しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ゲーム・オブ・スローンズ Season1の個人的に好きなシーン10選

GoT・Season8が完結する。その復習としてS1から順に観なおしている。

というわけで、あえてSeason1で好きなシーンを挙げてみたい。

 

1.ジョンの初体験未遂を聞くワクワクサム(S1-E4)

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この笑顔である

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中学生か君は

 ナイツウォッチ見習いになった庶子ジョンと、同じく見習い同期生のサム。サムは一応エエトコのボンなのだが、出来が悪すぎて勘当扱いで「壁」に送られた。こいつほっとくとやべーなというかんじでジョンが半ば一方的に面倒を見てあげている。掃除中、ジョンが自分と同じく女性を知らないことを知り、親近感マックスになるサム。だがジョンは「初体験未遂」体験があったのだ!

 字幕では「やり方を?」「心得てるよ」とわりとお上品に訳されているが、スクリプトを確認すると

Didn't know where to put it?(どこに入れたらいいかわかんなかったの?)

I know where to put it.(どこに入れるかは知ってるよ)

と、おまえら中学生かみたいな会話だった。

 ハァハァ(;´Д`)しながら髪の色や胸のサイズを聞くサムがほんとオモロイ。

 

 この後、娼婦との行為が未遂に終わったのは、自分のような庶子を増やすことになると考えてしまったからだとジョンが説明する。そのジョンがE7でデナーリスと交わることができたのは、かれがデナーリスとの間に庶子や家といった価値観を越えた愛を見出したから、ということなのだろう。ところがそのジョンは実はデナーリスと同じくターガリエンの血筋で…という皮肉で複雑な筋になっている。ここで語られているのはそうした大掛かりな伏線の端っこであるわけで、実は大切な会話なのだった。

 

2.膝立ちから一人で立ち上がれないサム(S1-E7)

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おまえなぁ・・・

 晴れて見習いから正規の守人になり、誓いの祈りを捧げる若者たち。

 膝をついて祈りの聖句を唱えるのだが、そのあと肥りすぎて一人で立ち上がれないサム。手を取って立ち上がらせてやるジョン。ああ、ジョンはこういうところから人々の信望を得てゆくんだなと感じさせると同時に、おまえもうちょっとなんとかならんのかというサムのキャラも際立つ。ほんの数秒の演技だしセリフも入ってないけど、演出が巧いですね。

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先輩もにっこり(まだ平和な時期であった)

 

3.ティリオン・ラニスター捕縛の助力を旗手たちに求めるレディ・スターク(S1-E4)

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 王都からウィンターフェルに戻る途中のキャトリンが、壁から王都へ帰る途中のティリオンと邂逅してしまう。最初キャトリンは顔を伏せようとするが、ティリオンの方から声をかける。ティリオンは自分がブラン転落・暗殺未遂の下手人としてキャトリンから疑われているとは思っていなかったので、そのまま声かけちゃったのだった。宿にいる旗手たち、その臣下たちに威厳をもって声をかけ、ティリオン捕縛の助力を乞う。「剣と魔法」ものファンタジーの王道をゆくようなセリフ回し。ほんとお母さんカッコイイ。

 この宿屋での偶然の出会いとティリオン逮捕が、ラニスター家とスターク家の紛争を激化させてゆくきっかけになる。S1のストーリー全体の流れを決める場面でもあった。1枚目、キャトリンの隣にいるヒゲのおじさん(スターク家の忠臣ロドリック。S2E6でシオンに処刑される)が剣の柄に手をかけ、刃傷沙汰が今から始まりますよと周囲の客に示している。3枚目、シレッと無関係のように眺めてるブロンもいい味出している。S1のなかでも一番良いシーンではなかろうか。

 ちなみにこの直前にキャトリンに歌を披露しようとしている吟遊詩人はこの後のエピソードでジョフリーの命により舌を引っこ抜かれている。

 

4.初見で即ヤバイとわかる高巣城母子(S1-E5)

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玉座授乳という新ジャンルを開拓

 ティリオンを捕縛後、ウィンターフェルに直帰するとラニスターの追手に捕まると考え、妹ライサ・アリンがいる高巣城に向かったキャトリン。久しぶりに会った妹と甥だったが、おそらく10歳は越えている息子に人前で堂々と母乳を与えていた。

