、自分の声や自分の喋り方が大好きだという人に会ったことがない。ひそかにそう感じているひともいるのだろうか。声優や歌手やアナウンサーといった、声を仕事にするひとのことはさしあたり考えないとして、それ以外で「自分の声が好き」と確信するひとがいたなら、(余計なお世話だけれども)妙に不健康な気がする。自分の顔が好きというひとのナルシズムとは、どこか異なる。

とはいえ、声に自信をもつことはたいせつだろう。

 

 

「地毛の色」が「本当の色」なのではない

大阪の府立高校の生徒が、もともと茶色い頭髪であったのを学校に黒染めを強要され、登校を著しく制限されたとして、府を相手取って提訴した。…というニュースを読んだ。

 授業への出席や修学旅行への参加も禁止されていたということで、学校の対応は常軌を逸しているとおもえる。

 

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 ただ、報道の文面などを見ていると「生まれつき茶髪」という点が強調されているのは気になる。生まれつきの黒髪を茶髪に染めている生徒を黒髪に「戻させる」のは指導の範囲内だが、生まれつき茶髪である人に黒髪を強いるのはヒドイ、という論調がある。

 この論調には、「生まれ持った髪の色(目の色や肌の色、その他の身体的特徴全て)こそが本質で、後から染めた色(化粧、整形、ムダ毛処理etc)はマガイモノだ」という論理が前提されている。生まれつきの色=加工されていない色=自然なもの=本質であり、染めた色=後から手を加えたもの=不自然なもの=ニセモノ、という捉え方がある。生まれつきの色こそが本質で優れており、後から手を加えた色はその本質を覆い隠すもの、という優劣関係が設定されている。

 これを生物学的本質主義という。何が本質かを考えるとき、生物としての特徴に素直に沿っている性質の方を本質的なものとみなす、という態度のこと。地毛の色が本質で、染めた色がニセモノであるとみなすのは、この生物学的本質主義に依拠している。この主義自体は文字通り「主義(イデオロギー)」であって、それ自体のさらなる根拠は求めようがない。つまり地毛の色こそが本質だという前提にはたいした根拠はない。

 

 わたしの地毛の色は「黒」である*1。これをたとえば「金髪」に染め直すこともできる。ところが、数週間すれば毛根から黒い髪が伸びてくる。そのまま伸びれば、いわゆる「プリン」状になるだろう。伸び切ったところで髪を切れば、再び「黒」に戻る。この黒髪と金髪のことをできるだけ素直に理解すれば、地毛の色とは「何も手を加えないでも毛根から生えてくる毛の色」であり、金髪は「自分で染料を使用して染めた、一時的に保たれている毛の色」である。何も手を加えないでも伸びてくる髪の色が「黒」であるのは、わたしの体がそのようになっているから。だが、素直な観察はここでほぼ完了する。それ以上の「本質」を毛根や毛染め剤から読み取ることはできない。黒と金のいずれかを「本質」と断定する根拠は無い。繰り返しになるけれど、「生まれつきの色こそが本当の色なのだ」という主張は、主張にすぎない。

 

 もう少し掘り下げると、たとえばハイデガーが言っていることの受け売りなのだけれど、ある時代から人間は「時間の経過にかかわらず不変のままであるものこそが本質である」という前提を基本にしてものを考えているが、これもやはり本質についてのひとつの主義にすぎない。この恒常性を本質と同一視する思想と、遺伝とDNAの発見が要素還元主義とうまく合致してしまったこと、これら2つが合体して生物学的本質主義がわたしたちの考え方のベースに入り込んでしまったのだとおもう。

 

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 だから、この事件についても、「生まれつきの色が茶色なのに」という捉え方だけで進むと、かなり窮屈なことになるのではないかとおもう。重要なのは、この生徒さんが生まれつきの茶色を大切にしている、ということだ。そのひとがそのひとの身体や生活の在り方について自分で大切にしているものこそが重要で、尊重されるべきだ。その根拠を問う必要は無い。「生まれつきの色だから大切にしたい」もアリだし、「生まれつきの色こそがどうしてもイヤなので染める」もアリ。言語で説明できなくても、「なんとなくこの色がいい」で十分なはずだ。選択されたその色が、生まれつきの色であるか、人為的に染めた結果であるかは、さして重要ではない。

 この点を生物学的本質主義に立って誤解してしまうと、「多様性」についても誤解してしまうことになる。多様性とは生物学的なカタログ的な「多種性」ではなくて、各自の選択の尊重の結果としての「多様性」であるべきであるとおもう。ちょっと優等生的な表現だけれど。上記事件の学校はこの多種性と多様性の両方を二重に踏みにじっている点で罪深い。一方、「生まれつきの色」を強調しすぎる論調は、結果として多様性の考えを狭めることになっている。

