しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

被害者をだまらせる技法 ―伊藤詩織『ブラックボックス』感想

 伊藤詩織『ブラックボックス』(文藝春秋、2017年)を買って読んだ。ジャーナリストとしての就職を望んでいた著者が、TBSワシントン支局長の山口敬之氏から性的暴行を受け、同氏が不起訴処分となったことから検察審査会に申し立てを行った。その申し立ての報告として記者会見を行った際には、名字は伏せて「詩織」とだけ名乗っていたが、性暴力被害者が司法手続きを求めて実名と顔を出し声を挙げたことは大きな驚きを呼んだ。本書では被害に至るまでの経緯から、「ブラックボックス」の中で起きていたこと、その後の混乱と攻防、記者会見までの流れを書いている。性犯罪被害者自身による手記としてはこれまで例えば小林美佳『性犯罪被害にあうということ』(朝日文庫、2011年)がある。本書はそうした当事者手記という側面を持つ一方で*1、政権中枢と強いつながりを持つ大物ジャーナリストを加害者として告発するという別の文脈も帯びることとなった。

 

 読んで改めて考えたことは、性犯罪被害者をだまらせ、罪の告発をあきらめさせるためのさまざまな技法や制度や慣習がこの国にはあふれすぎている、ということ。規模や方法の異なるさまざまな「黙殺の装置」が網の目のように張り巡らされている。装置の個々の部分については、実は意外と多くのひとが認識している。男女問わず。それが個別のものとして現れてくる場合に限っては、「まあ、世間ってそんなものだよね」といいながら多くの人がそれを乗り越えている。けれども、性犯罪の被害者という立場に突然投げ込まれると、それらの装置の各部分が突然総動員され、お互いに連携を始め、被害者を多重に取り囲んで執拗に責め立てる。その装置が伝えるのはただひとつのシンプルな命令、すなわち「だまれ」だ。事件について沈黙し、自分が被害を受けたことを隠し、加害者への告発を取り下げ、場合によっては引き続き加害者の支配のもとにとどまり、そうでなければ彼の支配圏からそっと姿を消すこと。男性が女性に対して望むときに暴力と権力と快楽を行使できるための環境を維持すること。それがこの装置の目的である。

 この沈黙の命令は、この装置の存在そのものについても言及することを避けよ、というところにまで及ぶ。J. ハーマンが『心的外傷と回復』の序文で、『1984』の「二重思考」を引き合いに出したのはこのうえなく適切な喩えだとわかる。というか、喩えですらなくて、本当に二重思考そのものをこの装置は強いる。つまり、そうした沈黙を強制する制度や文化があること自体について、沈黙せよ、忘れよ、と命じつつ、その命令が有効であり続けるために、命令されたことをいつでも想起できるようにしておけ、というのだから。

 被害者を取り囲んで沈黙を強いようとする「装置」が十全に起動したとき、事件は本書の題名である「ブラックボックス」のなかに無事とじこめられる。だから、(多くのひとが勘違いしうるのではないかと思うのだけれど)題名の「ブラックボックス」が意味するところは、事件が客観的にはブラックボックスとして映るかもしれないけれどわたし(著者)が言っていることは本当だから信じてください、ということではなくて、声と事件をブラックボックスに押し込めようとする制度、文化、技法が存在するということそのものなのだ。言い換えれば、ブラックボックスとは事件が起きたホテルの狭い空間と時間のことではなくて、それをブラックボックスにしてしまう世間そのもののこと。そしてこのブラックボックス化しようとする仕組みは、事件を法的に封印するだけでなく、被害者の心身の傷を文字通り拡大するようにも機能する。

 

 本書はそうしたさまざまな多重の装置の部品をひとつずつ説明する。『世間の現象学』と副題を付けてもよいぐらいだと思う。裏側から見るならば、被害者を沈黙させるために加害者が活用すべき技法についてのマニュアルでさえある。本書は、ジャーナリストを志望して加害者と接点を持つまでの前日譚、次いで事件の発生、混乱、司法手続きを求めての行動、不起訴処分と記者会見までの流れを描きなおしている。その流れ自体が、著者が「沈黙を強いようとする装置」のひとつずつに出会うストーリーとなっている。著者は、自分が被害を受けたという、ただその事実と正義の確認をさしあたり求めているにすぎない。自分が存在しているということ、ただその確認にほかならない。わたしがここにいます、ここにいるのはわたしです、わたしはわたしです、という、ただそれだけのこと。ところがそれが一連の戦いと絶望のプロセスになってしまう。