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 捕虜のティリオンが「(大丈夫っすかね…?)」みたいな顔でキャトリンを見るのが面白すぎる。S1はこの二人の演技が他から一段上というかんじ。あとはサーセイ役の女優さんも実力派なのだが、サーセイはとにかくキャラが複雑すぎてS1の時点ではまだ入りきっていないようでもある。なので、S1は実質的にティリオンとキャトリンが支えているとおもう。

 アリン公の死後、ライサが精神のバランスを崩していることと、唯一の嫡子ロビンも知的発達に問題があることを示している。このロビン役の子役俳優、目の泳ぎ方などが異様に巧い。

 

5.部下に許嫁を殴らせるジョフリー陛下(S1-E10)f:id:pikohei:20190519193201p:plain

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ロイヤル・ドメスティック・バイオレンス

 ネッドのクーデターを鎮圧後、すみやかに本性を現したジョフリー新王。

 「王は妻を殴ってはならぬと母に言われた」からの、部下に命じる勅令ビンタ。この展開は全く読めなかったぜ。

 このシーンは「母に言われた」とジョフリーが言っているのがミソで、かれの母サーセイは何度も夫ロバートにビンタされていた。だからサーセイは、夫は妻を殴ってはいけない、王は王妃を殴ってはいけないとジョフリーに諭していた(ことがこの一言でわかる)。この教育はサーセイの立場として至極まっとうなものである。彼女もいろいろ業の深い人ではあるが、「あなたの父はわたしを殴った、あなたは父のように妻を殴ってはならない」と諭すのは、どこまでも筋が通っている。サーセイとジョフリーにそれぞれ歪んだ部分があっても、この教育が通じるならば、その部分だけは二人のあいだに「正しいもの」が成り立ったということになる。しかしジョフリーはそれを完全に裏切る。しかも部下に殴らせるという斜め上の方策で。

 

6.母さんにも殴られたことのないジョフリーを殴るティリオン(S1-E2)

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 で、なんでジョフリーがビンタにこだわるかというと(そこまでこだわってもないが)、E2で自分が叔父ティリオンにビンタされてるので、その恨みをとりあえずサンサで晴らすという面も無くはない。サンサを殴らせてもティリオンへの恨みが晴れるわけではないのだが、ジョフリーはそういうやつである。個人に対する恨みとは別に、自分が受けた暴力や恐怖を増幅して別の他人に発揮する。そうすることで自分を守ろうとする。

 

7.三人は死なないと退屈なドスラク披露宴(S1-E1)

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村祭りぐらいの規模

 好きなシーンというか、個人的にずっと問題だと思っているのだけれど、デナーリスが嫁いだ「ドスラク人」の描き方がステレオタイプすぎませんか。「遊牧民」「略奪」「蛮族」「半裸」「暴行」「迷信」が軸で、肌の白い人たちから見た「タタール・アジア的なもの」ばかりで文化が造形されている。〈七王国から見た、野蛮人としてのドスラク人〉と、〈デナーリスやジョラーが内部で見た、独自の文化や価値観をもつドスラク人〉が区別されて表現されるといったこともない。ドスラク人の描き方の陳腐さは、ゲーム・オブ・スローンズという作品の大きな欠点だとおもう。

 

8.ぴちょん君みたいなヴァリス(S1-E8)

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 地下牢のネッドを訪れるヴァリス。の衣装が、黒いぴちょん君で妙にカワイイ。

 

9.レディ・スタークに敬礼する北の王の兵士たち(S1-E10)

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 毅然とした表情を崩さずに陣営を歩くキャトリン。距離を取って深く頭を下げる兵士たち。ネッド・スターク刑死の報がロブの陣営にもたされたことが、前後の説明抜きに観客に伝わる演出。

 

10.偉大なるカール・ドロゴに最後の名誉を贈る「カリーシ」デナーリス(S1-E10)

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 呪い師の治療と呪術で一命をとりとめたカール・ドロゴだが、その霊魂はすでに肉体を去っていた。偉大な王は馬にも乗れず、妻を見ることもない、生きた屍と化した。「カリーシ」は夫の息をふさぎ、黄泉の国に還らせる。 