 

 

 

*1:ほんとうは黒にもいろいろある。自分の場合は「乾いた黒」というかんじ。多少白髪も混じっている。

木が折れる

 先日の台風で大学そばの林の木が根本から倒れ、小道を塞いでいる。あの晩、わたしは投票のためにいったん実家に戻り、ずぶ濡れになりながらその小道を通っていた。その後に倒れたらしい。ちょっと、あぶないところだった。

 大学構内では、共通教育棟の中庭の松の木が折れていた。直径50センチほどの幹がぱっくりと割れ、白い断面が現れていた。まだ水を吸い上げているらしく、断面は白くひかっていた。折れた幹や枝を業者のひとたちがチェーンソーで裁断していた。

 草木には人間や動物と同様の痛覚は無いだろうけれど、折れた幹の断面をみると、それがみずみずしいだけに、どことなく痛々しく感じる。枯れた枝であれば、そこまでの感覚は生じない。割れる前日まではその樹が生きていたこと、いまもその根や根元の幹の細胞は生きているのだろうと感じさせることが、松への同情の背景にあるのかもしれない。そしてまた、どことなく、樹皮の内側の白い生々しい部分がさらされていること、それを見てしまったということが、痛々しさに直結している。人間の内蔵や血が噴出して現れているのと同じではないが、「断面」にはなにかそのような、見た者を粛然とさせるものがある。

 

被害者をだまらせる技法 ―伊藤詩織『ブラックボックス』感想

 伊藤詩織『ブラックボックス』(文藝春秋、2017年)を買って読んだ。ジャーナリストとしての就職を望んでいた著者が、TBSワシントン支局長の山口敬之氏から性的暴行を受け、同氏が不起訴処分となったことから検察審査会に申し立てを行った。その申し立ての報告として記者会見を行った際には、名字は伏せて「詩織」とだけ名乗っていたが、性暴力被害者が司法手続きを求めて実名と顔を出し声を挙げたことは大きな驚きを呼んだ。本書では被害に至るまでの経緯から、「ブラックボックス」の中で起きていたこと、その後の混乱と攻防、記者会見までの流れを書いている。性犯罪被害者自身による手記としてはこれまで例えば小林美佳『性犯罪被害にあうということ』(朝日文庫、2011年)がある。本書はそうした当事者手記という側面を持つ一方で*1、政権中枢と強いつながりを持つ大物ジャーナリストを加害者として告発するという別の文脈も帯びることとなった。

 

 読んで改めて考えたことは、性犯罪被害者をだまらせ、罪の告発をあきらめさせるためのさまざまな技法や制度や慣習がこの国にはあふれすぎている、ということ。規模や方法の異なるさまざまな「黙殺の装置」が網の目のように張り巡らされている。装置の個々の部分については、実は意外と多くのひとが認識している。男女問わず。それが個別のものとして現れてくる場合に限っては、「まあ、世間ってそんなものだよね」といいながら多くの人がそれを乗り越えている。けれども、性犯罪の被害者という立場に突然投げ込まれると、それらの装置の各部分が突然総動員され、お互いに連携を始め、被害者を多重に取り囲んで執拗に責め立てる。その装置が伝えるのはただひとつのシンプルな命令、すなわち「だまれ」だ。事件について沈黙し、自分が被害を受けたことを隠し、加害者への告発を取り下げ、場合によっては引き続き加害者の支配のもとにとどまり、そうでなければ彼の支配圏からそっと姿を消すこと。男性が女性に対して望むときに暴力と権力と快楽を行使できるための環境を維持すること。それがこの装置の目的である。

 この沈黙の命令は、この装置の存在そのものについても言及することを避けよ、というところにまで及ぶ。J. ハーマンが『心的外傷と回復』の序文で、『1984』の「二重思考」を引き合いに出したのはこのうえなく適切な喩えだとわかる。というか、喩えですらなくて、本当に二重思考そのものをこの装置は強いる。つまり、そうした沈黙を強制する制度や文化があること自体について、沈黙せよ、忘れよ、と命じつつ、その命令が有効であり続けるために、命令されたことをいつでも想起できるようにしておけ、というのだから。

 被害者を取り囲んで沈黙を強いようとする「装置」が十全に起動したとき、事件は本書の題名である「ブラックボックス」のなかに無事とじこめられる。だから、(多くのひとが勘違いしうるのではないかと思うのだけれど)題名の「ブラックボックス」が意味するところは、事件が客観的にはブラックボックスとして映るかもしれないけれどわたし(著者)が言っていることは本当だから信じてください、ということではなくて、声と事件をブラックボックスに押し込めようとする制度、文化、技法が存在するということそのものなのだ。言い換えれば、ブラックボックスとは事件が起きたホテルの狭い空間と時間のことではなくて、それをブラックボックスにしてしまう世間そのもののこと。そしてこのブラックボックス化しようとする仕組みは、事件を法的に封印するだけでなく、被害者の心身の傷を文字通り拡大するようにも機能する。

