しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

遺体と満員電車

ずいぶん久しぶりに人前で話した。聴衆は初めてのひとばかりで、30名ほどいた。30分ほど話して、帰路についた。

 

電車に乗るとちょうど帰宅ラッシュの少し前くらいで、かなり混んでいた。地下鉄のホームから次の私鉄に乗り換えるため人混みの中を歩いていると、いろいろな人がいるなぁとおもう。普段、自宅と研究室の間を片道五分で歩くだけなので、満員電車というものに乗ることが稀れである: さしあたり幸福な境遇。

 

これらのさまざまなひとびとが、ある瞬間までに、全てそれぞれの仕方で死ぬのだ、と考えてみると、ふしぎな気持ちになる。

いつ死ぬのか、どのように死ぬのかはもちろんそれぞれ別であり、ほとんど予測できない。棺に納められるひともいれば、空中で四散する旅客機から海面へ放り出されて行方不明になるひともいるかもしれない。天寿を全うする人もいれば若くして亡くなるひともいる。丁重に葬られる人もいれば、旅の果てに客死する人もいる。しかしいずれにせよ、とにかく、それぞれの仕方でそれぞれの瞬間に死ぬ。そのとき全員が死体となっている。わたしも当然そうである。

 

さしあたり死体でないひとびと、死体となりゆくひとびとが、いまそれぞれの格好をして、あるひとは得意になりながら、あるひとは悄然と歩いている。そのような光景のなかでさしあたりの「いま」が析出されている。ふしぎなかんじがする。