 個人的に自分はデナーリス役の女優さんがあまり好きではない。キャラ的な表情を場面ごとに切り替えているだけで、サーセイやサンサと比較するとあまりに演技の幅が乏しい。

 ただ考えてみると、女優さんが上手くない・役に合っていないという面もあるが、そもそもデナーリスというキャラに人間的な個性がほとんど与えられていないという点が大きい。彼女は自分の意志を越えた運命に翻弄され、導かれて、東の大陸の巨魁にのしあがってゆく。これは裏返せば、彼女自身の想いや思考や人間味といったことはさほど重要ではない、ということでもある。サーセイは徹頭徹尾、自分の「業」で生きている。デナーリスにはそれがない。いまひとつ裏付けのないカリスマ性と、強いドラゴンと、その場その場でイケメン彼氏がいるだけである。

 しかしこのシーンだけは、デナーリス自身の思考、想い、業がある。自分で考え、自分で決断し、自分で苦しみ、自分で手を下している。そして彼女は炎の中を歩み、ひとびとを畏怖させる。

カール・レフラー考

 さる伝統ある大学の名誉も実績もある教授が、自分の論文に、存在しない神学者の存在しない論文を「引用」した。ということがバレて、クビになった。本も絶版となった。

研究活動上の不正行為に関する調査結果について|東洋英和女学院大学

 

 いったいこの事件は、世の中の研究不正のなかでも、とても不思議な事件であるようにおもう。その不思議さを少しかんがえてみたい。

 

研究不正の種類 

 世の中の「研究不正」には主に4種類ある。

1 お金をちょろまかす。

2 他人の論文から出典を明記せずにコピペして、自分が書いたものであるかのようにごまかす。

3 データを捏造したり、画像を加工する。

4 研究に参加したひと(インタビューなどに応じてくれたひと)の人権を侵害する。

 

 大阪大学の若い地震学者が、熊本地震地震計の観測データを捏造したのは3にあたる。小保方事件も3である。

大阪大元准教授、地震論文5本で不正 17本の判定を留保 - 毎日新聞

刺激惹起性多能性獲得細胞 - Wikipedia

 

 2は剽窃と呼ばれる。最近では以下のような事件があった。

『「創作子どもポルノ」と子どもの人権』 お詫びと回収のお知らせ - 株式会社 勁草書房

 

 文科省は研究不正の「認定」を平成28年度ごろから行っていて、一覧がウェブサイト上で公開されている。

文部科学省の予算の配分又は措置により行われる研究活動において不正行為が認定された事案(一覧):文部科学省

 このリストでは、不正行為の種別として「盗用」「ねつ造」「改ざん」「二重投稿」を挙げている。ざっと見たかんじ、いわゆる文系はほぼ「盗用」で、「ねつ造」「改ざん」はいわゆる理系に集中する。

 

人文学と研究不正

 そもそも人文学者は一般的に研究不正をしづらい。今回の事件は2にも3にもあてはまらない。強いて分類するならば、「データの捏造」に入るのだけれど、一般に科学者が実験データ等を捏造・加工して論文に利用することと、今回のケースである存在しない論文を引用することには、さまざまな違いがある。

 最大の違いは、非常に容易にバレる、ということである。理系の実験データ等の場合、実験や観測で得られた「生データ」は論文の執筆者(研究プロジェクトの関係者)が保管している。論文の内容に疑義があった場合、論文著者はその生データを提出する義務が生じる。したがって追い詰められたら逃げられない。しかし、これは裏返すと、バレなければやりすごせるということでもある。理系の研究不正が明るみに出る事例の多くは、グラフや画像があまりにキレイすぎるとか、どうにも不自然であるとか、他の画像と酷似しているといったことをきっかけにしている。つまり論文の表面から疑義をもたれるということである(もう一つのきっかけは内部告発である)。ごまかし方や加工の仕方が下手であれば見つかるが、巧くやっていればスルーされてしまう。少なくとも「これぐらいならバレないはず…」と勘違いできてしまうという構造になっている。

 これに対して、人文学では基本的に引用する過去のテキストはすべて公開されている。カントでもニーチェでも、批判・校訂済みの全集が公刊されている。どの出版社のいつの全集の何年版の何巻の何ページ、と指定すれば、基本的にテキストの内容が全て確定する。「誰にも知られていないカントの著作」などというものは存在しない。もし存在して、その研究者だけが知っているならすみやかに公刊すべき、ということになる(それはそれで業績として評価される)。だから嘘をつけない。仮に適当なことを言ったなら、すぐさまテキストに詳しいひとが出てきて、その巻のその頁にはそんなこと書いてないはずですが、と詰められる。なかなか堅苦しく見えるけれど、それが人文学の基礎ラインであって、そこはごまかしようがないということを学生・院生は当然学んでゆく。これは理系の実験・観測データがすべて公開されているのに等しい。

 マイナーな学者の著作であっても同様で、印刷されてどこかの図書館に残っているのである限り、引用した元の文献は別の研究者にチェックされる可能性がある。それが大前提である。「すごくマイナーな作家のマイナーな私家本で、うちの書庫にしか存在しません」という場合、まずそのことをかなり丁寧に釈明してから参照する必要がある。

 

動機はどこに?