 

 本書はそうしたさまざまな多重の装置の部品をひとつずつ説明する。『世間の現象学』と副題を付けてもよいぐらいだと思う。裏側から見るならば、被害者を沈黙させるために加害者が活用すべき技法についてのマニュアルでさえある。本書は、ジャーナリストを志望して加害者と接点を持つまでの前日譚、次いで事件の発生、混乱、司法手続きを求めての行動、不起訴処分と記者会見までの流れを描きなおしている。その流れ自体が、著者が「沈黙を強いようとする装置」のひとつずつに出会うストーリーとなっている。著者は、自分が被害を受けたという、ただその事実と正義の確認をさしあたり求めているにすぎない。自分が存在しているということ、ただその確認にほかならない。わたしがここにいます、ここにいるのはわたしです、わたしはわたしです、という、ただそれだけのこと。ところがそれが一連の戦いと絶望のプロセスになってしまう。

 立件に対して拒絶的で、被害者に何度も事件の供述を繰り返させる警察。緊急避妊ピルの処方に際しても性犯罪被害を想定していない婦人科医。「合意」の有無を加害者の主観に求める法制度。「仕事が続けられなくなるよ」という”善意”のすすめ。記者会見直後から始まる非難や嫌がらせの電話。おそらく政権中枢からの逮捕差し止めの指示。男性であり、「男性的」であればあるほど(すなわち地位や権力が強いほど)、これらの仕組みをフル活用することができる。殺人や詐欺やスピード違反の犯人ならば警察と世間から追われるのに、性犯罪の場合に限っては、加害者が逆にこれらを味方につけて被害者と「戦う」ことができてしまうのだ。

 本書第2章のホテル室内でのやりとり、第3章、第4章の加害者とのメールのやりとりは、男性がこうした技法に頼るとき、どれほど自然にこまやかにそれを使うことができるか、その最良の見本を示している。

 「(就職について)合格だ」と言うことで、これが性と暴力の出来事ではなく、自分の権力のルール内の出来事だと示す。何事もなかったかのように事務的な連絡を入れることで、事件を忘れたかのように振る舞えば就職の話はそのまま実現することを暗示する。事件について説明を求められると「冷静になってください」と突き放し、事件の具体的な経過については完全に話を創作する。謝罪の意思の有無についての議論を、事実関係についての議論に後退させる。同時に、「問題を解決するためにわたしも努力を惜しまない」等、善意の協力者のような立場にシフトする。相手のことを、〈レイプの濡れ衣を自分に着せようとする悪どい女〉として扱うのではなく、あくまで〈酔った勢いで自分を誘惑してきた、自律と理性の欠けた女性〉であったことを思い出させてあげようとする。「冷静に」「落ち着いて」という言葉を受け入れさえすれば、被害者はむしろ自分ではなかったかもしれないとあなたは理解するはずなのだ……というストーリーが即座に組み上がっている。著者が警察官に言われた「もっと泣くか怒ってくれないと伝わってこない。被害者なら被害者らしくしてくれないとね」(76頁)という発言は、実質的に加害者との「共犯関係」を形成している。被害者女性は取り乱し、泣き喚かなければならないのだ。そうであって初めて、男性は「落ち着いて」と彼女を受け止め、”あるべき方向”に導くことができる。感情的であるから冷静になれと求め、冷静であるのはおかしいと求めるのが(あえて主語を大きく一般化したうえでの)「男性」の戦略なのだ。

 

 加害者がこうしたミクロなテクニックを当たり前のように駆使できているのはなぜなのか。同様の犯行を実は何度も繰り返していたから、という可能性もあるかもしれない。そうであったとしても、なかったとしても、自分は驚かない。「初犯」であったとしても、やはりかれはこの技法に頼ることができるのだと思う。というのは、これは性犯罪者に独特のやり口というよりは、男性が女性に対して権力を存分に行使する際の常套的なやり口だからだ。つまり、権力を行使しつつ、その行使の跡を消すという方法。これは殺人犯が死体や血痕を埋め隠すのとは、少し異なる。殺人犯が死体を隠すのは、殺人が悪事であることを認めているからだ。犯人は、殺人は悪であり違法であるというルールを破りつつ、それに従っている。これに対して、本書の加害者が行おうとするのは、権力が男性のルール内で「適正に」行使されたことを女性に同意させようとする、そうした権力の行使である。メタ的なので、前述の「二重思考」型になるのだ。