 立件に対して拒絶的で、被害者に何度も事件の供述を繰り返させる警察。緊急避妊ピルの処方に際しても性犯罪被害を想定していない婦人科医。「合意」の有無を加害者の主観に求める法制度。「仕事が続けられなくなるよ」という”善意”のすすめ。記者会見直後から始まる非難や嫌がらせの電話。おそらく政権中枢からの逮捕差し止めの指示。男性であり、「男性的」であればあるほど(すなわち地位や権力が強いほど)、これらの仕組みをフル活用することができる。殺人や詐欺やスピード違反の犯人ならば警察と世間から追われるのに、性犯罪の場合に限っては、加害者が逆にこれらを味方につけて被害者と「戦う」ことができてしまうのだ。

 本書第2章のホテル室内でのやりとり、第3章、第4章の加害者とのメールのやりとりは、男性がこうした技法に頼るとき、どれほど自然にこまやかにそれを使うことができるか、その最良の見本を示している。

 「(就職について)合格だ」と言うことで、これが性と暴力の出来事ではなく、自分の権力のルール内の出来事だと示す。何事もなかったかのように事務的な連絡を入れることで、事件を忘れたかのように振る舞えば就職の話はそのまま実現することを暗示する。事件について説明を求められると「冷静になってください」と突き放し、事件の具体的な経過については完全に話を創作する。謝罪の意思の有無についての議論を、事実関係についての議論に後退させる。同時に、「問題を解決するためにわたしも努力を惜しまない」等、善意の協力者のような立場にシフトする。相手のことを、〈レイプの濡れ衣を自分に着せようとする悪どい女〉として扱うのではなく、あくまで〈酔った勢いで自分を誘惑してきた、自律と理性の欠けた女性〉であったことを思い出させてあげようとする。「冷静に」「落ち着いて」という言葉を受け入れさえすれば、被害者はむしろ自分ではなかったかもしれないとあなたは理解するはずなのだ……というストーリーが即座に組み上がっている。著者が警察官に言われた「もっと泣くか怒ってくれないと伝わってこない。被害者なら被害者らしくしてくれないとね」(76頁)という発言は、実質的に加害者との「共犯関係」を形成している。被害者女性は取り乱し、泣き喚かなければならないのだ。そうであって初めて、男性は「落ち着いて」と彼女を受け止め、”あるべき方向”に導くことができる。感情的であるから冷静になれと求め、冷静であるのはおかしいと求めるのが(あえて主語を大きく一般化したうえでの)「男性」の戦略なのだ。

 

 加害者がこうしたミクロなテクニックを当たり前のように駆使できているのはなぜなのか。同様の犯行を実は何度も繰り返していたから、という可能性もあるかもしれない。そうであったとしても、なかったとしても、自分は驚かない。「初犯」であったとしても、やはりかれはこの技法に頼ることができるのだと思う。というのは、これは性犯罪者に独特のやり口というよりは、男性が女性に対して権力を存分に行使する際の常套的なやり口だからだ。つまり、権力を行使しつつ、その行使の跡を消すという方法。これは殺人犯が死体や血痕を埋め隠すのとは、少し異なる。殺人犯が死体を隠すのは、殺人が悪事であることを認めているからだ。犯人は、殺人は悪であり違法であるというルールを破りつつ、それに従っている。これに対して、本書の加害者が行おうとするのは、権力が男性のルール内で「適正に」行使されたことを女性に同意させようとする、そうした権力の行使である。メタ的なので、前述の「二重思考」型になるのだ。

