しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

リテラシー

大多数の人間が自分よりいくぶん愚かであり、読解力や共感能力に欠け、たいてい政治的に不十分な見解を持ち選挙ではいつも間違った選択をしている…と、大多数の人間が思っている。そういう時代であるような気がする。

マジョリティとは自分より少し未熟なひとびとの集合であり、自分はそこに含まれないがそれを超越するエリートではなく、マジョリティの愚かさを熟知し悲しみ哀れむことができる点で、マジョリティのなかの静かな賢きマイノリティである…という自己規定をするひとびとがマジョリティを構成している。


集団と自己の関係を階級や職種や政治的立ち位置で規定することが難しいため、集団と自己の関係に対する関係という仕方でその立ち位置を規定することになる。そこでたとえば「リテラシー」という言い回しが流行ることになる。リテラシーとは決してある集団や個人の認識能力を客観的に評価する概念ではなく、「自分よりもそれが低い」ひとびとを指し示すための概念であって、要するに集団に対する自己の立場を自ら指し示すための主観的概念である。リテラシーの高いひとびとという集団は原理的に存在せず、それが自分より劣っているひとびとだけが観測される。その集団に所属するひとびとも同様にリテラシーが低い他者を心配する。けっきょく、社会の構成員全員が全員の愚かさに嘆息しているという、不思議な社会的自己認識が完結している。

(こうしてリテラシーという概念についてのリテラシーの低さを嘆くわたしも立派なマジョリティだということになる。自己規定の無限退行)