しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

下草のアンテナ

 道を歩いているとき、風が吹いてきて、それを顔のおもてで感じる。それと同時に、そばの下草や樹の枝葉が揺れているのを見ると、わたしと同じ風によってそれらが揺れているのだと感じる。わたしがわたしなりに知って感じている風を、草や樹はかれらなりの仕方で知って受け止めている。

 ところが、自分は全く風を感じず歩いているのに、小さな下草の葉がびりびりと震えて揺れていることがある。たぶん、わたしにとっては感じられない微風があるか、あるいは下草の生えている地上十数センチのところだけ流れている風があるのか、いずれかである。つまりいずれにしても、わたしが知らない風を、下草が鋭敏に受け止めている。かれらと私では、風に対するアンテナの感度が異なるのだ。

人生のセーブポイント

 さいきん周囲のひとを見ていて、すこし気づいたこと。人間は人生のいくつかの節目で、自分のこれまでの生き方や、どこか引っかかっていたことを整理して、可能なら肯定することが必要なのだなとおもう。

 いわば人生のセーブポイントのようなタイミング。これまでの旅路をふりかえって、それなりに都合の良いストーリーにしたてて、それなりに整形したファイルを上書き保存する。そこから先うまくいかないことがあってもゲームのように「リセット」することはできないけれど、セーブポイントを設定しておけば、困ったときにいったんそこに戻って考えと生き方をクリアにしなおすことができる。

 上書きセーブに必要なのは、たぶん、謙虚さと強引さ。自身の過去をひとりで吟味するとき、ひとは謙虚になれる。けれどそれだけではなく、「あれはあれでよかったんだ、しょうがなかったんだ」という強引な納得で乗り切るということもある。なぜかこの2つが共存する。どちらか片方では「保たない」のだろう。自分の過去を強引に肯定することは身勝手なようだけれど、そのように踏み切れず、自分の過去に登場した他人を攻撃することでセーブを行なうひともいる。それはそれでひとつの方法だけれど、ややしんどくもある。

 

 セーブのタイミングがいつ訪れるかは、なかなか自分の自由にはならない。就職や退職、結婚や離婚といったイベントがそのタイミングとなることもある。これらはある程度じぶんのコントロール下にある。しかし肉親の突然の死別や失業や失恋といった事件が自身の過去の暫定決算を強いるようなときもある。これは準備がしっかりできないので、かなり辛い作業になることが多い。じっくり時間を確保できればよいのだけれど、セーブを疲れて中断してしまうと、ファイルがあやふやになって、立ち往生する。

妊婦さんのお腹は勝手に触ってよいというアレ

「私は、機会があれば、妊婦さんのおなかに触らせてもらう。

 ゆっくりとてのひらを広げ、奥にいる生命を感じさせてもらう。元気で生まれてきてね。外で待っているからね。世界はそんなに悪いところじゃないよ。怖いことだってあるけど、いい人たちもたくさんいるよ。大変なことも時にはあるけど、人生おもしろいものだよ。今は安心しておなかの中でまどろんでいてね。そんな言葉を心の中で胎内の赤ちゃんにかける。

 同時に、母親である妊婦さんにもメッセージを送る。だいじょうぶだよ、焦って、先々のことを心配したりしなくていいんだよ。ただそのままゆったりしていれば、それが一番赤ちゃんにいいんだよ。(中略)

 ところで、妊婦さんのおなかに触らせてもらうのは、もちろん、本人の許可を得てからだ。

 私が妊娠していた頃、何も聞かずに、おなかに触ってくる知人がいた。何の悪気もないこと、ただおなかの赤ちゃんに触りたいのだということはよくわかったが、ちょっと驚いた。その人の触っているのは、私の身体でもある。動物だけでなく、人間の身体にも縄張りというものはあって、だから近づく距離というのは、親しさによって異なる。ましてや、身体に直接触れるかどうかは、その人との関係性がものをいう。なのに、妊婦になったとたん、自分の身体がないかのように、扱われてしまうことがある。どうも赤ちゃんという存在に目を向けると、お母さんのことが全く見えなくなってしまう人というのがいるようだ。もしくはただ赤ちゃんの付属物、というか、赤ちゃんのための容器としての扱いというか。」(宮地尚子『ははがうまれる』福音館書店、51-52頁)

 

 

犬の眠り

 犬の眠りは人間に比べて浅いなと思う。本当のところは犬になってみないとわからないけれど、仮にわたしが犬になっても、犬にとっては犬の眠りしか無いので、それが浅いか深いか自分では判断つかないだろう。けっきょくわからないけれど、実家で飼っている犬を外から観察する限りでは、人間よりもずっと浅い眠りであるように見える。目は眠っているけれど、耳は起きている、というような。

