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インテリ誌の巻頭対談はなんであんなに喋れるのか

 『現代思想』とか『理想』みたいな、トップレベルの研究者が競って投稿したり、寄稿依頼が来るとすごく嬉しくなるような文系カッコイイ系雑誌があって、そういう雑誌ではたいてい特集に関連した対談録が、雑誌巻頭(あるいは2つめくらい)に掲載されている。

 そういう対談はなるほどそのテーマに関する権威や気鋭の若手みたいなひとが選ばれるので、知識の幅や深さがおそろしくおおきいし、自分に関心があることならすごく勉強になる。

 

 のだけれど、いつもこういう対談録を眺めていて思うのは、とにかく、対談に臨む両者がだーっと喋っているのだけれど、あれ大丈夫なのか、ということである。

 ほんとうに、よくわからない。たいてい「わたしがこのテーマに問題意識を持ってきたのはそもそも…」という一方の説明が始まって、それが三段組みで2頁ぐらい続いたりする。そのあと他方が鷹揚に「なるほどそれは…」と話し始めて、やはり1頁半くらい自説を語り切る。そうして対談が次第に盛り上がってゆく、というスタイルが多いようにおもう。

 

 すごく不思議なのは、ほんとうにこんな喋り方をしているのだろうか、ということである。いきなりそんなにまくしたてられてもわかんねーよ、みたいなことにはならないのだろうか。頭イイ人たちだから大丈夫なのだろうか。ただ自分の周囲には頭イイ人多いけれど、ああいう喋り方で会話しているところは一度も見たことがないので、やはりふしぎである(わたしがいるところでは短く区切って話してくれているのかもしれない……)。

 あれは実際にあのように喋っているのだろうか。それとも、実際にはもっとざっくりした話し方をしていて、文章に書き起こしたあとみっちりと加筆するのだろうか。

 

 読む側としては対談の後から加筆されるのは別にかまわないけれど、当人達は「あいつ、話してたときはそんなことまで言ってなかったのに、都合よく最初からこんな論点も理解してましたよ、みたいな話を書き加えやがって」みたいなケンカは起こらないのだろうか。

 

 とてもどうでもよいことだけれど、「巻頭対談」を読むたびにこういうことを不思議に思うのです。そんだけ。

アメリカ退役軍人省の「PTSD脳組織バンク」プロジェクト

なんとなくググっていたら、えげつないプロジェクトのサイトを見つけたので紹介する。

 

www.research.va.gov

 

大雑把にまとめると、PTSDを抱える退役軍人から脳組織を死後検体してもらい、将来の研究のために収集保管するプロジェクト。

 

以下、抄訳。

「退役軍人省はPTSDの解明と治療のために全力で取り組んで参りました。こうした取組の一環として、退役軍人省は「PTSD脳組織バンク」に出資しています。PTSD脳組織バンクは、将来の科学研究のために、調査標本を収集・処理・保存・公開する人体組織バンクです。現在PTSDと診断されている、もしくは過去に診断されていた退役軍人、もしくは非退役軍人の方が参加を志望できます。脳疾患brain disordersを持たない人も受け入れます。抑うつなど、他の疾患をお持ちの方も志望可能な場合があります。以下のお電話番号までご連絡ください(略)」

PTSD脳組織バンクへの登録はいつでも遅すぎることはありません。あなたの現在の健康状態をお知らせくだされば現在の研究に役立ちますし、その情報があれば、死後の献体組織が将来の研究にとってさらに価値あるものになります。しかしながら、事前登録は必須ではありません。死後すぐの近親者からの同意も有効です。脳組織献体に関心を持っていることを、ご家族や友人に事前に話しておくことをお勧めしております。事前に話しておくことで、あなたの死後、ご家族のストレスを軽減することができます。」

「組織献体(脳、脊髄、脳脊髄液)はあなたの死後に摘出されますので、現時点ではそうした処置は行われません。」

 

 このほか、「一年に一回、電話もしくはメールで健康状態について簡単な確認を行います」「組織摘出後の遺体は元通りのかたちにします」「協力に同意しても、またそれを撤回しても、あなたが受けることのできる退役軍人福祉プログラムには一切の影響はありません」「献体処置をするための遺体の搬送経費はすべて当方が負担します」などの説明がある。

 