 このような文化であるから、人文学で研究倫理の指導をされる場合、基本的に2の剽窃が想定される。3については正直想定外である。

 

 ところが、このひとはこれをやった。さすがにカントの存在しない著作をでっちあげたのではなく、ほとんど知られていない神学者の論文という手法だったけれど、それでも同業者が調べれば即座にわかる。

 理解にこまるのは、動機がまったく読めないということである。研究不正の動機は一般的に3種類である。

1 私服を肥やしたい

2 業績を挙げなければというプレッシャー

3 なんとなく業界を舐めている。あるいは感覚の麻痺。

 

 厳しい境遇に置かれた理系の若手研究者がプレッシャーに負けてデータ捏造に走ってしまうという構図は、わかりやすい。許されることではないにしても、その心理自体は了解しうる。

 小保方さんは2と3の混合タイプであったように思われる。科学とは厳密なもの、という基礎的な教育を受けないまま、こういうふうにしちゃっていいんだよという感覚で突き進んできた。ただ、プレッシャーだけでなく、名誉欲や自己顕示欲も絡まっていたので、余計に世間の注目を巻き込んだ。(それを利用してさらに突き進んでいったというところに彼女の一種のオリジナリティが無くはない。)

 これに対して、今回の教授は、すでに功成り名を遂げた学者である。少なくとも、この不正をしなければ失職するというところに追い詰められてはいない。本を一冊だそうが出すまいが、給料やポストに影響しない。業績を増やしたければ論文のネタはいくらでもあるはずで、わざわざ今回のような手をこんだことをする必要がない。定年退職を一ヶ月後に控えた銀行員が突然顧客の預金を80万円ほど着服するようなものだ。

 

なにか歪んだもの

 だから、動機が無い。だが実際にやった。これは何なのだろう。大学による調査報告でも動機については書かれていない。

 ぶっちゃけて言うと、この「存在しない著者の存在しない論文をこっそり自分の論文に引用する」という手法は、人文学の研究者なら一度は妄想するのではないかとおもう。少なくともわたしはやってみたら面白いだろうなと思ったことがある。ただ、この面白いというのは文芸としての面白さであって、研究としては上述したようにありえない。いわば「民明書房」ネタである。民明書房は、引用元も本文も全て虚構だということが最初から断られているので許される。これは文芸ですよというサインが明示されているなら問題ないが、プロとしての研究論文では当然許されない。

 

 なぜ文芸として面白いと思うのか。それは一つには、真実を引用して別の真実を作るという構築形式をそのまま利用することで、虚構を引用して虚構を作るということができることにある。非常に精細な存在しない町の地図を製作することを趣味にしているひとがいるが、これに似ている。存在しない論文をいくつも引用して、存在しうるような論文を書くことは、存在しない町役場や学校や川を配置することで、存在しうるような虚構の町を立ち上げることに似ている。箱庭やジオラマを作るような感覚であろうか。

 しかしそれがしたいのなら、文芸としてやればよかったのだった。論文を書いて本にして売っているのだから罪は重い。だからどうにも、虚構の世界を作り上げる面白さ、箱庭を作るようなワクワク感だけが動機であったとも思えない。

 そうした文芸的な面白さをついつい追求して一線を越えてしまったというよりは、もっと確信犯的なものがあるような気もする。つまり、引用と論述という人文学の基礎的なスタイルに対する深い侮辱のような情念である。

 人文学は引用のネットワークによって成立している。Aという著名な哲学者の著作がある。B氏とC氏がAについて論文を書く。D氏が、B氏の論文とC氏の論文を引用して自説を述べる。B氏がD氏の論文を引用して反論する。E氏がそのB2論文とC氏の別の論文を引用し…というように、無限に連鎖してゆく。論文を書くことは、その網目の中に自分を組み入れることである。網目の中には重要な著者も無名の著者もいる。ただ、重要も無名も、そこに連なる網の濃さの違いにすぎない。網目は平面に広がっていて、その平面上の点であることに変わりはない。したがって、ある意味では無名も有名も平等である。ひたすら引用し、(運が良ければ)引用されてゆく。平等になるとは無価値になるということである。人文学を行うことは、自分が引用の網目のなかの平等に無価値なノードの一つになることを受け入れることである。ノード自体に価値は無い。ただ網目の総体にのみ価値がある。そこに学問の謙虚さということが生まれる。

