しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

『風の谷のナウシカ』が長期連載化したら

大海嘯・オーマ編(1-7巻)

クシャナのトルメキア再興編(8-13巻)

チクク修行編(14-16巻)

アスベル流浪編(17巻)

蟲使い13支族最強戦士トーナメント編(18-25巻)

ラピュタ島封印編(26-29巻)

クロトワ覚醒編(27-30巻)

チヤルカ料理対決編(31-45巻)

アスベルの息子が流浪の父を探して冒険に出る編(46-52巻)

テパ編(53-56巻)

テパ・砂の谷編(57巻)

ペジテ再建編(58-60巻)

ナウシカ復帰編(61-66巻)

テパ&ナウシカ共闘編(67-69巻)

火の七日間編(70-75巻)

エフタル編(76巻)

クルバルカ決戦編(77-82巻)

マニ族帰還編(83-84巻)

セネイの日常編(85-86巻)

 

奄美へ行った

 大学院時代に旅行記を2回書いている。

Trip to Toronto(2期生高原さんの独占ルポ) | 大阪大学 未来共生イノベーター博士課程プログラム

From: T(2期生「海外インターンシップ」@タイ) | 大阪大学 未来共生イノベーター博士課程プログラム

 その後も小さな旅行に何度か行ったけれど、まとまったかたちで文章に残すことを怠ってきた。書かなければ忘れる。

 

 先週から昨日まで、奄美大島に4泊5日で旅行した。全くの観光旅行だった。そこに有るものを観て喜んできただけである。とはいえ多くの印象があった。いくつか書いておくことにする。

 

Day  1

 関西から奄美大島は意外と近い。伊丹空港からJALに乗って90分で奄美空港に着陸する。空港は島北部・太平洋側にある。そこから北端近くの「あやまる海岸」にゆくと、価格の無い青空と水平線がそのまま広がっていた。

f:id:pikohei:20190911115800j:plain

いきなり非日常だった


 奄美は海見である。波がほとんど立っておらず、海中を覗き込むと濃い色の小魚がゆたゆたと泳いでいる。干潮の時間帯らしく、珊瑚が作った浅瀬がしばらく広がる。おそらく火山性の黒い岩が写真のようにころがっていて、幸福なようでこの世の終わりの後のような風景でもある。直射日光を受けて、水面下の藻がしきりに泡を出している。薄い水面に小さな泡がぽこぽこ昇っている。それを見ることができるほど波が無い。旅行者にはすでに非日常の世界と映る。

 

Day 2

 2日目は加計呂麻島にゆく。奄美大島南端部の古仁屋港からフェリーに乗って20分で加計呂麻島に着く。フェリーの船員さんはみな肌が焼けている。郵便局の赤いミニバンも乗船する。

 奄美大島には蝶がきわめて多い。加計呂麻島にも同様に多い。両島を隔てる大島海峡の上を蝶が飛んでゆくのを船上から見つけて驚いた。対岸に渡るのだろう。海峡を渡る蝶と書くと詩的だけれど、実際に目の当たりにすると奇妙と感じるほかなかった。

f:id:pikohei:20190912101033j:plain

対岸が加計呂麻島

 加計呂麻島には「震洋」の基地跡と、島尾敏雄の文学碑がある。文学碑には『死の棘』を「愛の高みを祈り刻んだ文学作品」と讃えていたが、作品の筋を考えるとこれはどうにも滑稽な評と感じる。「高み」と言っていいのだろうか。

 文学碑は島尾敏雄が隊長を務めていた震洋攻撃隊基地跡の、その中心部に設置されている。170名前後の兵士が起居していたという。170名それぞれに物語があったはずなのだけれど、隊長とその恋人の逢瀬の物語だけがドカンと基地中心部に顕彰されているのも、どことなく喜劇的な光景である。

f:id:pikohei:20190912135034j:plain

震洋」待避壕

 文学碑から海岸に歩くと、写真のようなカマボコ型のトンネルが戦時のまま遺されている。内部に特攻艇「震洋」を隠していた退避壕である。写真のものは見やすくされているが、他の壕はすでにマングローブに濃く隠されている。