 そしてこのタイプの権力の発揮は、実のところ性犯罪に限らない。世間のあらゆる局面にはびこっていて、その中で生きる以上、だれもが多かれ少なかれそこから利益を供給されている。この国で男性として生まれるということは、この装置を活用する権利をまず与えられるということを意味する。ただし自分の人生をそこに完全に一体化させてしまうか、それなりに距離を取るかはある程度選択ができる。女性として生まれるということは、この装置の存在に気づくという義務を課されることを意味する。ただし、気づいた上でそこに順応するか、それともそこから自分なりに距離をとってゆくか、という選択肢は与えられない。そこから離れようとする女性を、装置(とそれに一体化した男性)は自身のもとへ連れ戻そうとする。その装置の部品のひとつとして、陰茎が勃起する。強制による性交は権力の行使の手段でも目的でもありうる。いずれか片方に還元しようとすると装置の本質を見誤る。そしてその際、装置の発動は、強いものが従順なものを愛し、認めるというシナリオで行われる。だから権力の行使といっても、機動隊が哀れな農民を殴りつけるといったスタイルにはならない。加害者は「君のことが本当に好きになっちゃった」「早くワシントンに連れて行きたい。君は合格だよ」(52頁)と言う。おそらくこれは彼なりに本心なのだろう。かれが「装置」に一体化してゆくタイプの人物であることは、本書で描かれるかれの立場や立ち回りから推測することができる。だから、かれは権力を行使するミクロ・マクロの技法について、仮にこの事件が性犯罪としては初めてのことであっても、あらかじめ知悉していたのだ。

 

(追記:けっきょく、この国で男性として生まれて男性として生きるとは、どういうことなのだろう、と考えてしまう。自分が権力を持つ業界に入ってきた若い女性を誘い出し、酒に薬を混ぜてホテルに運び込む、ということをわたしが今後するかどうか考えてみると、その可能性は低いとはおもう。本書を読んだ男性も、読まない男性も、そのきわめて大多数は、やはりそういった行為とは無縁だろう。けれども、本書で著者が描出する「だまらせるテクニック、制度、文化」のひとつずつを確かめ直すとき、ミクロなものはわたし自身しばしば使っているし、マクロなものについては気づかずそこに一体化している。これは「自分も潜在的な加害者なのだ」といった反省のポーズで片付く話ではなくて、つきつめれば認識論の問題であるのだとおもう。女が気づいているもの、被害者が鋭敏なアンテナで気づいてしまうものを、男は見出すことができない。権力や暴力をとおりすぎるということが、このからだによって実現されている。)

 

追記2: このエントリで自分は著者が告発する山口氏を一貫して「加害者」と記述している。書類送検を経て不起訴処分に至ったので、推定無罪の原則からすればかれは現在のところ無実のひとである。だからわたしが山口氏を加害者と断定するのは不正であると言える。「著者によって加害者として告発されているところの男性」と記述すべきなのかもしれない。

 にもかかわらずわたしが敢えてこうしたカギカッコ付きの表現を用いなかったのは、2つの理由がある。第一に、著者による冤罪やでっちあげの可能性を感じさせるような箇所を本書のなかに見出すことができないということ。第二に、留保を付けながら記述するという態度自体が、より大きな不正でありうる場合があり、これはまさにその事例であると思うということ。「被害者を自称する人物によって加害者として告発されている男性」という留保的な表現を用いることは一般に奨励される。加害者だと早急に断定して一方を攻撃することは、とりわけ冤罪被害の拡大を防ぐために避けられなければならない。けれども、そうした留保の態度は、「真偽が不明なうちはいずれの味方もせず、権威による事実認定が確定したのちに真の悪人を存分に叩くべし」という攻撃的日和見主義に簡単に転化する。冤罪被害を考慮して被害者の証言に慎重に距離を取るということと、告発に失敗した被害者を攻撃する権利を保ち続けるということは、紙一重なのだ。

 とりわけ告発する証言者(著者)の視点からすれば、この留保的な態度は「あなたの言っていることを半信半疑でいちおう聞いてあげます、もしあなたが私の説得に失敗すれば、私はあなたを攻撃するけどね。さあ申し開きをどうぞ」というメッセージとして成立するのではないかとおもう。それは、世間という大きなブラックボックスの機能の一部として彼女の前に現れるということ。