 そしてこのタイプの権力の発揮は、実のところ性犯罪に限らない。世間のあらゆる局面にはびこっていて、その中で生きる以上、だれもが多かれ少なかれそこから利益を供給されている。この国で男性として生まれるということは、この装置を活用する権利をまず与えられるということを意味する。ただし自分の人生をそこに完全に一体化させてしまうか、それなりに距離を取るかはある程度選択ができる。女性として生まれるということは、この装置の存在に気づくという義務を課されることを意味する。ただし、気づいた上でそこに順応するか、それともそこから自分なりに距離をとってゆくか、という選択肢は与えられない。そこから離れようとする女性を、装置(とそれに一体化した男性)は自身のもとへ連れ戻そうとする。その装置の部品のひとつとして、陰茎が勃起する。強制による性交は権力の行使の手段でも目的でもありうる。いずれか片方に還元しようとすると装置の本質を見誤る。そしてその際、装置の発動は、強いものが従順なものを愛し、認めるというシナリオで行われる。だから権力の行使といっても、機動隊が哀れな農民を殴りつけるといったスタイルにはならない。加害者は「君のことが本当に好きになっちゃった」「早くワシントンに連れて行きたい。君は合格だよ」(52頁)と言う。おそらくこれは彼なりに本心なのだろう。かれが「装置」に一体化してゆくタイプの人物であることは、本書で描かれるかれの立場や立ち回りから推測することができる。だから、かれは権力を行使するミクロ・マクロの技法について、仮にこの事件が性犯罪としては初めてのことであっても、あらかじめ知悉していたのだ。

 

(追記:けっきょく、この国で男性として生まれて男性として生きるとは、どういうことなのだろう、と考えてしまう。自分が権力を持つ業界に入ってきた若い女性を誘い出し、酒に薬を混ぜてホテルに運び込む、ということをわたしが今後するかどうか考えてみると、その可能性は低いとはおもう。本書を読んだ男性も、読まない男性も、そのきわめて大多数は、やはりそういった行為とは無縁だろう。けれども、本書で著者が描出する「だまらせるテクニック、制度、文化」のひとつずつを確かめ直すとき、ミクロなものはわたし自身しばしば使っているし、マクロなものについては気づかずそこに一体化している。これは「自分も潜在的な加害者なのだ」といった反省のポーズで片付く話ではなくて、つきつめれば認識論の問題であるのだとおもう。女が気づいているもの、被害者が鋭敏なアンテナで気づいてしまうものを、男は見出すことができない。権力や暴力をとおりすぎるということが、このからだによって実現されている。)

 

追記2: このエントリで自分は著者が告発する山口氏を一貫して「加害者」と記述している。書類送検を経て不起訴処分に至ったので、推定無罪の原則からすればかれは現在のところ無実のひとである。だからわたしが山口氏を加害者と断定するのは不正であると言える。「著者によって加害者として告発されているところの男性」と記述すべきなのかもしれない。

 にもかかわらずわたしが敢えてこうしたカギカッコ付きの表現を用いなかったのは、2つの理由がある。第一に、著者による冤罪やでっちあげの可能性を感じさせるような箇所を本書のなかに見出すことができないということ。第二に、留保を付けながら記述するという態度自体が、より大きな不正でありうる場合があり、これはまさにその事例であると思うということ。「被害者を自称する人物によって加害者として告発されている男性」という留保的な表現を用いることは一般に奨励される。加害者だと早急に断定して一方を攻撃することは、とりわけ冤罪被害の拡大を防ぐために避けられなければならない。けれども、そうした留保の態度は、「真偽が不明なうちはいずれの味方もせず、権威による事実認定が確定したのちに真の悪人を存分に叩くべし」という攻撃的日和見主義に簡単に転化する。冤罪被害を考慮して被害者の証言に慎重に距離を取るということと、告発に失敗した被害者を攻撃する権利を保ち続けるということは、紙一重なのだ。

 とりわけ告発する証言者(著者)の視点からすれば、この留保的な態度は「あなたの言っていることを半信半疑でいちおう聞いてあげます、もしあなたが私の説得に失敗すれば、私はあなたを攻撃するけどね。さあ申し開きをどうぞ」というメッセージとして成立するのではないかとおもう。それは、世間という大きなブラックボックスの機能の一部として彼女の前に現れるということ。

 そうならないためには、「加害者とされている人物」を過剰に攻撃することは抑制しつつ*2、ある一線を踏み越えて告発者の言い分の肩を持つということがどうしても必要になるとおもう。留保的な表現を用いなかったのは以上の理由による。これは英語ではadvocacyと呼ばれる態度であると思うけれど、日本語になかなかしっくりくることばが見つからない。(2017/10/20)

 

*1:それぞれの本と著者を「こういう分類の本」としてカテゴライズすること自体が間違っているのだけれど…

*2:このエントリがそうであるかは批判を待つべきところだ