 震洋の名前は知っていたが、基地跡を見るとその規模の小ささに驚く。ここから20隻の特攻艇が出撃して、仮に半数が首尾よく命中して、10隻の輸送船や駆逐艦が沈むか大破したとして、それで戦略的にどのような「次」にどのようにつながってゆくというのか。仮に最上の戦果を挙げたとしても、米軍の侵攻を1週間か1ヶ月か遅らせることができたとして、そこにどんな意味を見い出せというのか。

 

 加計呂麻島からの帰りは18時のフェリーに乗った。島をぐるりと回って1時間ほど余ってしまい、船着き場でぼんやり過ごした。船着き場は広い駐車場になっていて、工事労働者が5、6名すわりこんでいる。わたしたちのような観光客が他に2組ほどいる。島内を回る町営バスが1台ずつ集まってきて、ドアを開けっぱなしにして止まる。みんなフェリーが来るのを待っている……と思っていたら、小型のプレジャーボートが先に来て、これが海峡の乗合船だった。工事労働者は慣れた足取りで舳先から乗合船にのりこんだ。5歳くらいの女の子を背負った若い母親らしき女性がひとり、そしてまた同じような年頃の女の子を背負った別の母親らしき女性がひとり船着き場に来て、お互い世間話をしているようである。このひとたちも対岸に渡るのだろうかと思って見ていたら、そうではなかった。奄美大島から帰ってくるだれか、たぶん夫であり父である働き手か、そうした家族を待っているのだ。そうして対岸の古仁屋港を出たフェリーの船体の一面が西陽によって白く輝き、それが速度を出すことなく近づく。ついに着岸してもやい綱が船着き場に巻かれる。がらがらとフェリーの乗車板が降ろされると、まず奄美大島側で働いていたひとがぞろぞろ降りてきて、町営バスに乗るものもあれば、迎えの軽トラに乗り込むひともいる。高校生らしきひともいる。先程の女の子たちは母親の背によじ登ったり降りたりをくりかえしている。一日だけの島回りの観光客は、おかえりなさい、という彼女らの視線の先を探すひまなく乗船した。

 

Day 3

 染色工房の職人らしき初老の男性に神戸から来たと申し上げると、あのあたりには奄美出身者も多い、自分の親戚も仕事場兼自宅が全壊した、と言われる。最近はこのような体験が多い。神戸から離れると神戸のことを聞く。ひとびとの語りの吸い取り紙のようになっている。

 

Day 4

 金作原原生林を見学する。国立公園であり、認定ガイドの同行なく入ることはできない(法律上の罰則規定は無いのだが)。わたしたちは「観光ネットワーク奄美」のガイドを頼った。9時に名瀬を出発して昼過ぎに戻る。ガイドの方に説明していただいて初めて知ったことだが、奄美市の沿岸市街部の大部分は、戦後、人口急増に伴って大規模に埋め立てたエリアである。埋め立ては数度にわたって行われ、沿岸部道路沿いには古い埋め立てエリアの防潮堤がそのまま遺されている場所もある。博物館で新旧の空撮写真を見ると、埋め立てによって湾が狭められていった過程がよくわかる。

 

 その後、「あまみ庵」という古書店に入る。これが「濃い」古書店で、仮に奄美大島に大学を作るとすればこの書店がそのまま附属図書館になるような、奄美に関する本をとにかく全て集めた場所である。以下4冊を購入する。

●本田硯孝編著『奄美民話集2 吉永イクマツ媼昔話集 1984』道の島社、1984

●本田硯孝編著『奄美民話集3 池水ツル媼昔話集』1988年

立命館大学説話文学研究会編『昭和五十六年度・五十八年度調査報告 奄美笠利町昔話集』1986年

●昇曙夢『復刻 大奄美史』南方新社、2009年

 

 2冊の『媼昔話集』は強烈な磁力を発している。『吉永イクマツ媼昔話集』では、このイクマツさんというお婆さんが一人で語った170もの昔話が採録されている。ものすごい記憶力。

