しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

鏡の無い時代に生きていたら

朝、鏡で自分の顔を見ると、あっそうかこれが自分の顔だよな、という感覚が生まれる。顔を与えられなおすというか。

次いで好悪の印象がある。なんだか下品で不健康な顔つきだなぁと感じるときもあれば、スッキリした表情をしているなと感じるときもある。

自分が感じている顔つきと鏡で見る顔つきがズレていることもある。自分ではそうと思っていなくとも意外と眉間に皺が寄っていたり、笑顔のつもりが硬かったりする。

長く見つめていても意味がないのでヒゲを剃ったり歯を磨いたりする。

 

鏡が無い時代、ひとびとは朝をどう過ごしていたのだろう。ヒゲを剃るとか顔を洗うとかの営みはあっただろう。けれどもそれは鏡無しで完了した。自分の肌をなぞるのは自分の指だけだった。各家庭、各個人が鏡を持つようになったのは、人類の長い歴史のなかで、ほんの最近の数百年のことである。鏡を得て初めて、自分が実感している表情や感情と、自分の「実際の」外見とのズレを人類は知るようになった。

それ以前は、ただ自分の実感、表情の感じだけがあった。だから眉間の皺はひたすら深くなっただろう。表情や顔つきが制御されることも無かっただろう。それはきわめて高貴な在り方というべきではないか。

 

 

匂いのかたち

ここ数週間、とつぜん、ものの匂いに敏感になっている。季節の変化のためか、体調によるものなのかわからない。匂いという現象があるのだな、ということを改めて理解させられている。

 

とくにはっきりとわかるのが女性の香水である。以前は通り過ぎたときにふっと香りのかすかな残響を感じるぐらいだったのが、最近はもっと「鋭く」感じる。電車などで離れたところに座ったひとの香水がわかることもあって、不思議な変化というほかない。

 

香りを強く感じることがあっても、きわめて不快ということも、心地良いということもない。

もう少し詳しく言うと、強く感じるというより、「正確に」感じる。ピントが合う、というか。

たとえば匂いの強い香水や花などを鼻に近づければ、それまで弱く感じていた匂いを、より強く感じる。しかし最近起きている変化はこうした強弱の感度の変化ではなく、むしろ解像度の変化であるような気がしている。たとえて言えば、ぼんやりとした輪郭で見えていたモノが、コンタクトレンズを付けることではっきりと三角形のモノとわかることがあるが、それに似ている。もちろん嗅覚と視覚は違うので、匂いに三角や四角の形状があるのではない。しかしわたしに起きている変化はたしかに、匂いをそのように捉えるようになった(そういうことがたまに起きる)ということなのだ。芯を捉えるというか、質を捉えるというか…

 

この変化がさらに進むかどうかわからないけれど、香水だけでなくて、いろいろな匂いの「かたち」がわかるようになればたいそう面白いだろうと思う。雨のあと、濡れた芝土のうえを歩いていると、犬ならばこの匂いのかたちがはっきりとわかるのだろうとおもった。とてもうらやましいと思った。それからトンボが飛んでいて、トンボの匂いのかたちを知りたいと強くおもった。

 

(補足)

匂いにも視覚にも独特の本質が生まれてしまう。視覚の場合はそれを「かたち」と呼び、触覚とも対応させる。そうした「かたち」の直観はおそらく固定されたものではなく、無限に深化するものなのだろう。そうしてピカソとかセザンヌとかの芸術家が試行錯誤を重ねて作品を作る。ところがそのような、本質の本質を取り出してゆく作業は、おそらく「よく見る」といったことだけでは不可能なのだろう。見ることそのものを見なくてはならない。

嗅覚も聴覚も同様である。

ベンチにもう交代選手がいない全員野球内閣

個人的な語感の理解になるのだけれど、「全員野球」は、延長15回でベンチ入り選手をほぼ使い切ってしまい、高校生時代にキャッチャーやってたからというだけの理由で一塁手が臨時にキャッチャーやる……みたいな状況で民放の実況アナウンサーが「全員野球となりましたぁ」と言っているイメージがある。

 

