しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

くじを出す

大阪大学豊中キャンパス構内。午前9時半ごろ行ってみると、校舎や図書館がみな閉鎖になり、行き場所がなくなった学生たちが校舎の周囲にぼんやり座っていた。妙に静かだった。構内のローソンのレジで、何かを買った学生にバイトのお姉さんが「くじ」の箱を差し出していた。それがとてもとても不思議な光景で、(不謹慎きわまりないけれど)面白かった。銀行強盗に襲われた銀行の窓口でオルゴールに油を注す作業を続けているような。

 

「いつからわれわれはこうなってしまったのか」

 しばらく砲火を交えた後、意外にも日本軍陣地に白旗が挙った。米兵は重機を前進させておいてから、武器を捨てろと呶鳴った。二、三の小銃、剣、飯盒が投げ出された。しかしその次に弾が来て、五人の米兵が傷ついた。前進した重機が射撃を開始し、十三人の日本兵を殺した。残りは山の奥へ逃げた。

 日本兵の白旗による欺瞞はニューギニア戦線でもよく見られた行動である。二〇対一、五〇対一の状況になった時、敵を斃すためには手段は選ばずという考え方は、太平洋戦線の将兵に浸透していた。しかし白旗は戦闘放棄の意思表示であり、これは戦争以前の問題である。こうでもしなければ反撃の機会が得られない状態に追いつめられた日本兵の心事を想えば胸がつまる。射ったところでどうせ生きる見込みはない。殺されるまでに一糸を報いようという闘志は尊重すべきである。しかしどんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない。

 卑怯を忌む観念は戦国武士にもやくざの中にもあるのに、私が今日カイパアンの日本兵の物語をすると、大抵の元兵士は「うまくやりよったな」という。いつからわれわれはこうなってしまったのか。

大岡昇平『レイテ戦記(一)』中公文庫、2018年、186-7頁。

 

 「重機」とは重機関銃のこと。太平洋戦争末期、フィリピン・レイテ島にこもる日本兵のある小部隊が、米兵に対して白旗を揚げる。米兵が投降を促して近づくと日本兵は銃を撃って山の奥へ逃げた。いわば騙し討ちをしたわけだった。

 著者は追いつめられた兵士たちの心情に共感を置きつつ、でもそれはいくらなんでもだめだろう、人間としてやっちゃいかんことだろう、と批判する。「相手もわれわれと同じく徴募された市民である。同じ市民同士の間には、戦争以前の、人間としての良心の問題があると私は考える」(187頁)。戦争は殺し合いである。相手をお互いに人間と見ぬ行為である。それは殺す側の人間も自身の人間性を失ってゆくことである。けれどぎりぎりのところでお互いが人間に戻る余地が確保されていなければならない。そのひとつが白旗というルールである。そのルールを破ることは、人間性の最後の可能性をみずから捨ててしまうことであり、「市民」という身分の価値を放棄してしまうことである。相手もまた市民なのだということを認めなくなったとき、自分も市民でなくなってしまう。

王を讃えてきた

 梅田テアトルで上映中の『バーフバリ 王の凱旋』を見てきた。以下、備忘録として、感じたことを箇条書きに。多少ネタバレになってしまうので、未見の臣民は先に映画館で御真影を奉戴されたい。

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・基本は若き英雄バーフバリ殿下の流離譚。なのだけれど、ひとつ上の世代である国母シヴァガミとカッパッタ叔父さんがそれぞれ悲劇的展開の駆動を担っていて、この2人が映画の背骨を支えている。

・インド映画はとにかく歌と踊りが多いと聞いていたが、本作については特に多いとは感じなかった。ただ、突然に歌と踊りのシーンに入っても全く違和感を覚えないのが不思議だ。ここでダンスが始まるのが当然でしょうという雰囲気に完全に飲まれる。