 左側のページに録音テープそのままの書き起こし、右側にその大和言葉訳が併記されている。左側のページを読んでもほとんどわからないのだが、右側のページを読んでもやはりよくわからない。物語として整形せずに、語ったままをほとんどそのまま載せているようで、「あの話は昔は覚えていたんだがなー」といったつぶやきで始まるものもある。ストーリーがあるような無いような、おばあさんがもにゃもにゃ喋っていることだけがわかる。でも同じものは一つもない。

 

 その後、同じ名瀬の奄美市立博物館を見学する。小規模だが丁寧にまとめられた博物館で、奄美大島の複雑な地政学的位置をよく学習できる。日本、中国、そして戦後はアメリカという勢力圏が重なる地点で複雑・多重的な支配を受けてきたのが琉球であるとすれば、奄美大島はさらにその琉球と薩摩・鹿児島の勢力圏の中間にあり、文化や歴史の混じり方もなお複層的である。

 博物館の展示を追ってゆくと、時代ごとに支配者が変わっていったことがわかるが、なかでも幕末から敗戦までの薩摩藩・鹿児島県の支配は苛烈である。薩摩藩奄美大島に為した悪行が2つある。ひとつは島を藩の財源とするためサトウキビのモノカルチャー化を推し進めたこと。島民に黒糖のみを栽培させ、その黒糖と米を薩摩藩がもっぱら交換する。交換の比率は薩摩藩が決める。そうして低い相場で手に入れた黒糖を改めて一般市場で売却することで、薩摩藩は現金収入を得る。この仕組みは黒糖地獄と呼ばれ、明治維新後も鹿児島県によって続けられた。その「地獄」を終わらせたのはGHQである。

 もうひとつは島内の歴史文書の隠滅である。薩摩藩奄美大島内に遺存していた歴史文書を回収し、これを焼却した。こうして昇曙夢が嘆くように、奄美大島は先史時代よりひとが住んできた場所でありながら、島民自身による成文史を実質的にほぼ持たない島となってしまった。

 博物館の展示を見ながらわたしが困惑したのは、こうして薩摩藩・鹿児島県にいじめ抜かれてきたにもかかわらず、戦後すぐに本土復帰運動がなお苛烈に展開されたことである。敗戦後、奄美大島ふくむ南西諸島はGHQの占領下におかれ、米國民政府が置かれた。本土復帰運動が占領直後から始まり、1952年に占領が解かれ奄美大島は鹿児島県の一部に戻る。復帰を求める署名は島民の99.8%に達した。

 展示では、薩摩藩・鹿児島県の圧制が強調されるコーナーのすぐとなりに、本土復帰運動を紹介するコーナーがある。この展開に困惑する。あれほどまで弾圧された鹿児島県ひいては日本に、なぜ戻りたがるのだろう。独立国家となる、アメリカの一部となるという選択肢はもちろん現実的ではないにしても。

 映画『葛城事件』で、三浦友和演じるDV父親が、別居を始めた妻と次男のアパートに押し込み、次男を殴りつけたあと、「まぁ、みんなで家に戻ろう」と半ばあきらめたような口調で言うシーンがある(映画では実際に元の家に家族は戻ってしまう)。奄美大島の本土復帰直後に鹿児島県知事の名代が来島して祝辞を述べたという説明に、映画のこのシーンを思い出してしまった。「支配」ということの真の恐ろしさはここにあるような気がする。

 

Day 5

 最終日は風が強まった。前の晩は強い雨が降っていた。雲に覆われ、海の色も暗くなり、波頭が白くなった。枝葉の上を抜けてきた海風が耳元で鳴る。

f:id:pikohei:20190915102550j:plain

 奄美市歴史民俗資料館の高台から海を見た。今回の旅行で撮ったものの中で、この写真がいちばん好きだ。きれいなものや美しいものが映っているわけではないのだけれど、緑の深さや風の強さを思い出せて嬉しい。

 伊丹空港で遅い昼食を摂って神戸に戻ると16時前だった。三宮駅で、この国には人混みというものがあったなと思いだしてすこし驚いた。

 

復刻 大奄美史

復刻 大奄美史

 
海辺の生と死 (中公文庫)

海辺の生と死 (中公文庫)

 

 

 

石を投げる・投げられる: ズンズンギィー雑考

メモとして:

上のまとめがあって、それを受けて下のまとめができたという流れ。

2つ続けて読むと、複雑な気持ちになる。

 

多くのひとは、石を投げる。石をぶつける相手を探している。誰に石を投げるか・投げないかを決めるのはまさしく自分だとおもっている。現にそうやって選択して、こいつは石を投げてよいと決めた人間に、投げる。

下のまとめで語っているお母さんは、投げられる側に回る。石を投げられている上のまとめのお母さんの隣に立つ。いっしょに投げられる。何が正しい・間違っているという判断はしない。いっしょに石をぶつけられる。ぶつけられたら痛いね、とだけ言う。投げることに慣れたひとは、投げられる者のとなりに立つという選択肢があることを想像できない。

 

連れてゆかれる

高速神戸駅から十三駅まで車内でうとうととしていた。電車に乗るというのは不思議な体験であるとおもう。それは「連れてゆかれる」という体験である。

わたしたちは日常、列車に乗ってA駅からZ駅まで〈行く〉と言う。けれども列車の車内で何か〈行く〉ことの努力をしているのではない。むしろ寝たりスマホを見たり、行くということとは別種の動作をしている。たまたまそうしているというのではなく、むしろそうするようにひどく強いられている。車内で何もせずにぼうっとしている場合でもそうである。鉄の箱の中に入って立ったり座ったりしているうちに、目的地まで連れてゆかれる。一度乗ってしまえばみずから特別の努力は不要である。たいそう便利なことである。しかし、そもそも努力したくてもできない。

電車の中でひとり力んでみても、目的駅に速く着くわけではない。車内で快適に過ごすための努力はできるが、それはZ駅に〈行く〉ための努力そのものではない。移動については、ただただ鉄道会社と運転士に任せるほかない。どれだけ念じても速く着くこともないし、車内で怠惰に過ごしていても遅く着くことはない。ダイヤが乱れることがあっても、わたしの決断や行為とは無関係である*1 そうしてとにかく車内でぼんやり過ごしている間に、目的駅まで連れてゆかれてゆく。

これは鉄道という移動手段の当然の特性であるので、そこに何か文句があるのではない。ただ、基本は連れてゆかれているだけなのに、〈行く〉という主体的動作のような表現を用いているのは奇妙である。正確に言えば、わたしはA駅で乗る際とZ駅で降りる際に最大の主体的決断を行なっている。加えて、途中のB駅、C駅、D駅…で「降りない」という消極的な決断を下している。だがこれらはいずれも移動の中の点にすぎず、大部分は動く鉄の箱の座席や手すりに身を預けている。

これが徒歩の旅であれば、一歩ずつがまさしく自分の行為である。早足になるのも、途中で立ち止まるのも自分の責任である。そこでは時間と行為と主体とが渾然としている。その渾然さを取りまとめて要約するのに「行く」ということばが無理なく用いられる。これに対して列車での移動の場合、時間と行為と主体がばらばらである。徒歩行と同様の実感で列車行を表現することばが意外と無い。だからしばしば、「通勤する」「旅行する」「出張する」などのように、目的の表現を代用にする。

 

こうして書いていると、夏目漱石の『坑夫』という小説の流れを思い出す。最初はずんずん歩いていた主人公が、途中でポン引きに呼び止められ、列車に乗って鉱山へ行く。ただ、車内でどう過ごしていたかはあまり詳しく描写されていなかった気がする。

 

 

*1:数少ない例外として、自ら車内で不祥事を起こせばダイヤを乱すことはできるかもしれない。が、そうすると鉄道会社とは別の制服を着たお兄さん達が来て別の箱に連れてゆかれることになる。

米原幻想

「京都方面・米原行き」という新快速を見ると、米原という見知らぬ地名のことが気になる。子供のころからそうだった。いつからか、終点駅米原のイメージがわたしの中に少しずつかたちづくられていた。

米原はどこにあるのだろう。すくなくとも京都のもっと向こう、ずっとずっと遠くにある。おそらく北陸の奥、富山とか新潟とか石川とか津軽海峡とか、なんかあそこらへんの、日本海側の都市なのだろう。関西から遠く離れているけれど、うらびれた街というのではない。そこにはほとんどの関西人が知らぬ繁栄がある。