 ところが、この事件のひとは、網目のなかで自分の「価値」を失うことをおそれた。すべてが無価値なノードであるなら、そのなかに虚構を混ぜ込んでもよいのではないかと考えた。そこにはひそかな優越感がある。人文学といったって、所詮は引用の繰り返しじゃないか、という侮蔑がある。それを続けている限り、自分は「本物」ではないという不安であるかもしれない。わたしはそこに空疎さを読み取らざるを得ないような気がする。

(2019/5/15追記 最初「学長」と記していましたが、当該事件の教授は「院長」でした(院長と学長が別々に設置されている)。間違えて書きました、すみません)

 

2019/5/19追記 今回の事件を扱ったものではないが、学術振興会の黒木登志夫先生のスライドがとてもわかりやすかった。

https://www.jsps.go.jp/j-kousei/data/2015_3.pdf

穏やかな夜に身を任せるな。

いまの職場に入ってから、東日本大震災の映像を見る機会がすこし増えている。

当たり前だけれど、映像の「キツさ」には独特のものがある。阪神大震災の映像はテレビ局によるものがほとんどで、ある種の「落ち着き」がある。プロのカメラマンが肩にカメラをどっしり載せて、あるいはヘリ上から、被写体と一定の距離を保って撮影していることが感じられる。東日本大震災の映像はそうではない。その多くが住民のスマートフォンによる映像だから、ブレるし悲鳴も入るし、撮っている途中で逃げ始めるし、なにより録画している当人にとっての故郷やなじみのひとびとが「被写体」であるので、映像の視界の切り取り方自体になんともいえない痛切さがある。プロの映像が持っている適切な距離感などというものがない。なので、キツい。

 

キツいので、そう繰り返したくさん観ているわけではない。見慣れてしまうこと自体への畏れがある。ただ、意識して折に触れて観ている動画がひとつだけある。

非常に有名な映像のひとつだが、巡視船「まつしま」が相馬市沖合で舳先を立てて津波を越えている様子を映したもの。

最近この映像を観たとき、この船が沖合で津波を越えたこの時点では、まだほとんどのひとが生きていたのだな、と気づいた。当たり前すぎることだけれど。

あの津波で亡くなった方は、この瞬間はまだ生きている。あるひとは避難の準備を始めている。あるひとは油断している。あるひとは他のひとを助けようと必死になっている。あるひとは身動きできないでいる。あるひとは逃げている最中である。ひとりひとりが、とにかく何らかの存在において存在している。まだ生きている。そしてこの十数分後に到達する。

そのひとつずつ、ひとりずつを想像することができるかといったら、できない。また、想像力はときに甘い感傷に転じる。死者への畏敬を失う。だから想像力にもある種の節度が求められる。しかしまた、さいごに残される根本的な道具は想像力である。この映像は、想像力を使う「基準点」をわたしにねじこむ*1。この時点ではまだ生きている。そこから先に起きたことは絶対に取り消すことができない。だれも神様ではないから。取り消せないけれども、(あるいは取り消せないから?)想像する。

 

想像に前後して、映画『インターステラー』で、マイケル・ケインおじいちゃんが引用していた詩を思い出している。この詩についてはいくつかのブログで詳しく紹介されている。

Uncharted Territoryおとなしく夜を迎えるな

映画の名言というか詩の紹介 - かまぼこ日記

ディラン・トマスの詩「あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない」 : わらびの詩的生活

 元はディラン・トマスという詩人が病床の父に書いた詩だという。映画の字幕では「穏やかな夜に身を任せるな。老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。怒れ。怒れ。消えゆく光に」と訳されていた。

 

怒る。

 

人間の感情は多面体で、ひとつの出来事にも複数の感情が生まれる。災害に対しては、痛みや悲しみが強調される傾向があるかもしれない。無感情の時間や、底抜けの笑いといったことがあってもよい。恐怖や不安もある。要はバランスである。その中で、「怒り」は案外忘れられがちなのではないかとおもう。