・「え、重力は…??」というシーンが何度が出てくるが、シヴァ神のご加護なのだろう。そのように納得するのが当然でしょうという雰囲気に完全に飲まれる。

・バーフバリはすごいので、追放された先でうっかり産業革命を起こす。

・「よく考えるのです」→「ヤシの木空挺強襲」の流れはさすがに笑う。しかしシヴァ神のご加護なのだろうと納得できてしまう雰囲気に完全に飲まれる。

 

・クライマックスで主人公と敵役が一対一の戦いを繰り広げる。そこはハリウッド映画に似ているのだけれど、実は最終的な決着を決めるのは、主人公の母が火鉢を頭に載せたまま寺院の周りを3周できるか否かという別の原理。男と男の戦いよりも、女から神への祈りの方が優位にある。主人公も敵役も、この「火鉢担ぎ」の儀式自体を否定しておらず、いずれも相手の骸を祭壇に捧げてやろうと宣言する。

・このとき、黒幕である敵役の父は、橋を燃やして「寺院の周りを周回」の儀式を妨害しようとする。映画の中で、かれだけが儀式の価値そのものを否定していることになる。王権神授説の否定。

 

・バーフバリが英雄であるのは、超人的な戦闘能力を持っているからでも、王族の血を引いているからでもない。それは、力や権力や勇気において劣る一般人をかれが感化し、周囲に小さな英雄を作ってゆくから。映画はここをポイントとして繰り返し強調しているように思った。

 

・よくわからなかったのが「法」と「正義」の関係。「法」はたぶん「ダルマ」という言葉が使われていた。このあたりの知識が全く無いし、原語も文化もわからないので想像なのだけれど、「法」には2種類の意味が使い分けられているように思えた。ひとつは国家を統治するための一般的な「法律」で、もうひとつは道徳規範の根幹であり国家の統治原理そのものであるような「法」。ここには宗教的な意味合いや世界観も含まれているのかもしれない。その二重の意味合いを含む「法」の力の源泉はどこにあるのか。その力を司るのは国母シヴァガミで、彼女は慈愛と冷徹さを兼ね備えた権威ある存在として描かれている。その権威の源泉は宗教的な儀式によるらしい。だがそのシヴァガミのある判断が「正義」から離れているのではないかということになり、物語が大きく転回し始める。だから国母シヴァガミは無謬の存在ではなく、「正義」はときに「法」の上位にあるらしい。じゃあ神様や儀式の価値は限定的なのかというと、そうでもない。おそらく、神々は人間に「法」を定める権威を授けるけれど、その力をうまく運用できるかどうかは人間に任せられている。人間が「法」と「正義」を一致させることができなくなれば、神々は王を見放し、内乱が起きる。内乱の勝者に神々は再度権威を与える。この変転が永遠に繰り返すのが人間の世の中、ということらしい。このあたりの神々と人間の距離感は、トロイア戦争におけるギリシアの神々と人間たちとの距離感とはやや異なる。

 

・主役級の人物たちの表情の演技はあまり派手ではなく、まあ普通。しかし彼らを取り巻く脇役たちの表情がやたらと大げさで、この2種類の表情傾向が混在しているのが面白い。

・ポスターに使われている、バーフバリ殿下と王女様が矢を3本ずつ番える場面はめっちゃかっこいい。ぜひ見るべき。独特のリズム感がある。

戴冠式のシーンなどで王や国家を称える決まり文句が朗唱される。この朗唱文が『マハーバーラタ』を思い出させる雰囲気を帯びていて、すごく良い。

・バーフバリ殿下が映るシーンではずっと長い黒髪がそよそよと風に揺られているのが個人的にツボに入った。英雄ですからね、そよ風ぐらいずっと吹いてますよね。

『エヴァンゲリオン』と『まどか☆マギカ』を結ぶ作品としての『少女革命ウテナ』

少女革命ウテナ』(1997)を初めて鑑賞して衝撃を受けている。今更かよ。

 

以下は単なる印象の範囲を出ないメモ。『ウテナ』は『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)と『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)のちょうど中間に位置する作品なのではないか、と思わずにはいられなかった。