 このプロジェクトについて私が興味深いのは以下の2点。

 第1に、もともと社会的・歴史的文脈のなかで生み出されたPTSDが、結局は神経細胞のレベルに還元されて研究されてしまうということ。患者の脳組織をスライスして標本化し、顕微鏡で丹念に調べ、異常の原因をつきとめる……これは19世紀ドイツ式の精神神経医学そのものだと思える。これが悪しき「退行」なのか、正当な「回帰」なのか、それらのいずれでもないのかは、わからない。

 ただ、この案内を読む限りは、現時点で研究の明確な方法論や見通しがあるわけではなく、何かの役に立つかもしれないからとりあえず今のうちに標本を大量収集しておこうというスタイルに思える。構想が壮大というべきか、ガサツというべきか…。

 

 第2に、傷つき生きのびた退役軍人に、死してなお報国せよと求めるセンス。戦地へ送り出しておいて、その傷ついた身体にもまだ価値があるので献体してくださいというのは、私は「えげつない」と感じる。

 たとえば、公害事件を起こした企業や国が、被害患者に、研究のためあなたの体組織を死後も保管させてくださいと言ったとしたら、どのように思われるか。おそらく反発されるだろう。(仮に応じるとしても、被害患者と特定の医療者・研究者との間にきっちりとした信頼関係がなければ進まないだろう。)

 えげつないのは、人間の存在を「価値ある身体」に変換する工程を二度行うという点にある。政府は国民を科学研究・政策上の価値によって身体化する。志願や徴兵の健康調査で、身長や筋力やIQを測り、価値付けする。それは多くの政府が行う。このプロジェクトではさらに除隊後にも、傷ついた心身をなお研究上の価値によって標本にしようとする。いちど汁を絞りきった大豆の「おから」を、再度絞るような。

 このバンクに応じる退役兵士は存在するのだろうか。いるのかもしれない。

子羊の掴まえ方(河合隼雄編『心理療法対話』より)

「 長谷川 西洋との違いということでは、私自身、面白い経験があります。以前、ヒツジの研究をスコットランドの沖合の無人島でやっていたのですが、そこでは、子ヒツジの成長を見るために一週間おきに捕まえて体重を測るんです。その捕まえるのがなかなか難しいのですが、わたしはそこで独自の方法を考案して、すごくよく捕まえられるようになりました。ところが、イギリス人は誰もこの方法ができなかったのです。

 その方法というのは、ヒツジはみんなよく昼寝をするんですが、一本も木がない草原なので全部見えるんです。それでよく見ていて、ぐっすり眠っている親子のところに真後ろから一歩一歩近づいて行って、ちょっとでも母親が起きてこっちを向いたらピタっと止まって知らん顔をして、向こうが安心して、寝静まると(耳が垂れるとわかるのですが)、またちょこちょこと近づいて、のこり二メートルか三メートルぐらいになったところでポーンと飛びかかって、子ヒツジをお腹のところに抱え込むんです。一匹捕まえるのに三◯分くらいかかりますけれども、この方法はわたしが編み出して、結局二週間で、合計六九匹捕まえました。ところが、そこで何年も研究をしているイギリス人はこの方法をまず思いつかなかったんです。彼らがやっていたことといったら、ラグビーのタックル方式で、とにかく子ヒツジを見つけたらダァーッと走って、足を捕まえるか、でなければ、岩屋に追い込んで、真っ暗の中で全部捕まえる。要するにカウボーイ的な発想です。」

河合隼雄編『心理療法対話』岩波書店、2008年、181頁。生物学者・長谷川眞理子氏との対談)

研究室リソースの使い方

 倫理学専修or臨床哲学研究室の学部生・院生のみなさまへ(とくに卒論・修論を書かなくちゃいけない方たちへ)。

 この文章では、研究に必要なさまざまな「資源」の使い方を説明します。資源とは、書籍やプリンタやカメラなどの備品、図書館の論文取り寄せシステムなど、研究のために使ってよいモノやサービスです。また、広く捉えれば同級生や院生の存在もそこに含まれるかもしれません。ここではこれらを大雑把に「研究室リソース」と呼ぶことにします。

 

 研究室(学部生室、院生室、各教員個室、助教室)にはいろいろなリソースが蓄積されています。どこにどんなリソースがあるのか、どうやって使えば良いのかを説明するのがこの文章の目的です。

 

