しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

列車とお客様との接触

新快速に乗っていたら西明石駅で「列車とお客様が接触」したので大阪止まりになると車内放送があった。

「接触」とは不思議な表現で、字義どおりに受け取るなら駅の乗客と列車がふっと触れ合うくらいで何の傷も受けていないようにも聞こえる。

しかし実際にはこの「接触」はより広い含意があり、凄惨な状況も、飛び込みの自死もそこに含まれる。ということを聞いている誰もがわかっている。接触という、軽く、非意図的に発生するような語感のことばが、きびしい人身事故や意図的な行動にも使われる。

こうした広義化は普通批判されるものだけれど、この「接触」についてはそうではない。鉄道会社と乗客に暗黙の合意がある。実際に軽い接触かもしれないし、そうでないかもしれないが、そこは触れずに「接触」でまとめておく。

それはわたしたちの日常が軌道をいっしゅんはみ出しかけるが、深く気にせずに再び戻るという体験である。だれもが「接触」の当事者になりうるが、そこに深入りせずふわっとまとめておく。そうしてダイヤが回復し、日常生活が運行されてゆく。

 

手を置く

こどもが寝ているとき、息をしてるかなとおもって背中あたりに手を置いてみる。こどもはいつもうつ伏せに寝るので、手を置くための「定位置」は背中になる。すると数秒、呼吸をしている様子がわからない。とおもうとすぐ、呼吸のちいさくて深い響きがかれの身体の奥からつたわってくる。じぶんの手のひらがこどもの背中にやわらかく「貼り付いた」ような感覚が生まれている。そのまま手を置いていると、かなり派手に上半身をすうすうと律動させながら寝ていることにきづく。体温もわかる。

こんなにも動いているのに、はじめに手を置いた数秒間はその動きが捉えられていなかったのだ、ときづく。ふしぎとしか言いようがない。じぶんの右手がこどもの呼吸を捉えるモードになっていなかったのが、こどもの背中に触れていると、そのモードへ引き寄せられ、みちびかれて変わるようだ。それはこちらの手のひらがアクティブに切り替わるというより、こどもの背中がわたしの手を切り替えてくるような感覚でもある。

こどもは、どう感じているのだろうか。寝たままで気づかないだろうか。

そこに無ければ無いですね

 こども(7ヶ月半)はスマホが好きだ。写真や動画を撮られるのも、スマホをつかんで角を舐めるのも好きだ。目の届く範囲にスマホを見つけると猛ダッシュ匍匐前進で捕獲しに来る。

 レンズなどを舐められると困るので、親としてはスマホを隠す。即座に枕の下に入れる。すると、こどもはスマホへの興味を失う。これはなかなか奇妙なことである。こどもはわたしが枕の下にスマホを入れる始終を見ている。だから「隠す」という表現も本来は合わないだろう。こどもが枕の下に手を突っ込めばスマホはすぐにつかめるはずである。枕をどけてもよい。しかしそうしない。見えなくなると、無いものとして扱われるらしい。おそらく「興味を失う」という表現も適切ではないだろう。

 これは子ども椅子に座らせている際におもちゃを床に落としたときも同様であって、直前まで機嫌良く遊んでいたおもちゃが視界の下に消えるやいなや、それ以上探そうとしない。机上の別のものに手を伸ばす。

 枕の下、机の下に、スマホやおもちゃが依然として「有り続ける」という感覚が希薄であるようだ。見えていれば手に掴み、享受する。見えなくなればもはやそれは存在せず、探すという試行すら発動しない。

 さて枕の下から再びスマホを取り出してこどもの眼前に置けば、喜び勇んでこれを掴む。しかしこの場合、かれにとってスマホはいかに「存在」していることになるのだろうか。以前から有ったものが一時的に枕の下に有り、それがまた眼前に移動してここに有る……という理解はしていないのかもしれない。それは突然消滅し、突然また現れた。存在が時間的な連続性にへばりつくのではなく、「いまここ」「眼前に、手元に」有るかどうかだけで理解されている。有れば有り、無ければ無い。この存在理解が維持されるのは、スマホの「発生」や「消滅」について不思議を感じないからだろう。

 ある何かがここに発生し存在するようになるためには理由やメカニズムがその背後に無ければならず、そうした理由やメカニズムには合理的な説明が必要とされる……大人にとって当然のこの存在理解をこどもは共有していない。発生・消滅を特殊なものとして、それよりは時間的な連続性・恒常性を基本的なものと捉える大人のこの存在理解それ自体にたいした根拠は無いだろう。だからメリー・ポピンズはかばんの中から長い電気スタンドを取り出すことができる。こどもは発生・消滅を不思議ではないものとして、連続性・恒常性を取るに足りないものと見る。有れば有り、無ければ無い。