 野外で生活する動物にとって睡眠は無防備な状態である。だから人間のようにぐっすり深く眠るわけにはいかないのだろう。すぐ入眠して、すぐ目覚める。なるほど人間のように深くいびきをかいたり、夢を見ているように見えるときもある。しかしそれはあくまで例外で、浅い眠りを断続的に繰り返すのが犬の眠りの基本である。

 

 むしろ長時間の深い眠りを毎晩繰り返す人間のほうが特殊なのだろう。人間が深い眠りを必要とするのは、たぶん覚醒の明晰さの深さと対応している。人間の覚醒時の意識はとても複雑である。現在の世界、過去の記憶と未来への展望、反省の構造を備えている。つまりある独特の深みがある。眠りの深さは、この覚醒時の意識の深さと同等であるのかもしれない。さらに、ぐっすり寝ていても身の安全が保障される住居や社会制度や家族制度がこの生物学的要求に付随する。昼と夜、光と闇、目覚めと眠り、ソトとウチ、緊張と安心、といったペアが人間の生活の在り方を強く規定している。もちろん犬にも昼と夜はあるけれど、その対照性は人間よりもずっと曖昧なのだろう。

 人間の場合、覚醒と睡眠、昼と夜の対比に、生と死の対比が重ね合わされる。死は眠りに近い何かであり、死は夜の国への訪問である。深い眠りからの目覚めは、ときに死からの蘇生に近いものとして感じ取られる。ひどく疲れたときに偶然体験する、単にぐっすりと眠ったというのではない、根本的な深い眠りから突然めざめたときの、なにかが蘇り、再生したというあの感覚。自分ではないが自分が受け持っている、深く暗い領域から突如として意識が更世する。入眠、意識の途絶、覚醒による回復、という一連の流れは、単なる脳の状態の遷移ではなく、人間の生活にとってとても大切な断絶と再生の体験にちがいない。死への恐怖と受容も、その反復をベースにして把握されている。

 犬の眠りにはそれが無い。たぶん、「夢うつつ」の状態と、「夢うつつというわけではない状態」の間を曖昧に行ったり来たりしているのだろう。するともしかしたら、死ぬことについても犬は人間よりずっと違ったかたちで把握しているのかもしれない。つまりじぶんの死を人間よりも幾分おだやかな仕方で理解しているのかもしれない。

長生きするということ

 わたしの祖父の兄はたしか7年前に亡くなったのだけれど、かれは明治45年生まれだった。明治最後の年ということになる。ちょうど100才だった。亡くなる2,3ヶ月前にかれと話していたとき、話の流れのなかで、「あれは震災の前やったか…」と言うのだけれど、その「震災」というのが関東大震災(大正12年)なのか阪神大震災(平成7年)なのか、わからない。関東大震災のとき、かれは11才か12才で、神戸か大阪に住んでいたはずである。祖父(と祖父の兄)の父は岡山県の出身で、大阪府警に勤めたあと、退職して神戸で旅館を始めた。その旅館がわたしの母の実家ということになるのだが(緒花ちゃんですな)、明治時代に警官を退職したあと旅館をゼロから開業するというのもなかなか不思議な人であるとおもえる。それはともかく、阪神大震災のときわたしは11才で、関東大震災のときの祖父の兄と偶然同年代である。1995年の大震災のときかれは80代で、わたしもかれもやはり神戸に住んでいた。11才ごろの祖父の兄は、帝都の大震災の報を新聞などで読んでいたはずで、「あれは震災の前やったか…」と言うとき、それが関東大震災である可能性も無くはない(幸運なことに、かれは東日本大震災原発事故は知らずに世を去った)。

 関東大震災など完全に歴史の教科書の出来事だと思っていたのだけれど、人間たまたま100年も生きてしまうと、時代を隔てて起きていた2つの震災も、ひとりの人生のなかに収まってしまう。人間の持つ時間というものは、そういう不思議さがあるなとおもう。

 (なお、祖父の兄は終戦直前に根こそぎ動員で満州に送られ、そこでソ連軍の捕虜となってシベリアに抑留されるのだけれど、いま逆算してみるとそれはちょうど今のわたしと同じくらいの年齢のころのはずである。機会があれば、そのことも書く。)