1. 学部生室・院生室の蔵書

 学部生室と院生室の蔵書は自由に借りることができます。借りる場合、助教室の貸出表に氏名等を書いてください。

 学部生室にあるのは日本語の書籍です。カント、ヘーゲルライプニッツフロイト等の翻訳版全集と、より新しい時代の書き手の書籍があります。岩波文庫も多く置いています。

 院生室にはドイツ語の蔵書日本語の雑誌類があります。雑誌は『思想』『現代思想』『情況』『大航海』などの総合雑誌と、『現象学年報』『倫理学研究』『倫理学年報』『医学哲学 医学倫理』などの学会誌があります。また『死生学研究』『死生学年報』も読み応えがあります。

 院生の個人蔵書もこっそり本棚に置かれています。これも、一声かけてもらえれば本棚から借り出してくださってかまいません(おそらく、そのために置いています)

 院生室にはまた、辞書・事典が大量にあります。英語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語などの一般的な国語学習用辞書のほか、『哲学・思想事典』『看護大辞典』『フェミニズム理論辞典』『現象学事典』『現代社会学事典』『生命倫理事典』『カント事典』『ヘーゲル事典』『ニーチェ事典』などの専門事典があります。先人の智慧が濃縮されています。使い尽くしましょう。

 

2. PCとコピー機、無線LAN

 院生室にはPCが2台とネットワークプリンタが1台、学部生室にはPCが1台とネットワークプリンタが1台あります。自由に使えます。また、学部生の方も院生室のPC/プリンタを自由に使ってくださってかまいません。

 プリンタはそれぞれカラー・白黒が選択できます。また、ドライバをインストールすれば、自分のノートPCから無線LANでプリンタを使うことができます。インストールの仕方は院生に聞いてください。

 学部生室と院生室にはそれぞれ専用の無線LANが飛んでいます。パスワードは部屋にいる院生とかに聞いてください。

 

 3階の廊下のつきあたり、「研究室B」コピー機があります。このコピー機を使いたい場合、院生室の戸棚にある「研究室Bの鍵」と「コピー用カード」を取り出して使います。コピー用カードはコピー機のリーダーにスライドさせて使います。使い終わったら、紙の使用枚数をノートに記入します。あれこれの使い方がわからなかったら、いつでも院生や学部生の先輩に聞いてください。また、縮小・拡大コピーや、両面印刷の仕方などがわからないときも聞いてください。

 1階の研究支援室にはさらに大きなコピー機があり、これは自動でホチキス止めまでしてくれるスグレモノです。向かいの印刷室には、より安価に大量印刷できる製版印刷機があります。これらも使い方を覚えて損はありません。

 

3. 助教室の機材

 助教にはノートPCデジタルカメラICレコーダなどの機材が保管されています。研究活動のために(≒それなりの理由があれば)借りて使うことができます。CAさんに聞いてください。

 

4. 院生室の炊事・軽食

 院生室には電子レンジ小型炊飯器冷蔵庫電気ケトル、小さな水道があります。また、コップ紅茶コーヒー割り箸などが常備されています。お弁当を温めたり、コーヒーを淹れたり、休息のために存分に活用してください。

 

長くなってしまった… 「図書館サービス」と「Web上のサービス」は別に分けて掲載することにします。

stomachacheは「胃痛」ではない(?)

 以下は、最近3ヶ月在米していたパートナーから教えてもらった話。外国語学部出身で、英語のよくできる人である。

 

 あるとき胃の不快感に悩まされ、薬局で「stomacacheに効く薬をくれ」と頼んだ。欲しかったのは日本でいう「胃薬」である。しかし出されるのはどう見ても下痢止めの薬ばかりだった。

 自分でよくよく探してみると、日本でいう「胃薬」に相当するものはacid reducerという名で売られていた。

 

 つまり、stomachとは胃ではなく、stomachacheは胃痛ではないらしい。上記の例ではむしろ胃より下の下腹部、よりぴったりとした日本語を探すなら「おなか」に近いらしい。だから「stomacheahceがある」は、日本語の「おなかが痛い」というニュアンスになるので、下痢止めや整腸剤の類を出されたわけである。

 

 辞書をひくと、なるほど「stomachache 胃痛、腹痛」と順に記してある。あくまで胃痛も含む広い概念なのだろうか。「have a stomachache 胃が痛い」という例文もあるが、これは「お腹が痛い」と修正すべきであるように思える。

 ではstomachはどうか。第1の語義は「胃」で、第2に「腹部、腹、下腹」と記されている。ややこしいのは、解剖学的な観点ではstomachは確かに「胃」であるということである。stomach cancerは「胃がん」である。