わたしは怒ることにしている。津波の映像を観たら、自分の怒りを取り逃がさないようにしようとおもう。痛みや悲しみも大切だけれど、きちんとした怒りをもつ。怒らないと、感情がだんだん平坦になってゆく。すると仕事がナァナァになる。そして怒りは、想像が感傷に転ずるのを防いでくれる。

 

ただ、何に向けて怒るのかをある程度はっきりさせておくことは大事だろうなとおもっている。

地震津波そのものに怒るのだろうか。あるいは、その背後に神様のようなものを想定して、それに対して怒るのだろうか。そうした怒りは、自分の感情がなにか実体的なエネルギーに転じて津波そのものを破砕するという錯覚に転じやすい。それは人間には不可能なことだ。

社会一般や、責任あるひとびとに対して怒るのだろうか。だれか特定の個人や組織の襟首をつかまえて怒鳴りつけるような振る舞いは、それはそれで間違っているだろう。また、本当に責任を痛感しているひとは、おそらく自分で自分に最大の怒りを向けているだろう。 

そうではなくて、怒りは、災害で人間の命が奪われることそのものに向けるべきだとおもう。ひとが死ぬ。それは不正義である。いかなるひとであれ、恐怖に曝されながら死ぬようなことがあってはならない。だから怒る。

 

大学院で研究をしていたとき、「眼を開けて祈ること」をなんとなく自分の心の真ん中においていた。いまは防災をミッションとした機関で禄を食んでいる。だから「眼を開けて…」を引き出しのひとつ下の段に入れて、「穏やかな夜に身を任せるな」を自分の新しい指針にしている。ちょっと精神論になってしまったけれど、自分なりのマニフェストのつもりで書いておきます。

*1:ほんとうは、津波の前日、前週、前年、そしてずっと前にまで街やひとのひとつずつひとりずつにじっくり遡るのが真の意味での基準点になるはずだけれど、そうなると個別の物語や歴史に分化してゆくので、また別の話となる。

いま読んでいるもの:金井淑子『倫理学とフェミニズム』(2013)

 いつのまにか本棚に入っていた本を読んでいる。一節だけメモする。

 

 私自身の経験に即して話を進めたい。ある年のゼミナールのことである。他大学を卒業し、セックスワークに従事しているという社会人女性がゼミへの参加を強く希望してきた。その彼女を受け入れて一年間ゼミを進めたことがある。当初、彼女がセックスワーカーであることについて介入的な対応もせず、排除的な感情を抱くこともなかったのだが、さらに今度は別の年度のゼミ生の中から就職氷河期の中での就活の苦しさもあってであろうか風像関係への就職志願者が出たことがあり、それを知るに及んでの私は「あなたの決めたことなら」とはとうてい言えないジレンマに立たされたのだ。

 日ごろ、フェミニズム主流の立場の「売春=悪」論よりは、むしろセックスワーカー当事者の運動へのシンパシーを寄せる、フェミニズム内での少数派のスタンスをとっていた私であるが、現実に自分の身近なところから、主食活動をやめて風俗関係に、という動きが出て、自分の中に相矛盾する感情が存在することに気付かされたのだ。(17頁)

  「あなたの決めたことなら」は、自分と相手の独立した主体間の倫理である。一方、親密な相手に感じざるをえない「おやめなさい」は、自分と相手を同一化してしまうことから生じる。前者はリベラリズムであり、後者はパターナリズムである。言われる側からすれば、「あなたの決めたことなら」は、ときに冷淡さを含みうる。「おやめなさい」はその冷淡さを拒みうるが、家父長制的な経済構造のなかに相手の主体を消失させてしまう。わたしたちはこの2つの基準を自分のなかに同居させている。

 

 このゼミ生は、なぜ著者に相談したのだろうか。もしかしたら、「おやめなさい」と「あなたの決めたことなら」の両方を言ってほしかったのかもしれない。 

(わたしにとって、この問題を考えるためには一つの認識論的なギャップをまず意識しなければらならない。簡単ではない。女性の知り合いが男性であるわたしに「セックスワーカーになろうかどうか考えている」と相談を持ちかけるということは、おそらくほぼないだろうから。)

参照したいと思った論文の著書が逮捕されていた

研究計画を新しく立てて、先行文献をざくざく読んでいる。

これはなんだか参考になるようだ、という論文を見つけた。しかも著者は地元のひとだった。迷惑承知で、会いに行ってお話を伺ってみようかとさえ思った。テンションが上がる。