 そうならないためには、「加害者とされている人物」を過剰に攻撃することは抑制しつつ*2、ある一線を踏み越えて告発者の言い分の肩を持つということがどうしても必要になるとおもう。留保的な表現を用いなかったのは以上の理由による。これは英語ではadvocacyと呼ばれる態度であると思うけれど、日本語になかなかしっくりくることばが見つからない。(2017/10/20)

 

*1:それぞれの本と著者を「こういう分類の本」としてカテゴライズすること自体が間違っているのだけれど…

*2:このエントリがそうであるかは批判を待つべきところだ

生態系っぽい場所に幸福を感じる。

生態系っぽい場所に幸福をかんじる。

道を歩いていてたまたま見つけたぽっかりとした空き地、たとえばモノレールの高架の下の空間に、草がしげっている。草は種類によって背丈が異なり、もわもわもさもさとしている。葉のあいだや土のおもて、土のなかに虫が棲んでいて、さらに小さな菌類やカビのたぐいがはびこっている。それぞれの生きものや無機物がちまちまと生活し、出入りしている。

 

ここはそーゆー空間のようだ、ということに気づいたとき、不思議な喜びをかんじる。生態系、と言うと言葉がやや大きい。もっとこじんまりした部分。ここにはたくさんの知らないものがもぞもぞしている、と想像したとき、あの独特の幸福がある。

きれいに刈り込まれた植え込みや、人通りの多い緑地にはそれをあまり感じ取ることができない。人間から離れたところで、その空間自身がときの「厚み」を蓄積してゆくといったことが必要なのだろう。

 

ただし、わたしは生物学者ではないので、その内部に深く分け入ってひとつずつの種や生態をしらべてゆくことはできない。あくまで想像だけなので、生物学者の感じるものに比べれば、この幸福の感情も真髄を欠いたものであるかもしれない。

蜘蛛の巣が撮れない

面白いものを見つけたらiPhoneのカメラで写真を撮る。

朝のキャンパスの坂道にいたカメとか、部屋にいたバッタとか、マンションの階段にいたトカゲとか、かたつむりとか、たい焼きとか、弟の部屋で飼われている水棲のカメとか。

 

今朝は通学路にたいそう立派な蜘蛛の巣が張られてあって、それは高架橋のように坂道の上に覆いかぶさって交差していた。たいへんよろこばしいことであると思ってiPhoneのカメラを向けてみるが、画面には蜘蛛の巣がほとんど写り込んでこない。背後の日光や樹木の色が、蜘蛛の糸の細さに比して強すぎるのかもしれない。こうなるとiPhoneを前後に動かしてみても無理で、プロの昆虫写真家が大掛かりなレンズやカメラを用いるのも(それらの仕組みは知らないけれども)とりあえず納得がゆく。

 

視線をiPhoneの画面から蜘蛛の巣そのものに向けかえるとたしかにくっきりとそれはそこにある。わたしが見えているものをこの機械は映さない。目の前わずか30センチほどの近さにあるものが。このことが、おもしろいなとおもう。

 

わたしは目の前の蜘蛛の巣を捉えているけれど、iPhoneやカメラは「捉える」ということをしてくれない。人間はたいていそのようにしていて、それ以外のありかたがほとんどない。

そこにそれがまさしくそれとして存在している、という心身の姿勢が人間にはある。なにかを捉えていたり捉えていなかったりすることと、心身がそれに対応した姿勢にあることは、本質的に等価なことなのだろう。つまり、心身のある状態や機能が先に存在していて、その能力がわたしの内側から外界に見えない触手を伸ばし、対象物を探り取り、ようやく掴み取るのではない。姿勢と対象は別個のものではなくて、不可分のことなのだとおもう。強いていえば、リズムとリズム、波形と波形の共振が最初にあって、そこからスペクトルが徐々に分解されてゆく。ところが分解されて現れたものを最初のものと誤認してしまう。認識の「両端」に見るものと見られるものを対置して、それぞれの連続性や恒久性(物体の、あるいは身体や精神の)をごりごりと切削しようとしてしまう。