 つまり医学的部位としての「胃」と、もうすこしぼんやりとした日常用語としての「おなか」の両方のニュアンスがある。しかし、私個人の経験では、stomache=胃とのみ覚えさせられたように思う。日本の英語学習のフィールドでは誤って「胃」の意味のみが強調されているような気がする。

 

 日本語の「胃が痛い」は、「強いストレスにさらされている」「悩み事に苦しめられている」というニュアンスも含まれている。この場合、やはり痛いのは心臓の下からみぞおちの間あたりのキリキリとした痛みであり、トイレにかけこみたくなるという印象ではないだろう。(もちろん、ストレス性の下痢という事態もあるけれど)

 だから、もしかしたら「仕事でこんなトラブルがあってねえ」と話したあとに「胃が痛いよまったく」と表現するつもりで「I have a stomacache.」と付け足したら、逆に混乱を招くかもしれない。


とりあえず以上のように整理したけれど、 stomach(ache)が何をどのように意味しているのか、からだに直結していることばであるだけに、そう単純ではないような気がする。

 

 ちなみに、stomachには他動詞として「胃に収める」「侮辱などを我慢する」という意味もあるという。

「Who could stomach such a insult? だれがこんな侮辱に耐えられようか」

という例文があった。これは日本語の「腹に据えかねる」という表現と微妙に似ているところがあっておもしろい。

【提言】小学校低学年における〈うんこ教育〉の必要性

 なぜ、小学生は、とくに男児は、小学校のトイレで「うんこ」をすることをあれほどまで忌避するのだろうか。あれはなんだったのだ。

 小学生のとき、校内でうんこをするというのは、きわめて勇気のいることだった。誰にも見つかってはならなかった。わたし自身、2,3回くらいしかした記憶がない。

 

 校内うんこを避ける理由はとくにない。小学生は実はうんこ大好きなのに、じぶんが校内で実際にうんこをすることには、きわめて敏感なのである。

 

 男子の場合、うんこ=トイレの個室であるから、うんこバレしやすい。そしてうんこしたのがバレると、他の男子がとたんにウェーウェー言うのである。

 

「○○、学校でうんこしとー!」「うんこマンや!」「男子やのにうんこしとー!」「女子やー!」

 

 なんなんだ、おまえたちは。家のトイレで出そうが、学校のトイレで出そうが、うんこはうんこだろうが。というか、どっちみち家でうんこするだろ。

 重ねて言うが、校内うんこ忌避にそれ自体の理由は無い。もちろん、もし自分が校内でうんこするのがイヤなら、しなければいい。しかしこのうんこ忌避は、もっぱら他人のうんこ行為を指弾するのである。相互牽制、相互監視であり、社会的うんこ抑圧なのである。

 

 この無意味な抑圧によって、男児たちは大多数のうんこ忌避者と、少数の隠れうんこ遂行者に分かたれる。うんこ忌避は実際身体に悪いし、隠れうんこ遂行も心理的にきわめて負担が大きい。

 そして、うんこ抑圧システムは、さらに少数の、真なる犠牲者を最後に生む。

 

「○○、うんこ漏らしとーー!!」

 

 これは生涯消えぬ汚点であろう。この瞬間、教室内でうんこを漏らしたX君は完全にヒエラルキーの最下層に転落する。(宮沢賢治の『猫の事務所』では最後にライオンが「この事務所は今日かぎりで閉鎖!」と叫ぶが、わたしは今からでも小学3年生のときの教室に戻って、A君がうんこを漏らす直前に、「この教室は今日かぎりで解散!」と宣言してあげたい)

 

 うんこ抑圧システムの特徴は、そこに組み込まれた男児全員において、得をする者がまったく存在しないことである。おそらく校内における男児アイデンティティの確立=女児との差別化のわかりやすい指標として、トイレ個室(=女児)の使用忌避が求められ、さらにこの社会的抑圧が肛門における制御という生理的精神的抑圧と容易にリンクするのだろう。いいからうんこしろ、うんこ。

 

 だからわたしは提言するのだが、小学校の教員、とくに1,2年生の教員におかれては、本気で「うんこ教育」を児童、とくに男児に実施してほしい。

 方法自体は簡単で、とにかく入学初日から、校内でうんこに行くことを奨励するのである。うんこはいいことだ、うんこは大切だ、うんこ・イズ・神聖、他人のうんこにとやかく言うな、先生もきのう学校でうんこしたぞ、云々。

