しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

東北へのチューン

先週、個人的な旅行で宮城県を歩き回って、きょうまた学会で仙台に来ている。きょうの仙台は関西に比べるとかなり涼しい。帰りたくない。


先週の旅行と今日の学会ではっきりと自覚したことがある。それは、東北の「被災地」に対して自分のアンテナの周波数のようなものがほとんど合わないということだ。要するに(当たり前なのだけれど)被災地の実感のようなものを自分がほぼ感じ取れない。

とりわけ、研究者や実践者と話をしている/話を聞くと、自分がほとんどついていけていないことを感じる。どこがどう付いて行ってないのか明文化できないが、「ピンとくる」かんじがほとんど無くて、「はぁ、そうなんですかぁ」みたいな曖昧な感想しか出てこない。

これは最初からそうだったとも言えるが、とにかく今現在、被災地を鋭敏に捉えているひとの波長を自分が全く捕らえられない。離れたところに住んでるのだから当然といえば当然なのだが。言語としては通じているのに、ことばとしては聞けていない。それがものすごく怖い。ある意味、じぶんが死んでしまうよりも怖い。