その方向で技術を進めてゆけば、蜘蛛の巣を撮影することのできるスマートフォンも発明できるかもしれない。けれど、「蜘蛛の巣が撮影できないな」という発見のなかに潜んでいるいろいろな共振なノイズを受け止め直すことは、できなくなってしまう。そういう気がする。

話が飛躍しすぎた。

 

伊能図を正確だと直観できてしまうことのふしぎさ

伊能忠敬の地図が、不思議だなとおもう。

不思議なのは、あれを見たひとのおそらく全員が、「この地図が本物の地図なのだ」と確信してしまうということ。

 

それは江戸時代にあの伊能図を見た幕府の役人もそうだっただろうし、現代の人間もそう感じる。それ以前の地図と比べると決定的にちがう、ということがひと目でわかる。

 

この直観に確たる根拠は実は無いのではないか。だって、だれも、日本の地形を上空から見たことはないのだから。とくに江戸時代の役人は航空写真や衛星写真といったものを見たことがない。したがって、あらかじめ地形の正確さについての知識があったわけではない。けれども、伊能図を見れば、これこそが本物の正確な地図だと確信せざるをえなかった。

 

伊能図が正確なのは、測量をしたから。

伊能忠敬たちは、ある基準点からの距離と方位をくりかえし算出し、そうして得た座標群を縮尺して紙上にプロットし、地形を描出した。言いかえれば、ある地点はある地点に対して緯度経度でどれだけ離れているかということを、すべて数値で表現した。

 

しかし、「だから正確なのだ」という納得をしてしまうと、ここでの問いから滑り落ちてしまう。これはすでに「伊能図側」の時代にいる人間の納得の仕方である。

実のところ、測量とは何かということを知らない人間であっても、やはり伊能図の方が、それまでの地図と比較して、全く段違いに「本物だ」ということをすぐに確信してしまう。「数学的に測量を重ねた結果であるから」という説明は、伊能図の「本物さ」という直観を後から補充するにすぎない。伊能図とそれ以前の地図を見比べても何も違いを感じず、前者は測量によって得られた地図だと説明されることで初めて伊能図の方がなんだか正確に見えてくる、ということは、おそらくありえない。

 

伊能図が本物で正確だと直観してしまうのはなぜか。ひとつには、地形についての余分な情報が余すところなく含まれているからだろう。それまでの地図は、「だいたいこんなかんじ」というフィーリングで地形を描いていた。したがって、たとえば半島を描く際も、それがその半島であるというおおまかなカタチを描けばそれで十分であり、その半島の東側の海岸線と西側の海岸線のどちらがどれくらい長いか、どこに小さな湾曲があるか、といったことは省略された。船着き場になる湾など、役にたつ地形、目印になる地形であれば書き込まれた。基本的に「必要な」地形だけが選択された。

これに対して、伊能図はそうした「余分な」地形もすべて測量した。したがって、同じ半島でも、筆でシュッと描くのとは違って、独特の凸凹具合で描かれることとなった。人間の普段のフィーリングとは異質なものが表出されていた。*1

正確に言えば、要らないものも描いたというより、すべての地形を平等なものとして扱った、ということになろうか。全ての「場所」は、ただ緯度と経度の情報のみに変換された。重要な都市や街道などは、座標と地形描出が全て完了してから、あらためて付加的に書き込まれた。ある場所が重要か否かということと、その場所の座標の数値は全く関係が無かった。

 

すると伊能図が「正確」だと直観されるのは、実は人間の価値観や知覚からいったん離れて、数学的測量という仕方でリセットされているから、ということになる。伊能図を見たひとの「これこそが本物の地図だ」という直観の中身は、「これはぼんやりと描かれたものではない」という直観だった。

これは実はとても奇妙なことで、自分自身の錯覚や価値観や直観からいったん離れて提示されたものを、逆に「正しい」と直観することができてしまう、ということである。

 

