ご飯なんか一日に一回くらいなので、お腹は減るし、死ぬ子が何人も出たんです。
ある親は、死んだわが子を何日も置いていたけど、周りから「臭い」っていわれて、海にザブーンって落として、泣いていたそうです。子どもを亡くした親の泣き声で、船中いっぱいでした。だからうちの母は、わたしに「がんばって生きねば、おめも海さ投げられるよ」って。わたしは海さ投げられるのがやでな、子どもながら、よくがんばって生き延びたと思います。
まず樺太の真岡へ運ばれて、今度は樺太にもともと住んでた日本人といっしょに、函館に送られたんです。船への乗り降りのときには、人も荷物もごっちゃに、縄で編んだ網みたいなのに入れられてクレーンでつり上げられたの。
(…)函館にたどり着いたとき、感激とかそういうのはなんにもなかった。ただ荷物のように降ろされたかんじでした。引き揚げてから二年ほどして、父は亡くなりました。(pp.56-57)
アーサー・ビナード編著『知らなかった、ぼくらの戦争』(小学館、2017年)より。