 

「中間に位置する」というのは曖昧な言い方になってしまうのだけれど。

この表現で、たとえば『ウテナ』の制作陣が『エヴァ』の影響を受けたのであるとか、『まどマギ』の制作陣が『ウテナ』の影響を受けたのであるとか主張するつもりは全く無い。後発の作品が先行する有名作品から何らかの影響を受けるのは当たり前のこと。同時にまた、この3作品は孤高の作品であって、他からの影響とは無関係に作品それ自体の価値を持っている。

 

こういった狭い意味での「影響」や「パクリ」や「制作スタッフの系列」に関する議論はいったん脇へどけておく。いま考えたいのは、仮に「平成アニメ史」あるいは「平成アニメ思想史」のようなものが構想できるとすれば、実はこの3作品がひとつの隠れた「流れ」をかたちづくっているのではないか、ということ。『エヴァ』が取り出した何かを『ウテナ』が引き継ぎ、最後に『まどマギ』が受け止めた、という流れがあるのではないか。

各作品の作者たちはそのようなことを考えていなかっただろうけれど、あとから振り返ってみると、この3作品をつなげて考えることができるのではないか。

 

で、その「何か」とは何であるのかということになるのだけれど、その肝心なところがいまひとつ自分にもわからない。わからないまま書くなよって話なのですが。

いちおう述べてみると、ひとが「何者かに〈なる〉」(あるいは「なりきれない」)というテーマと、「他者のために生きる」「すると世界が壊れていってしまう」というテーマ。この2テーマが重なり合うような問題設定をこの3作品は追い求めているのではなかろうか、ということ。

 

別の言い方をすれば、それはたまたま選ばれた作品のテーマではなく、時代背景のなかで半ば必然的にこの問題の「流れ」にまとまっていったのではないか。

 

などと妄想を重ねております。

 

(追記)

 大雑把ついでにさらに書いておくと、この「何者かに〈なる〉」「何者か〈である〉」「何者にも〈なれない〉」「何者で〈ありうるのか〉」という問題設定は、ついに宮崎駿富野由悠季といったひとつ上の世代のひとびとが掴まなかったものだった。かれらの作品では、つねに「何を為すか」が問題で、何者であるか、何者に成るのかは全く問題外だった。千尋は実にあっさりと湯屋の女中になり、パズーは空賊になる。作中で登場人物の立場や身分が変わることがあっても、そのこと自体はかれらにとってたいした問題にならない。何者かであることは当然の前提であって、そのうえで何を為すか、どのように為すか、なんのために、誰のために為すのか、ということこそが問題だった。キキは魔女の身分を一時的に失うが、再び魔女に戻ることができるのか、戻ってよいのか、といったことに悩みはしない。魔女であるか否かではなく、目の前のトンボを助けることができるか否かが決定的な問題だった。この点トミノ作品でも同様で、アムロカミーユもMSパイロットであるか否かはたいして問題にしない。自分がニュータイプであるのか、どのようにニュータイプであるべきかといったことすらも問題ではない。NTであるうえで、そこから何を為すかが問題だった。だからカミーユはクワトロを殴る。殴ることで自分が何者になってしまうかといったことは気にしない。まず行為があり、「何者であるか」という問題はあとからついてくる。シャアですら、自分が本当にNTなのか、ダイクンの息子であるにはどうすればよいのかということに悩みつつ、アクシズ落としという行為を決行する。ギンガナム御大将は剣を抜き、ロランはそれに応ずる。

