しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

力とは何か

 ニースで花火を見ていた群衆にトラックが突っ込み、80名近くが亡くなったという。朝、ベッドで寝転びながらスマホでニュースを追っていた。悲しいとか恐ろしいとかの「気持ち」では追いつかないような、とらえどころの無さがある。まさかそんなことが起きるなんて、というところでストップする。そしてまた、イラクでは毎週起きていることである。

 

 テロや暴力、トラウマ、「ケア」といったことを哲学の立場から考えてゆくとき、「力」とは何なのかという問いが不可避であるようにおもう。トラウマやケアは、悪意ある暴力や自然の巨大な力が吹き荒れたあとに現れてくるからだ。トラウマを知ることは力を知ることであり、力を知ることはトラウマを知ることでもある。

 

 力とは何ですか、と問うてみたとき、うまく別のことばで言い換えられない。力とは、力であって…。そのうえ、力はさまざまな場面で現れていて、多様である。「権力」「能力」もあれば、「体力」「気力」もある。「暴力」もあれば「正義や平和を守る力」などとも言う。「力及ばず、申し訳ありませんでした」などと言うときもある。

 

 高校で物理学の授業のはじめの方に、F=maという式を習った。Fは力であり、それは質量mと加速度aを掛けた量にひとしい。しかしこれは、ものごとの動きの説明の仕方であって、上に挙げたさまざまな「力」のわずかな側面を言い当てたにすぎない。

 

 日本語では「力」という漢字はかなり便利で、これ一文字でだいたいのことがわかるうえに、いろんな別の語にくっついて熟語を作る。「想像力」「行動力」などと言う。この場合の「-力」は、たいてい「〜〜する能力」のことだろう。しかし「能力」とは何なのかと問うと、やはり「なにかをすることのできる力」としか言いようがない。

 「破壊力」「瞬発力」といったように、「-力」のつく熟語は、どことなく能動的なもの、なにかがこっちからこっちへ作動して、なにかの結末を引き起こす、というニュアンスがある。しかし最近では「包容力」「受容力」などと言うこともあって、わけがわからない。

 

 日本語では「力」で済んでしまうが、英語だとforce, powerという語に分かれる。また、「暴力」はviolenceであり、「能力」の場合はcapacityやcompitenceといった語もある。

 ドイツ語でも、「力」を表すのにKraftとMachtという2つの語がある。カントの『活力測定考』はKraftのほうで、ニーチェの『力への意志』はMachtのほうである。さらにGewaltという語もあって、これは「暴力」に近い。しかし「三権分立」をGewalteilungと言うように、必ずしも「悪しき力」だけを意味するのではない。