だから、よりによってそいつ(また)使うのかよ、自民党の人材プールどうなってんだ、みたいな今回の「全員野球内閣」はむしろ言い得て妙だなとおもっている。

 

これまで見た夢をおおむね覚えている

 他にも同様のひとがいるのか、それとも自分だけの特殊技能なのかわからないけれど、わたしはこれまで見た夢をだいたい覚えていて、(後述する条件があえば)思い出すことができる。そのことについて書く。

 

 まず、自分が覚えている夢(思い出せる夢)は成人以後のものに限られる。たぶん25歳以後くらいからだろう。

 「だいたい覚えている」と上に書いたのはやや誇張で、本当に全て覚えているわけではない。わたしが見る夢は実感としては3種類くらいに分かれている。第1に、やや疲れているときに仮眠した際に瞬発的に見る、数秒間の強烈な夢。第2に、情景やストーリーが非常に濃い、長い夢。第3に、そのいずれでもない、見たような見ていないような、ぼんやりとした夢。

 覚えているのはもっぱら第2のタイプである。このタイプの夢にはしばしば不思議な建物や街並みが登場し、徒歩や車での移動を含むことが多い。それなりにはっきりしたストーリーを持つことも多い。

 このタイプの夢は1ヶ月に1度見るか見ないか、ぐらいの頻度である。だから、もし覚えている夢を数え上げても100には満たないとおもう。

 

 正確に言うと、たしかに覚えているのだけれど、いつも思い出せるわけではない。

 思い出すのはおおむねベッドでまどろんでいるとき。夢の記憶は通常の記憶とややメカニズムが異なるらしく、意識が明晰なときは思い出しにくい。いまこのエントリを書きながら思い出そうとしてみたけれど、せいぜい3つくらいしか映像が戻ってこない。ところが眠りに入る前、うとうとし始めたころ、過去に見た夢の情景が自然と蘇ってくる。うとうとしながら、ああこれは前に見た夢だな、とぼんやり感じている。いつ見た夢であるか正確に確定することはできないけれど、10年以上前に見た夢のはずだと気づいて驚くこともある。

 そして眠りに入ってしまうと、また別の夢を見ることになる。その夢もいずれ別の日に思い起こされることになる。ただし、古い夢も新しい夢も、はっきり目覚めているときに思い出すことはできない。深夜限定で開店するレンタルビデオ店のようなものだ。

 

 ところで奇妙なことに、わたしはこの「一度見た夢をもう一度おもいだす」という出来事をくりかえしくりかえし体験しているのに、その思い出したということ自体を何度も忘れてしまう。うとうとしながら、ああ、また思い出した…と気づいている。しかし目覚めると、かつて見て、忘れてしまっていた夢を思い出したということ自体を忘れてしまう。

 この「想起の忘却」を何度も繰り返したあと、さすがにこれはもったいないような気がするとわたしは思うようになった。そこで、「わたしは見た夢を思い出すことがある」と覚醒時の自分でしっかり思い出しておくことにした。だから今こうやってこのことを書くことができている。ただし、思い出すということそのものを覚えているだけで、思い出される夢の中身は今は思い出せない。

ネット時代の「世に棲む患者」

 あるコンビニの店長が客に対して深夜に卑猥な言動を繰り返していたことが知られ、コンビニ本社はこのオーナー店長とのフランチャイズ契約を打ち切った。

 報道によれば地元では以前から知られていた人物だったらしい。事件化した直接のきっかけは客が店長の動画を撮影し、ネットに上げたことだった。

 事件の責任はこの店長自身の言動にある。動画を撮った客は当然ながら被害者である。その大前提は揺るがない。しかし一方で、動画を簡単に撮影・アップロードできるネットとスマホがなければ、こうした事件化は無かったのではないかとも思う。

 誤解のないよう付け加えておくと、動画を撮影さえしなければ良かったのだと客を責めているのでは絶対にない。誰でもそうするだろう。ただわたしがここで言いたいのは、「ちょっと変なひと」「頭のビョーキっぽいひと」とネットとの関係を、世間はそろそろ考えなければならないのではないか、ということである。

 