 この教育によって、勇気ある児童が「うんこ行ってきた!」などと言い始めたなら、しめたものである。その場合は諸手を挙げて賞賛してほしいのである。「ユー・アー・グレート」「ユー・アー・プレシャス・ウンカー」「ウイ・アー・プラウド・オブ・ユア・ウンコ」と。「we are the children, we are going to Unko」と唱和しても良い。

 

 トランス・セクシャルのトイレをどうするかという問題についても、この時期のジェンダーアイデンティティ形成と生理的うんこ抑圧の結びつきという記憶を解除しておかなければ、うまくいかないのではないか、とおもう。考えすぎか。

 

 とにかく、以上によってうんこ教育の必要性をわたしは訴える。そして小学生よ、臆せずうんこ行け。

 

 

ケンタッキー州「中絶を受ける妊婦に胎児の超音波画像を見せる法案」の続報

yomu.hateblo.jp

 

 米国ケンタッキー州で、中絶手術を受ける妊婦に、胎児の超音波画像を見せ、心音を聴かせることを強制する法案が提出されたというニュースが今年のはじめにあった。

 上記エントリではこの法案があまりにグロテスクだと批判をこころみたが、その後、この法案がどうなったかが気になっていた。検索すると新しいニュースがすぐに引っかかったので、すこし紹介したい。

 

www.usatoday.com

 

 記事によると、The American Civil Liberties Unionという団体が、同州で唯一中絶手術を行っている「EMW Women's Surgical Center」を代理して、この法案の差し止め訴訟に打って出た。法案そのものは1月9日に知事が署名したのだが、この訴訟により裁判所から(日本で言うところの)差し止めの仮処分が下されている状況らしい。

 

 ACLUは「超音波法」反対の立場に立っている。ACLU側の弁護士は、この法案が、医師が患者に対して自由に話し、適切な情報を与えるのを禁ずることになるとして、合衆国憲法修正第一条を侵害するものだと主張している。すなわち、この処置の最中、医師は超音波診断用の器具を患者の女性器に差し込みながら、画像を見て胎児の様子を説明しなければならないが、これは医師・患者の双方に多大な苦痛を与えるものである、と。

 

 なぜ修正憲法第一条の侵害という主張なのか。修正憲法第一条は「言論の自由」を保障する。門外漢なので全くの推測だが、ここでの「言論の自由」は、言いたいことや書きたいことを政府に抑制されてはならないというニュアンスだけでなく、自分の意に反することを述べるよう強制されてはならない、というニュアンスもあるのかもしれない。だから、中絶手術を受けに来ている女性に「ほら、今から中絶されるあなたの胎児はいま子宮内でこのような姿をしています」と説明するよう強制されることは、医師にとって「言論の自由の侵害」にあたるわけである(と、とりあえずわたしは解釈した…)

 

 さてACLU側の主張に対し、州の保健行政側の弁護士は、本法案は「中絶を後悔するかもしれない女性、中絶の手続きについてよく理解していないかもしれない女性を守ること」を意図しているのだと反論する。超音波画像と心音によって、女性は「ああ、わたしの中にひとりの生きた人間がいる、本当は自分は中絶なんてしたくなかったのだ」と再考するに違いない、と。

 

 以下自分の感想。法案の反対の論拠が、「医師の言論の自由を侵害する」という筋で示されているのが意外だった。手術を受ける女性に不要の苦痛を与えることが最大の問題だとわたしは思うのだけれど、法廷ではそこを攻めても勝ちにつながらない、ということなのだろうか。

 第2に、「女性を守るための法案なのだ」という推進側の主張がやはりグロテスクきわまりないということ。中絶を受ける女性=自分が誤った判断をしていることに気づかない存在、と設定したうえで、彼女らに正しい道に戻るための機会を与えてあげるのだ、という考え方である。パターナリズムのお手本だ。

 「誤った判断」をしようが、それはあくまで彼女ら自身の判断であって、他人が口出しすべきではない……というふうには、「超音波」賛成派のひとびとは考えないらしい。

 かれらにとって、彼女らが「正しい道に戻らない」ことは「死後に地獄に堕ちる/最後の日に復活できない」ことを意味するのかもしれない。そうなると、彼女らがみすみす堕落してゆくのをだまってみている自分も同罪である。そういう論理があるのかもしれない。