英国ホロコースト記念館の「生存者3Dインタラクティブ会話アーカイブ」

英国ホロコースト記念館 The National Holocaust Centre and Museumで、10人のホロコースト生存者の3D映像を記録し、かれらの死後も、インタラクティブ・システムによって、映像が質問者と応答できるようにする、というプロジェクトが進められている。以下の記事で偶然に知った。

 


 どう考えたものかわからない。けれど直観的に、このプロジェクトは何か間違っているのではないか、とおもった。とくにインタラクティブ・システムである。プロジェクトのウェブサイト(https://www.nationalholocaustcentre.net/interactive)には次のように説明されている。

 

The Forever Project uses advanced digital technologies that enable children and adults not only to hear and see a survivor sharing his or her story, but also allow them to ask that survivor questions and hear them giving answers to hundreds of frequently asked questions.

〔雑訳〕「フォーエバー・プロジェクト」は、先進的なデジタル技術を活用しています。これにより、子供も成人も、生存者のすがたを目で見て耳で聞き、かれらの物語を共有することができます。それだけでなく、〔3D映像の〕生存者に、数百のよくある質問を問い、答えを聞くことができます。 

 

 このシステムは、なにか大切なものがごっそりとこそぎ落とされている気がする。10人の生存者の3D映像は、来る日も来る日も、同じ質問を受け続ける。数百のfrequently asked quesionsのレパートリーがデータベースに収められている。若い来館者の質問はたいていそのどれかに当てはまってしまうだろう。そして映像は答える。

 あるいは、もしデータベースに該当質問が無ければ、映像は「ううむ、それは私には答えられない」とか、「私はそのことはよく知らないんだ、体験していないからね」と答えるのかもしれない。

 これは全くの推測だけれど(つまり実装されたシステムでは別の方法が取られるかもしれないけれど)、おそらく「答えたくないな」「どうしてもそれは言えない」という答えや、沈黙は存在しない。つまりスムーズに回答できる質問と答えのペアと、「DBにありません」という返答の組み合わせしかない。それはまさにたいていのメーカーがウェブサイトに備えているFAQページと同じ発想で、そこに生存者の3D映像という”ガワ”をかぶせているだけなのではないか。

 もうひとつ違和感を持つのは、生存者にとって、同じ質問を繰り返し聞かれること自体がしばしば苦痛である、ということが、このインタラクティブFAQシステムからはすっぽりと抜け落ちているのではないか、ということである。ホロコースト生存者で後に自殺したイタリアの化学者/作家プリーモ・レーヴィは、若い学生からしばしば「なぜ収容所から逃げなかったのか」「なぜ収容所で反乱を起こさなかったのか」「なぜユダヤ人の大量移送が始まる前に、あるいはファシストが政権を取る前に、反抗しなかったのか」と質問を受ける。かれは一時期までそうした質問に粘り強く答えていたが、ある時期から倦んでしまう。『休戦』の学生版に付された詳細で初歩的な脚注を読んでいると、レーヴィの嘆息がほのかに聞こえてくる気がする。あるいは似た事例として、アメリカのベトナム戦争帰還兵はしばしば「戦場で敵を殺したの?」と子供から聞かれる。

 これらの紋切り型質問は生存者に健全な世界と自分との深い断絶を再確認させる。インタラクティブFAQシステムはそうした断絶や絶望とは無縁である。そこに、危うさや不安を覚える。あるいはもしかしたら、録画に同意した10人の生存者は、そうした絶望を既に何度となく体験したうえで、なお3D映像というかたちでそれを永遠に引き受けるつもりなのかもしれない。

79歳でポメラを買う

 アマゾンでポメラの新作を見ていたら、「もうすぐ79歳」という人がレビューを投稿していた。

 

 

 投稿は2016年末。79歳になっても最新のデジタル製品を買うのがスゴイ。それ以上に、物書き専用ツールとして有名なポメラを使いこなすのが素敵だなと思う。何を書いていらっしゃるのだろうか。プロの作家や研究者だろうか、あるいは趣味の書き物だろうか。懐からサッとポメラ最新機種を取り出すおじいさん/おばあさん、かっこよい。 

 今年10月DM200の発売を知り、もうすぐ79歳の年齢を考え、買い換えに悩みましたが、余命の少ないことを考え、買ってしまいました。
 ではDM100とDM200の使いかっての長短を私の主観ですが書いてみます。

  「余命が少ないから買った」というパワーフレーズ。アマゾンのレビューでも初めて見た。私なら、「十分使わないうちに自分が先に死んでしまうから買わない」と考えてしまいそうな気がする。逆だ。余命が少ないから買う。使う。書く。書けるまで書き続ける。素敵。