このように考えましたが、だんだんと知識の不足が感じられますので、いったん終わることにします。

*1:伊能図でも川や山はけっこうシュッと描かれているんだけども

文系院生、工学型の「発表12分・質疑応答3分」学会発表を初めて体験する

一昨日と昨日、災害復興学会に行って発表をさせてもらった。

場所は兵庫県立大学の旧神戸商科大学キャンパス。初めて訪れたが、こじんまりしていて、建物と木々が美しくて、いいところだなぁと感じた。ここで学ぶ学生は自然と気持ちが落ち着いてくるだろうな、と思った。

 

学会運営は各所がきちっきちっとしてダレるところがなく、災害現場でぐりぐり実践しているひとたちの集団という雰囲気があった。

 

ところで単独での口頭発表を今回はじめてさせてもらって驚いたのは、ひとりあたりの持ち時間が15分しかないこと。発表12分、質疑応答3分という規定。

 

哲学の学会では「口頭発表30分、質疑応答20分」というのがよくあるパターンなので(もっとも、50分中45分くらい喋りまくってほとんど質疑を容れない人も多い……)、「12分と3分」というのは初めての体験だった。

とにかく発表者がどんどん入れ替わってゆく。発表者のみなさまはいずれも、研究背景、先行研究、リサーチクエッション、考察、発見、結論、今後の課題、提言といった流れでぽんぽんコンパクトに投げかけてゆく。とても効率が良い。

 

災害復興学会は学際的な学会で、都市計画、建築学社会学、質的心理学といった分野で自然災害復興に関わる研究者や、NGONPO・行政関係者が集まる。強いていえば理系7割:文系3割ぐらいのイメージだろうか。この「12分と3分」はたぶん工学畑のひとたちの文化なのだろうとおもう。

 

さて「30分と20分」に慣れた自分が「12分と3分」でやってみるとどうなるか。自然、どうしても内容を詰め込みすぎるはめになった。とくに自分は「どうやってその問題に入り込むか」ということ自体を意識して記述するので、序盤もたもた、後半はコンテンツ多すぎ、というかんじになったような気がする。反省点。

 

「12分-3分」型の口頭発表は、議論をぐぐぐと深める場というよりは、報告と情報交換をざくざくすすめる場ということなのだろう。じっくり議論したい場合はポスター発表のほうが良い。(※ここまで書いてやっと気づいたが、今回自分はポスターと口頭の両方をさせてもらったのだけれど、ポスター発表でとりあげたテーマがむしろ口頭発表の方に向いていた。逆にすればよかったかも?)

 

30分-20分と12分-3分のどちらが優れているか。当然一長一短、結局のところ文化と伝統の問題で、郷に入れば郷に従えというものでしかないだろう。

個人的な意見を言わせていただくと、哲学の学会で「では原稿を読み上げるかたちで発表させていただきます」と言って、後は顔を上げずにただ原稿を早口でだーっと読み上げてゆくだけという人も多いけれど、あまりに芸が無い。対話もない。

他方、「質疑応答3分」というのも、実際に参加してみるとちとしんどいなと感じた。やはり対話にはなかなかならない。3分では質問者2人がぎりぎりで、他のひとが手を挙げるかもとちょっとビクビクしてしまう。

 

発表15分・質疑応答15分というのがちょうど良いような気がする。しかし発表者数を半減させることになってしまう。唯一の解は無いのだろう。

 

畑違いの人間が迷い込むと、受け入れる側にはいろいろご迷惑をおかけするし、自分でも慣れないことにぽつぽつつまずくけれども、経験値を荒稼ぎできることは確かで、参加させてもらってありがたかった。

最後になりましたが、ポスター発表、口頭発表のそれぞれをお聞きくださったみなさま、ご質問・コメントをくださったみなさま、また学会本部のみなさまにお礼申し上げます。本当にありがとうございました。改めて気持ちを込めなおして研鑽に励みたいと思います。

感極まって何も言えずにただ深々とお辞儀をするというドラマ演出のクソさ

実家に帰るとテレビドラマを見ることになる。主人公が、周囲のひとびとの温かい拍手や助けをわーっと寄せられて

 

感極まって何も言えずにただ深々とお辞儀をする

 

という演出がやたらと多い。

 