 これに対して、第3新東京市の面々のなんとひ弱なことだろう。エヴァに乗るか否かという行為の問題が、パイロットであるか否か、みんなのもとにいて良いのか否かという立場や存在の問題にずり落ちてしまう。ちょっとサボりながらもパイロットです、といったことは許されない(そういう中途半端な生き方を教えようとしたカジさんは殺されてしまう…)。ウテナは王子様になろうとする。世界を革命することよりも、姫宮との友情関係と、王子様になるという存在問題のほうが重要になる。『輪るピングドラム』の女王様の決まり文句は「何者にもなれないおまえたちに告ぐ」。荻野目苹果ちゃんはプロジェクトMでモモカになろうとする。主人公たちの動向は「運命の列車を乗り換える」という行為に収斂しているようでいて、実は「家族であろうとする」という立場・存在」が最終目標になる。鹿目まどかは「全時代の魔法少女を救う」という行為を決行するけれど、それは「魔法少女になる」「概念になる」という立場・存在の変化と引き換えのことだった。これらの作品では、「するか、しないか」よりも「何かになる、なれない」の問題のほうがはるかに優位にある。

 

『トトロ』のお父さんのすごいところ

 『となりのトトロ』に登場する大人たちの中で、サツキとめいのお父さんはひときわ大切な役割を担っている。このひとは、すごい。

 いちばんすごいのは物語終盤の「案外そうかもしれないよ」と笑って、窓際のとうもろこしを手にする場面。

 お母さんの病院にお父さんがひとりで訪れている。二人は談笑している。お母さんが突然、いまサツキとめいがいたような、と言う。二人は、めいの失踪とサツキの冒険を知らない。両親の視界では、娘たちは家でお留守番をしているはずである。ところがお母さんは「いたような」と言い、お父さんはそれを否定しない。それどころか、姉妹がそこに来た「物証」としてとうもろこしを見つける。とうもろこしには「おかあさんへ」という字が刻まれている。

 

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 これが実際の親なら、「え、本当に来てるの?!」と慌ててその場で子どもたちを捜索することになるだろう。なにせとうもろこしがあるのだから。けれども二人はそうではない。「案外そうかもしれないよ」で済ませる。「来たけど来ていない」という一見矛盾した状態を受け入れている。お母さんもお父さんも、トトロを目の当たりに見たわけではないし、あくまで子どもたちの持ってきた話であると思っている。けれどももっとも肝心なところで否定しない。

 そしてお父さんが帰宅すると、村では何やら大騒ぎが起こっていた様子である。めいがまたお世話になりまして、と村の人達に頭を下げる。お父さんは、めいとサツキがネコバスに乗ったとは思いもよらない。ただめいが迷子になってたんだなと理解する。おそらく二人の足取りを精細に確認せずに済ませただろう。かれが考古学研究室に所属していることを思い起こす必要がある。かれは「痕跡」を探し、確定させるプロである。だから、やろうと思えば娘たちの足取りを分析し尽くすこともできた。そういう態度にスイッチできた。けれど、やらない。やらないのは、それがトトロの世界を守ることだと理解しているからだ。

 

 『となりのトトロ』でお父さんが担っている役割を検討してみよう。結論を先に言うと、お父さんは人間の側の世界の軸を支えている。トトロとネコバスはその反対の側の、いわばファンタジーの世界の軸である。サツキとめいはその2つの世界を行き来する。ここで重要なのは、人間世界の軸であるお父さんが、トトロ世界の存在を否定するのではなく、むしろ肯定して、それを支えつつ、人間の側にとどまっているということだ。

 お父さんが登場するいくつかの場面を抜き出して考えてみる。引っ越し作業中、さつきが「お父さん、この家やっぱり何かいる!」と言う。「それはいいぞ、お化け屋敷に住むのがお父さんの子どものころからの夢だったんだ」と返す。お父さん、実は軍隊に行かずビンタを経験せずに済んだ水木しげるみたいな人でもある。

 しかしお父さんは「おばけ」の世界に侵入してゆかない。三人がお風呂に入っているとき、突然しんとなる。なにかが近づいているな、という実感がある。ところがお父さんは突然「わっはっは」と笑いだし、おばけが近づいているかんじを吹き飛ばしてしまう。ここでかれは家が人間の場所であることを大声で主張している。それにより「まっくろくろすけ」が家から森へ移転する。