 

コンスタントに論文を出しているひとだったが、Ciniiで見てみるとここ数年は何も書いていない。別の活動をしているのだろうかと改めてお名前でググッてみると、教え子に対する性暴力事件で逮捕されていた。

 

マジメに生きてくれー!とモニタに向けて言ってしまった。

 

事件の詳細は引かないが、どうにも悪質陰湿な事件で救いようがないかんじがした。悪質でない、救いようがある性暴力事件というものも無いのだが。

 

そこで困ったのが、このひとの論文を参照文献として挙げたものであろうか、ということである。参照しなければ自分の研究が成立しないというほどではない。

 

これは先日の「俳優が薬物使用で逮捕されたなら、過去の出演映画をお蔵入りにすべきか」という問題と似ているように見える。しかし、「俳優に罪があっても、映画作品に罪はない」と仮に言えたとしても、「著者に罪はあっても、論文に罪はない」と言えるかどうか。微妙なところだとおもう。

 

映画はいろいろなひとが関わって成立するけれど、論文は基本的にひとりで書く。とくに人文方面では、著者の考えや活動や来歴が論文にそのまま詰まっているとみなすのが一般的であるようにおもう。すると、著者と著作物の分離が難しい。この点、実験科学などで大量のオーサーが名を連ねていて、機器操作に参加していた一人が不祥事を起こしたというケースならば、「映画と俳優」のケースに近いかもしれない。また、たとえば新天体の発見を報告する天文学の論文であれば、著者が逮捕されたからといって新天体が見つからなかったことにしようということにはできないだろう。今回はそういったタイプの論文ではない。

研究分野と犯罪分野(?)が重なっている点も大きい。教育に関する分野の論文を書いているひとが、教育現場で罪を犯していた。論文を書く元となったさまざまな活動の中に(直接か間接かは別として)、被害者の存在がある。

 

 論文は論文、犯人は犯人、として分離できるかどうか。論文は、文の連なりである。一つずつの文や、それらがまとまってできた文章が意味を持つ。その意味は常に正か誤であって、善か悪かではない。内容の正しさは著者の人格に無関係に成立する。正しいことを書いているが著者がイヤなやつだから引用しないとか、内容は間違っているが著者と親交が深いから是認するということはできない。そんなことをしていたら自分自身の研究がガタガタになる。その意味では、論文の内容そのものに「罪」を見出すことはできない。

しかしまた、引用・参照することは、論文だけでなく、著者の存在を承認するということでもある。立派なものだ、価値あるものだ、それを書いたひとも大切なひとだ、とみなすことになる。そのように宣言するだけの動機が自分にあるかどうか。とくに暴力的事件の場合、加害者を擁護するとみなされる立場に立つことは、被害者にとって、自分への追加の攻撃のように感じられる。「それはそれ、これはこれ」という安易なエクスキューズに走ることが全く適切でない領域であるとおもう。

「業者」とかいう謎の組織

日本に住み初めて、かれこれ30年以上になる。

日常会話についてはそれなりに慣れてきたつもりだし、日本語で書かれた本もそのまま読むことができる。ブログもこうやって日本語で書いてみている。それでも、なんなんだこれは、と不思議に感じる日本語に出会うことがまだまだ多い。

 

「業者」はそうした言葉のひとつである。ギョーシャと発音する。

業者とは仕事を請け負ってくれる人々のことである。微妙にネガティブな語感を持つ語なのだけれど、文脈によってはニュートラルなものとして言われることもある。

 

ニュートラルな文脈の方から考えてみる。たとえば職場に「業者」が来てコピー機を修理し帰るような場合である。

こうした業者は基本的に営利企業である。ボランティア活動しているひとに「業者ですか」と聞くとたいへん怒られるはずである。

さらに、どちらかというと、小規模な営利企業が想像される。ただしフリーランスで完全にひとりで仕事を請け負っているひとを「業者」とは呼ばないかもしれない。数名から数十名の企業組織が想定される。

ただし、実際の会社の規模は本質ではない。要点は、自分たちの側への関わり方である。限定的に、特定の用務のためにこちらに現れて、それが終われば去ってゆく。それが業者である。だから実は従業員数が数千名の巨大企業であっても、作業チームが数名だけ来て帰るならば、それはどちらかといえば業者である。他方で、相手が数名の小企業であっても、自分の会社と対等の契約を結ぶのならば、その相手先を「業者」と呼ぶのはシツレイにあたる。名刺交換して挨拶をして本題に…という関わり方は「業者」ではない。