クソかって思う。そもそもそんなタイミングでの無言の「お辞儀」見たことねーよ、というのがひとつ。

お決まりの演出ばっかしてんじゃねーよ、というのがひとつ。

最後に、この「感謝と感激で何も言えなくなってただお辞儀するしかない」という動作を当てられるのが、若い女優(特に20歳代で、奮闘新入社員みたいなキャラ)が多いということ。

 

感極まって何も言えなくなるということは、そりゃ無いでもない。

けれど、やっぱりそのあと何かのことばが続くはずであって、お辞儀だけで終わるものではない。

 

「若い女性はことばを持たない」というイメージが演出の裏にあるような気がする。

イメージという言い方は曖昧で良くないのだけれど。

 

あるいは、持ってほしくない、というか。

 

国立国会図書館のデジタル化資料送信サービスを使ってみた

学内に無い論文の複写取り寄せを大学付属図書館に依頼したら、「国立国会図書館デジタル化資料送信サービス」で閲覧できるから取り寄せ依頼はキャンセルさせてもらうねと返信をいただいた。

 

図書館向けデジタル化資料送信サービス|国立国会図書館―National Diet Library

 

国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されたデータの一部は一般公開扱いで、自宅PCなどから誰でも閲覧できる。それら一般公開以外のデータも、大学図書館の専用端末からスキャン画像やPDFを閲覧できる。それがこの「デジタル化資料送信サービス」。

 

資料の検索画面はやや使いにくい。できればCiniiとインターフェイスを合わせて欲しい。とはいえ、欲しい書誌情報があらかじめ決まっている場合は、ぽちぽち検索しているあいだに見つかる。

 

で、ここからが本番なのだけれど、探し出したデータのコピーを手元に残したい。しかし「いま閲覧しているデータをPDFとして保存する」といった機能は無い。*1

 

そこで、「国立国会図書館デジタル化資料複写申込書」という用紙に氏名や書誌情報を記入して大学図書館の窓口に提出する。

f:id:pikohei:20170921084144j:plain

(紙で隠しているところには、申込者の氏名、所属、身分、支払い区分、連絡先、講座責任者名を書きます)

 

公費なら1枚10円、私費なら1枚20円になる。今回は私費で70枚、1400円を支払う。

 

この申込用紙を提出、受理された後、数時間後に「印刷終わったから窓口に取りに来なさいな」とメールをいただく。現金で支払い、紙に印刷された資料と領収書を受け取る。

 

PDFでクレ。

f:id:pikohei:20170921085559j:plain

 

このあと、受け取った印刷資料をScanSnapでPDF化した。

国会図書館サーバ→画像データ(おそらくPDF)→大学図書館→印刷→ぼく→スキャン→PDF

という雅な手順を踏むことになるわけで。いったんデータで送信されたものを、なぜ紙媒体に落としてから渡されなければならないのか、理解に苦しむ。データのやりとりだけなら紙の使用も減るし、窓口業務も減るし、料金も抑えられるだろうに…(有料であること自体はかまわないのだけれど)。

 

おそらく著作権との絡みがあるんだろうけれども、現代ではScanSnapのおかげでPDFと紙の境目はかなりシームレスになっている。紙で渡すから著作権が守られる、ということにはならない(もちろん、わたしは自前でPDF化した資料を一般公開しないけれど)。

著作権上の制約があるなら、「画面上でのみ閲覧可、PDFも紙もダメ」と「閲覧可、PDFでDLも可」に分けるべきであって、「紙なら可」と「PDFも可」の間で線引きをするのは本質的ではないようにおもう。

 

分野によると思うんだけれど、この手の文献漁りが卒論や修論では集中的に必要になる時期がある。取り寄せサービスを使っていると、論文一本につき500円ぐらいぽんぽん飛んでゆく。もともと有料の論文雑誌サイトからサブスクリブする場合はしょうがないけれども、本来は無料あるいは可能な限り廉価で閲覧されることを目指しているはずの学術アーカイブで、上記の妙な紙信仰のような理念のために印刷代として500円や1000円払わなきゃならんのはあまり合理的とはおもえない。学部生や院生のHPもけっこう削れてゆく。

 

*1:インターネット一般公開のデータの場合はPDFがぽんと置いてあってDLできるのだけれど