 お父さんはトトロ世界との境界線をわきまえている。めいが目覚めて「本当にいたんだもん」とすねはじめると、「嘘だなんて思っていないよ」とやさしく応じる。これはめいにその場かぎりで調子をあわせているのではない。めいが本当にそのような出会いに開かれていることを確認している。けれどもお父さん自身はめいの世界に入ってゆかない。その後、村の社の大樹に対して柏手を打つ。「めいがお世話になりました!」と礼をする。森の世界、ファンタジーの世界の存在を確認し、尊重するけれど、境界線ぎりぎりでとどまり、引き返す。

 

 お父さんはこうした態度を通じて、サツキとめいが帰るべき人間の世界を守りつつ、姉妹が訪れるもうひとつの世界へのドアを開いておく。このお父さんの態度と、トトロの受け入れの態度によって、初めてサツキとめいの冒険が成立する。だから、トトロとお父さんには直接の接点はないけれど、両者は協調体制にある。どこか奥底でつながりを保っている。病室の窓で見つけたとうもろこしは、そのつながりの確認でもある。とうもろこしは、トトロ世界からお父さんへの外交親書みたいなものだ。お父さんはその受け取り方をわきまえている。「案外そうかもしれないよ」である。子どもたちとネコバスがそこに実在したという痕跡を探さないし、かといって幽玄の世界の存在に浸り切るのでもない。めいが迷子になってたんだな、村のひとたちのお世話になったんだな、と受け取って済ませてしまう。それでいて、「お世話になる」の相手の中に、人間以外の存在も案外ふくまれちゃってもいいじゃないか、という余裕がある。

 お父さんが人間世界の側にあくまでとどまるのは、入院中のお母さんの存在が大きいだろう。人間世界の論理は、死の論理である。サツキとめいにとって、お母さんは「死んじゃうかもしれない」ひとである。作中では明確に語られないけれど、お父さんとお母さんは、お母さんの病状を正確に理解している。それがどれだけ死に近いのか、遠いのか、明確に受け止めている。けれどサツキとめいはそのように整理することができない。お母さんから遠く離れていること自体が、つねにぞわぞわとした不安を及ぼしている。「じゃあお母さん死んじゃってもいいのね」「いやだぁ」という、解決できない袋小路に追い込まれる。トトロたちはそのための逃げ場を提供する。サツキとめいは、母親の死の可能性という人間世界の現実に触れるには幼すぎる。それではだめだ、子どもたちは守られなければならない、という態度が物語の書き手に頑としてあるのだろう。これは高畑勲の『火垂るの墓』で、母の死に接した兄妹の逃げ場が栄養失調の防空壕しかなかったという世界観・人間観とは正反対だ。

 

 『トトロ』のお父さんの役割は、人間世界を守りつつ、主人公であるサツキとめいが隣の世界に遊びに行くためのドアを開けておいてあげること、なのだとおもう。それは人間の世界とおばけの世界の両方を理解しながら前者にとどまるという、とてもむずかしい仕事である。それができるから、トトロのお父さんはエライ。

 これができないのが、指輪物語ガンダルフだ。ガンダルフというか、指輪物語には人間の世界とおばけの世界の境界線が無い。世界全体が子どもの世界だ。ガンダルフは作中で主人公フロドたちの師として振る舞うが、実際は子どもの世界から子どもの世界への移動でガキ大将をしているにすぎない。(お父さんはあくまでトールキンなのだろう)

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 もう少し視野を広げてみると、『トトロ』のお父さんのように、人間世界と「隣の世界」を行き来する主人公を手助けする(見守る)登場人物が宮崎駿作品には何人か登場している。『魔女の宅急便』では画家の友人がこれにあたる。『千と千尋の神隠し』では、湯婆婆の姉の銭婆がその役を担当する。『紅の豚』では、隣の世界に入り込むのはフィオで、主人公のポルコがそれをサポートするという変則的な図式になっている。『もののけ姫』は複雑で、人間世界と隣の世界の境界線が非常に入り組んでいる。エボシ様、ジコ坊、モロがそれぞれの仕方で両世界を行き来しており、アシタカはそれに翻弄されながら人間世界への帰還を試みる。