 

そうしてさまざまな「業者」が職場にやってきては用務をこなして帰る。このおかげで自分のところの企業なり学校なりが成立している。そして今度は、その自分たちが別の場所へ仕事へ赴くと、「業者」として扱われることもある。「業者」はその場限りの役割であって、固定された身分ではない。

 

面倒なことに、日本語には「~~業」という表現がある。「卸売業」「印刷業」「回収業」などである。この場合、語尾に「者」を付ければそのまま「卸売業者」「印刷業者」「回収業者」となる。これは「卸売+業者」なのか「卸売業+者」なのか、わからない。たとえば回収業者はこちらの求めに応じてやってきて何かを回収して帰るので、「業者」でもある。

これに対して、「漁業」に「者」を加えて「漁業者」と呼ぶこともできなくはないが、この場合はけっして「漁+業者」ではない。「畜産業者」にしても、「畜産業+者」であって、「畜産+業者」ではない。

こうして並べてみると、ニュートラルとはいえ、こうした「業者」表現にも、どことなく相手を一段下に見るようなニュアンスが含まれる。ビルの掃除をしてくれているひとを「清掃の業者さん」と呼ぶことはあっても、弁護士を「実刑軽減業者」「民事調停業者」とは呼ばない。さん付けするのは、すでに下に見ている証拠である。誰にでもできる仕事、汚れ仕事、低い階級の者がする仕事、というイメージが「業者」にはついてまわる。ところが同時に、業者を呼ぶのは自分たちではできないからである。業者は時間通りに来て、要求した仕事をそつなくこなし、そしてちょっと割高に感じる請求書を出し、お金を受け取って帰る。一段低く見ると同時に、プロフェッショナルの仕事をしてくれるという信頼や尊敬がある。矛盾しているが、そのような語感がある。

 

さて、さらに明確にネガティブなイメージを与えられる「業者」もある。

たとえば出会い系サイトでサクラをするのは「業者」である。SPAMメールを送ってくるのも「業者」である。要するに、こちらからはっきりと姿が見えないものの、利益を目的としてグレーなことを行っている者が「業者」である。

相手が個人であった場合は「業者」とは呼ばないはずなのだけれど、個人か組織かわからない状況では結局「業者」と呼ばれることが多いようである。グレーな行為をシステマチックに遂行しているように感じられるところが鍵なのだろう。

前半のニュートラルな「業者」との共通点は、相手の顔や個性がはっきり現れないところである。

 

 

 

そういうことじゃないんです

阪急電車に乗っていたとき、80歳代ほどのおばあさんが杖をつきながらヨコヨコとホームから車内に入った。わたしをふくめて、座席に座っているひとの大半が即座に彼女の歩みを捉え、追った。おばあさんはドアから1メートル半ぐらい離れたところに空席を見つけ、そこをめざして前進し始めた。その空席はちょうど列車の中央ぐらいだった。ひとびとの視線もその空席を捉え、安堵した。ビリヤードの玉がコーナーに吸い込まれるのを見守るようだった。おばあさんは座席の眼の前まですすんだ。

そのとき、車体端の優先座席に座っていた中年男性が席を立っておばあさんの元にすっと駆け寄り、こちらが空いていますと声をかけた。おばあさんはちょっと困った顔をしてからUターンした。眼の前の空席をあきらめ、端っこの優先座席への旅を新たに始めた。おばあさんはおそらく、3つか4つぐらいの可能性(転倒するかも、断れば男性に恥をかかせるかも、周りのひとはどう思うだろう、結局立ちっぱなしになる可能性はゼロでないかも、etc...)を同時並行で瞬時に計算して最終的な判断を下したのだろう。さらに周囲のひとびともその計算過程を瞬時にシミュレートして、おばあさんも自分の倫理的判断がシミュレーションされたことをわかっているから、その結果、なんだか微妙な雰囲気が車体に充満する。

 

この中年男性はちょっとだけうっかりさんだった。自席から、おばあさんが目指していた空席が見えなかったのだろう。それはしょうがない。おそらくもう一段慎重であれば、おばあさんの動きや周囲の視線から、彼女が見えない空席を目指していることが知覚できただろう。親切心が知覚の奥行きをインターラプトしたのだろう。

とりあえずそういうことが先日ありました。