しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ことばを覚える前の夢

英語で話す夢を見た。とても流暢というのではなかったけれど、わりとすんなりとやりとりしていた。起きてから、現実でもあれぐらい話せればとりあえず助かるのだけれどなあと思った。

英語を話せないのに、英語で話す夢を見た。とすると、わたしは母語を話すようになる前にも、それを話す夢を見ただろうか。そのような夢を実際に見たという記憶も、見なかったという確信もない。そもそも乳児期に見た夢の記憶そのものが無い(仮に夢を見ていたとして)。

乳児も夢を見ると仮定すると、まだ覚えていない母語を自在に話す夢を見ているという可能性はありうる。一般に、ひとは子供のころから、また大人になっても、実際にはできないことや未熟であることを難なくこなすという夢を見ることがある。もしこの一般性が乳児の夢にも拡張できるとすると、乳児はたとえば夢の中で二本の脚で歩いたり、高いところにあるものを手で取ったり、母親に食事を与えたり、堅いものを噛み砕いて食べたり、排泄を自在に行ったり、性にまつわる行為を試しているかもしれない。いずれも仮定に仮定を重ねた想像だけれど、こうした夢のレパートリーが存在するとすれば、そのなかに「ことばを話す」という夢が含まれても不思議ではない。

しかしその夢は乳児にとって非常な困難と混乱をもたらすだろう。というのも、夢から覚めると乳児は入眠前と同じようにことばを話せない状態に戻るからだ。しかも、ことばが話せない、理解できないということもほとんど理解できない。わたしたちは奇妙な夢を見たあと、その内容を言語化し要約する。「英語を話せないのに、英語で話す夢を見た」というように。それによって夢と現実の境界を確認する。ところが乳児はそれができない。夢を見ていて、目が覚める。ところがその夢の内容をいったんことばで把握して、現在の現実と切り分けることができない。したがって双つの世界は奇妙になめらかにつながっている。つながっているのだけれど、風景は完全に切り替わる。その境目を自分で言い定めることができない。泣くしかない。

ことばを話す夢を見たあと、ことばを話せない現実に目覚めたとき、何が起きていただろうか。もはや夢には戻れない。戻るという理念自体が言語に支えられている。夢のなかの、ことばを話していた自分が現実に進出しようとしているように感じるのかもしれない。しかし身体や精神は全くついてこない。

おそらく境界線を作るのは母親やその他の保育者なのだろう。抱き抱えられあやされることで、現在の目覚めている現実の方が先に固められる。しかしそれと同時に、もしかしたら、夢のなかのことばを話していた自分の方が夢と現実の境界線を引くのかもしれない。現実が夢を切り離すのではなく、夢の側が現実を切り離してこちらに寄越すのだ。そうした境界線が意識の古層としていまのわたしの現実の直下にひそむ活断層となっており、現実でことばを話すようになってからは、ことばを話す前に話していた夢のなかのわたしはしずかに眠っているのかもしれない。