 このテーマですぐに思い起こすのが、まず昨年の「性の悦びおじさん」である。電車の車内で「性の悦びを知りやがって…」とブツブツ言う様子が隠し撮りされ、ネットにあげられ、一躍「人気者」になった。しかしかれは程なくして駅構内で一般人に取り押さえられ、窒息死した。最初の動画と死亡事故との間に関係があると断言はできない。しかし知名度が急に上がったことが、彼自身の興奮と、取り押さえた一般人男性たちの心理に何らかの影響を与えていたと想像することはできる。動画で知られてしまったことがかれの周囲の出来事を奇妙に増幅していたように思う。

 

 もう一つの例は、aiueo***という動画をYoutubeにアップロードし続けている男性の事例である。かれの場合は事情がややこしい。かれ自身が自宅周辺の動画を撮影し公開しているからである。それらの動画は彼自身のさまざまな妄想と憎悪に満ちている。かれの動画を観ればたいていのひとが不快に感じる。

 そこで一部の好事家がかれの家を直接訪問し、嫌がらせを行うようになった。aiueo***氏はそれをまた撮影し、アップロードする。被害妄想が現実の被害になってしまった。こうなると悪循環に歯止めがかからなくなる。

 性の悦びおじさんは盗撮の被害者だが、このaiueo***氏の場合はじぶんで動画を撮影している(しかもその動画の中でしばしば他人に攻撃的言動を繰り返している)。この点で二人を同列に並べることはできない。だがネットと動画が状況をより悪化させていること、それも他人が彼らをおもしろがって「いじる」ことで状況が悪化している点は共通している。

 悪循環の引き金を引いているのは間違いなくaiueo***氏だが、かれだけで悪循環は成立しない。仮に動画とネットがなくても、かれは周辺住民に憎悪を振りまいているだろう。かれは地域の要注意人物とみなされ、住民たちから距離を取られ、くりかえし警察のお世話になるだろう。だがかれをめぐる騒動はおおむねその範囲でとどめられる。「町内」の出来事、ひとつの警察署や派出所の出来事におさまる。その町内のひとにとっては大きな迷惑であるけれど、全国区にはならない。父親や母親の様子まで動画に撮られてアップロードされることはない。全国区になることで問題が解決することは決してない。

 

 あれこれわめいているひと、ぶつぶつ言っているひとは、たいていどの町にもどの鉄道路線にもいる。こうした「世に棲む患者」の皆が地域から愛されているわけでも、手厚いケアを受けているわけでもない。ただ、結果的にそこそこうまくやっているひとは少なくない、と言って良いとおもう。ここでの「そこそこうまくやっている」のは、とりあえず当人が死なない・殺されない、他人を殺さない、というレベルの話である。

 ところがネットと動画が絡むと、この最低レベルを一気に割り込む。実際に「性の悦びおじさん」は死んでしまった。aiueo***氏にも同種の事件が起きてもおかしくないだろうとわたしはおもっている。

 

 ネットと動画の無い時代、「ちょっと変なひと」「頭のビョーキらしきひと」「ぶつぶつ言ってるひと」「わめているひと」たちに対して、市井のひとはほどよく距離をとった。たいていは、無理に関わるのでも、殴りつけるのでもなかった。よく言えば「そっと見守る」態度、悪くいえば「冷淡」だった。これは当たり前といえば当たり前のはなしで、現在でも電車の車内でひとりぶつぶつ言い始めるオジサンがいたら、たいていのひとはそっと距離を取って無視する。それだけのことだった。

 ところがスマホが普及すると、なぜか、かれらを「撮影する」「アップロードする」「いじる」という積極的かつ非接触的なかかわりが許容されるようになった。許容されたというのは言い過ぎで、たいていの常識人は依然として面白がって撮影などしないのだけれど、一部のひとはそれが許されるのだと考えるようになった。

 健常者の言動なら勝手に撮影してアップロードするのは躊躇するのに、ある種の精神疾患者ならアップロードして良いと判断してしまうのなら、これは差別的思考と言うほかない。相手を「狂人」や「障害者」と判定することで、倫理的判断のハードルがぐっと引き下げられてしまう。スマホがそれを後押しする。