 単純化すべきではないのだけれど、いずれも、主人公の2つの世界の往還に直接同行はせず、見守り、助言を与え、2つの世界の接点を守りながら物語を複層化してゆくというところに重要な役割がある。

 

 さてここで問題になるのが、『ナウシカ』の場合だ。

 ナウシカ自身は人間の世界と腐海とを往復する。けれども、彼女にはそれを見守る師がいなかったのではないかとおもう。つまりサツキとめいのお父さん役のようなひとがついに現れなかったのではないか。チクク、マニ族の上人様、森の人セルムが部分的にその役割を担っているが、いずれも不完全だ。彼女がもっとも見守り役を必要としたのは、王蟲と粘菌の大海嘯に巻き込まれていたときだろう。けれどこのとき上記の男たちはおらず、結果としてナウシカは「森と人の中間にいるお方」になってしまう。いわば往還のなかでシンクロ率400%に入ってしまった。

 ここらへん、『ナウシカ』は他の宮崎駿作品に比べて極めて異質である。たとえば母の死にしても、ナウシカの母の死の扱いと、サツキとめいのお母さんの死の可能性の扱いはかなり様相を異にする。

書き始めるとキリが無いので終わりにするけれど、『ナウシカ』はやはり異質な作品だとおもう。

 

 

 

彼女だけが聞くことができない。

 たとえば90歳のお婆さんが無謀な運転をして、57歳の通行人の女性を死なせてしまう。ほかに数名の怪我人が出る。

 事件の直後からさまざまな「ことば」が生み出される。生き延びた怪我人へのインタビュー、亡くなったひとの遺族の声明、加害者の息子の「免許を取り上げておけば」といった悔恨。「現場は見晴らしの良い交叉点で…」といった報道、高齢社会の課題についての専門家の論評、「年寄りから免許を取り上げろ」といった意見。

 こうしたことばが重ねられてゆくうちに、ひとびとは事件について一定の「理解」を獲得してゆく。その内容や深さは必ずしも共通していないし、たとえば事故遺族や負傷者にとってその「理解」は「納得」とは別かもしれない。しかしいずれにせよ、ひとつの事件にわぁぁっとことばが集まってゆくという事態がたしかに生じている。

 それはおそらく、罪の無い人が突然轢き殺されたという社会的な傷口を「縫合」する過程なのだろう。さまざまなことばは、縫い合わせるための糸であり、血小板である。ひとびとは何らかの仕方で、たとえば自ら語る、他人が語ったことを読む聞くという仕方で、このことばの過程に参加している。

 

 ところが、事故のもっとも渦中にいた人、つまり亡くなった人だけは、この過程に参加できない。

 それは奇妙な事態だ。亡くなったひとは、自分を轢いたひとが90歳の女性であることを知ることができない。事件の直後から急激に寄せ集まるさまざまな物語を、その中心にいる死者だけが聞くことができない。仮に、この事件をきっかけに高齢者の免許保持について法令が改定されたり、小説や映画が作られたりしても。語られることがどれほど真実であっても、虚構であっても。残された人々にとって意味深きものであってもそうでなくても。死者はそれらを聞くことができず、わたしたちはその当事者を置き去りにしたままことばを重ねてゆく。傷口を縫合するようでいて、その核心部は閉じられないままにある。

 

 この構造は戦災や災害でも同様だ。真珠湾奇襲攻撃で死んだアメリカ海軍の水兵たちは、その後母国の海軍がジャップの軍と政府を完膚なきまでに叩きのめし、アメリカが戦後世界をリードすることを知ることができない。絶滅収容所で死んだユダヤ人は、その後キャンプが解放され、わずかな同胞が生き延びたことを知ることができない。大地震で建物の生き埋めになって死んだ人は、自分の家の外でも同様の倒壊被害が広がっているのかどうかを知ることができない。