思い浮かべると現れるのは夜の都市だ。北の星座に見守られた広大な操車場。深夜、新快速列車たちがそこでモーターをしばし休める。そして終端駅には港が不可欠である。ライト瞬く貨物港で税関職員が双眼鏡を机に置く。港湾労働者たちの白い息に霧笛が重なる。たしかに米原は神戸や大阪とつながっている。しかし一生の間にそこを訪れることができるのは幸運な旅人だけである。はるかなる静寂の港町・米原……。

f:id:pikohei:20190822073254p:plain

いや米原おまえ、滋賀県やったんか。(今朝知りました)

 

海底古細菌とウイルス

先日、東北のある場所でひとりで原稿を書いていたとき、品の良い初老の女性と、小学校低学年らしき男の子が隣席に座った。


二人は祖母と孫らしかった。なんとなく会話を聞いていると、男の子がたいそう聡明であることが自然と伝わってきた。賢しらなことを言うのでもなく、ただ思ったことや最近知ったことをおばあちゃんに話しているだけなのだけれど、魂がクリアであるなぁというかんじがした。

かれは海底古細菌という生き物がいるという話を始めた。テレビで見たのだという。ところがおばあちゃんはピンと来ない様子である。男の子はおばあちゃんのスマホを借りて、その番組のサイトを開いて見せた。たぶん海底の熱水噴出孔などが映っているのだろう。おばあちゃんはへぇーと言って、これがそうなのね、海底に細菌みたいなのが、ウイルスがいるのね、と言った。


なにかがすれ違っているな、とわたしは隣でおもった。細菌とウイルスは違うのです、と声をかけようかと思ったが、それは思いとどまった。

このおばあちゃんは聡明な孫に何か悪い振る舞いをしていたのではない。男の子の話にそれなりに相槌を打っている。ただ、男の子の好奇心や知的なこころの動きが、おばあちゃんのそれと共鳴することがなくて、彼女の笑顔で粉砕されている。それがなんとも言えず、悲しいような、しょうがないような、もったいないような気持ちになった。


このおばあちゃんにとって、世界は語彙の数しかない。彼女が10万の語彙を持っていたとすれば、世界は10万種類の動作や物体しかない。そして名付けられていないモノや知られていないものの領域はそもそも存在しない。「わからないもの、知らなくていいもの」というラベルが貼られているだけである。もし新たに教えられるモノゴトが出てきても、それは既知の語彙体系のなかに即座に収納される。海底に細菌がいても月面にクマムシがいても、そうなのね、で終わってしまう。

一方、この男の子は「なにかよく分からないモノの世界」の存在を直観している。驚きがある。そこに分け入ってゆくためにさまざまな手段や思想があることに興奮している。それは知的な態度の基盤のひとつである。

別にこのおばあちゃんを悪役にするつもりは毛頭なくて、たいそう優しそうな方だったのだけれど、この二人の哲学がどうしても重なり合わない様子を横から聞いていた。ただそういう話でした。

東北へのチューン

先週、個人的な旅行で宮城県を歩き回って、きょうまた学会で仙台に来ている。きょうの仙台は関西に比べるとかなり涼しい。帰りたくない。


先週の旅行と今日の学会ではっきりと自覚したことがある。それは、東北の「被災地」に対して自分のアンテナの周波数のようなものがほとんど合わないということだ。要するに(当たり前なのだけれど)被災地の実感のようなものを自分がほぼ感じ取れない。

とりわけ、研究者や実践者と話をしている/話を聞くと、自分がほとんどついていけていないことを感じる。どこがどう付いて行ってないのか明文化できないが、「ピンとくる」かんじがほとんど無くて、「はぁ、そうなんですかぁ」みたいな曖昧な感想しか出てこない。

これは最初からそうだったとも言えるが、とにかく今現在、被災地を鋭敏に捉えているひとの波長を自分が全く捕らえられない。離れたところに住んでるのだから当然といえば当然なのだが。言語としては通じているのに、ことばとしては聞けていない。それがものすごく怖い。ある意味、じぶんが死んでしまうよりも怖い。