 

 「そっとしておく」という当たり前で無理のない態度が、なぜかネットでは守られない。盗撮や「いじり」によってそのひとの状態が悪化するのではないかという予測が意識から後退し、「面白がる」という態度に取って代わられる。面白がられて、次いで殺される。

 「ちょっとおかしなひと」とネットに晒すのは基本的に良くないことだ、ネットに出張している「ビョーキのひと」をいじるのは良くないことだ、というコンセンサスをそろそろ社会の人々は確認すべきだとわたしは真剣におもう。

 

 ある種の妄想や強迫観念を持つひとびとにとって、ネットはとても使いやすいツールである。自分を取り巻く陰謀についての情報や「証拠」がいくらでも転がっているし、敵対者をすぐに発見することができるし、リアルではなかなか出会えない同志を得ることもできる。自分が迫害されていることを訴えるための場所として、ブログ、SNS、動画サイトを活用することができる。

 かれらの一部はネットを用いて自ら状況を悪化させてしまう。妄想を強化してしまう。aiueo***氏はその派手な例である。しかし、だから「いじっても良い」ということにはならないだろう。電柱に向かってぶつぶつ説教しているひとも、Youtubeのチャンネルに動画を上げ続けるひとも、自分の世界をそこに見出している点で変わりはない。電柱のそばにいるひとを「そっとしておく」のが正解ならば、Youtubeにいるひともやはり「そっとしておく」べきであるとおもう。

 

 最後にコンビニオーナーの話に戻ると、じゃあやっぱり客が動画を撮ったのは悪いことだったのか、という反論が予想される。この問いに対して、撮るべきではなかったとは答えられない。ただ、かれは本当に職を失うべきだったのかとも考えてしまう。突き詰めれば、町内レベル・地域レベルでの判断こそが実際に尊重されるべきであるとおもう。その町内のひとが「あのコンビニは変な店長がいるから」と判断して店によりつかないようになり、店が潰れたなら、それは町内レベルでの判断である。「変な店長がいるが、まあ別にいい」という判断もありうる。その判断の内部で、変な店長はなんとなく仕事を続けて生きてゆくことができていた。ところが動画によって全国レベルになると判断が潔癖方向に振り切れる。結果、ひとりのおかしなひとが生きる余地が無くなってしまった。それはだれを幸福にしたのか。

 

 

『ふうらい姉妹』鳳さんのモデル

 

ふうらい姉妹』のお姉ちゃんのバイト先の店長(鳳 こだま)のキャラデザは、映画『ファイト・クラブ』(ブラット・ピット主演、デイビット・フィンチャー監督)に登場する謎の女性マーラがモデルなのではないか。

 

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だったらなんやねん、という話なのですが。

父の上司ありがとう


 

 名古屋市に住む公務員の女性(43)は、高校3年の長男を出産した18年ほど前の出来事を今でも忘れない。

 出産を間近に控えた12月の金曜日。医師に「いつ生まれてもおかしくない」と説明を受け、出産準備を始めた。その夜、夫(45)は忘年会。状況を伝えようと1次会が終わった頃に電話をかけた。電話からはカラオケにいるような騒がしい音が聞こえてきた。

 女性「早く帰ってきてほしい」

 夫「忘年会だし、上司がいるから無理」

 女性「生まれるって言っているでしょ!」

 電話は一方的に切られ、そのま…(以後有料記事)

 

 この記事を読んで思い出したことがある。

 わたしの父は、わたしが生まれる日、出勤したもののソワソワソワソワしてまるで仕事が手につかなかったそうだ。見かねた上司が「高原君、今日はもう帰ってええで。奥さんのとこ行ったり(行ってあげなさい)」と父に早退を命じ、父は産院へ走ったという。そしてわたしが生まれた(父が産院に着いたのが出産の前なのか後なのかは知らない)。

 この記事のご夫婦も、このような上司だったなら結末はちょっと違っていたかもしれない。わたし自身は顔も名前もまったく知らないひとだけれど、帰ってええでと父に行ってくれてありがとうございました。

 とりあえずそんだけの話でした。