 

 この原理的な構造はひどく不正なものであるように思える。というか、実際に不正の最たるものだ。けれども、生きている人間はなにかを語り、聞き、理解してしまう。そういう構造がある。

「ズキズキ」と「ずきずき」

 授業で擬音語・擬声語と擬態語の区別を扱った。擬音語・擬声語は、「ガシャガシャ」「ワンワン」のように、音や声の様子をことばに表したもの。擬態語は「そわそわ」「うろうろ」のように、ものごとの様子を表すもの。

 書き言葉では、擬音語と擬声語はカタカナで書き、擬態語はひらがなで書く。「音が出ているならカタカナ」と教科書にあり、この区別はわかりやすいと思ってそのまま教えた。

 たとえば机を手で揺すれば鈍い音が生まれる。それは「ゴトゴト」である。それはあくまで近似であって、本当に「ゴトゴト」ではないかもしれない。ただ、ゴトゴトっぽい音が聞こえていることは確かである。

 他方、「うろうろ」している人は、「ウロウロ」という音を発しているわけではない。足音や息の音は聞こえるかもしれないけれど、「うろうろ」はそれを越えた何か、顔つきや身振りやリズム全体を含んで理解される「様子」である。これはひらがなで書くことにしよう。

 

 このように説明したのだけれど、その後、「痛み」の表現について説明したときに困った。日本語話者は痛みを「ズキズキ」「ヒリヒリ」「ガンガン」「ジリジリ」といったことばで表現する。これは擬態語であろう。したがって自分の説明に従えば「ズキズキ」はひらがなで書くべきなのだけれど、どうしてもカタカナで書きたくなる。

 実際、「虫歯がずきずきと痛む」よりも「虫歯がズキズキと痛む」と書いた方が、ズキズキ感はずっとリアルさを増すように感じる。「日焼けした肌がヒリヒリする」と「日焼けした肌がひりひりする」はどうであろうか。

 

 この語感というか字感には個人差があろうけれど、どうも、「音が出ていないなら、ひらがな」と単純に分けられるものではないらしい。これはなぜか。ひとつには、痛みは「様子」ではないかもしれない、ということが考えられる。つまり「ヒリヒリ」は擬態語ではないということ。擬態語はものの様子を表現する。このとき、表現するひとは表現する対象を一定の距離をもって捉えている。自分自身がうろうろしているときでさえ、うろうろしている自分を少し離れたところから観察している。これに比べると、痛みの実感には「距離」がない。ズキズキした痛みを感じている自分と、それを表現する自分がほぼ一体である。ズキズキとした痛みの内側から「ズキズキする…」と表現するほかない。

 この「内側の感じ」はむしろ音や声の感覚に近い。「ガシャガシャ」という音は、その音源から出てこちらに聞こえてきているけれど、それと同時にいったん聞こえている音は自分の実感の「内側」に取り込まれている。

 

 もう一つの理由は、カタカナがひらがなよりもずっとトゲトゲしさをもたらすということ。ひらがなはやわらかく、まるみを帯びる。カタカナは異物として刺さってくる。痛みは自分の身体やこころにまろやかに溶け込んでくるものではなく、むしろしつこく刺さって抜けない。そこに痛みが有る、ということを意識しないでいられない。そのためカタカナで書きたくなる。

 これは音が出ている擬音語・擬声語でもある程度同じで、たとえば「窓がガシャンと割れた」はカタカナで書きたいけれど、「雨粒がぽとんぽとんと垂れている」を「ポトンポトン」と書いてしまうと、なにかが取り逃がされてしまうような気がする。ただ、「ぽとんぽとん」は擬音語なのだろうか、擬態語なのだろうか。「ぽとぽと」なら。「ぽつりぽつり」なら。擬声語・擬音語と擬態語の境目は曖昧なのかもしれない。

 

 話がそれてきたようにも思いますので、ここらで切り上げることにします。