 ところでこうした態度にも一つ例外があり、それは母親の存在である。母親の姿が見えなくなると、こどもは悲痛な泣き声をただちに上げる。母は発生・消滅するものではなく、恒常性・連続性によって包摂される。父であるわたしはそうではなく、いるときはいて、仕事で外出するとそのままいないものとして理解されているらしい。帰宅すると、あ、そういえばいなかったんだな、という顔で出迎えられる。それを期待していま帰路の新快速の車内でこの文章を書いています。

 

こどもがおどろく

こどもが2週間ほど前から、ときたま、ものごとに「驚く」様子を見せるようになった。

部屋の外でカラスが鳴いているとき、すこし体を縮めながら首を回して部屋の壁をそわそわ眺めていた。こどもはカラスを見た経験がゼロではないが、部屋の外にカラスがいること、それがこのように鳴くことは知らない。だから、よくわからない、聞き慣れない鳴き声が突然きこえてきたことになる。あるいは「鳴き声」というカテゴリ自体、まだ彼には存在しないかもしれない。

 

別の日、こどもとわたしが部屋の床にぺたんとお尻をつけて座って遊んでいたとき、廊下を妻がすたすたと歩いてきた。部屋の引き戸は開いていて、そこを妻が横切る姿がとつぜん現れてまた消えた。これにはこどもははっきりと驚いていた。母という、もっとも愛着を帯びているはずの存在でもこのようにおどろきを引き起こすのだとわかって不思議におもった。そしてまた、親の挙動や部屋の内外の出来事に大きな変化は無いはずなのに、以前は見せなかった「おどろく」という様子が初めて生じているのも不思議なことである。

 

おどろくことができるためには、日常・平常の感覚から突然外れた出来事としてそれを受け取ることができなければならない。つまりおどろきの前には強靭な「日常」や「平常」が成立している必要がある。慣れが驚きの前提である。世界の事物はさしあたりすべてが安定したもの・不変のもの・いつもどおりのものである。そのような「当たり前」に取り囲まれているところに不意に何かが生じるから、ひとはおどろく。

とすると、こどもは生後6ヶ月経ってようやく、この世界がたいていは安定したもの・変わらないものに埋め尽くされているという仕方でそこを生き始めたということなのだろう。しかしそれは「おどろき」をところどころに隠し持った世界でもある。

 

別の言い方をすると、ゆったりと流れる「時間」をこどもが理解し始めたということかもしれない。おどろきは現在を突然裂いて現れるものに対しても生じるが、多くは現在を絶えず新鮮なものとして産み出している、わずかに「先」の未来といっしょにやってくる。この未来は数秒とか数分とかの数直線的な将来ではなく、現在が未知に開かれつつ確定しているというときの、現在の少し奥にある源泉である。その未来につねに視線を送り込んでいる。それは「ここには何も現れない、通らないはず」という消極的な予測・投機でもある。その予測を裏ぎって妻が通ったので、こどもは驚いたのだろう。

長田区まちあるき(復興ダイアローグ2nd#2)

9/25(日)に、「復興ダイアローグ」のワークショップのひとつとして神戸市長田区の路上観察に参加しました。スタヂオ・カタリストの松原永季さんに教えていただきました。そのとき撮った写真を掲載します。

真ん中の物置の上に並んでいる多肉植物がかわいい。映っているおばあさんのお話では、震災後にできたこの隙間で栽培を始めたそうです。真ん中の蔦植物も丁寧に手入れがされています。いま写真を見返しても、どの鉢も緑が美しい。愛情をもって栽培されてるんだなと感じます。(許可をいただいて撮影しました)

 

左端だけうっすら残る「マルフク」の看板。その上を蔦植物が這っています。家と家の隙間の影になる部分でも蔓延っているのがすごい。

 

とつぜんぽっかり現れた空地。震災の跡ですが「遺構」と名指されてもおらず、かといって更地にされているわけでもない。手作りのブランコがあります。一面雑草が生えてはいますが背の高い叢は無く、定期的に手入れがされているようです。

 

このフェンスで囲まれた空地も震災の跡のようです。こちらは雑草がかなり伸びていて、奥は人が住んでいないらしい家屋を草が飲み込みつつあります。

 

駒ヶ林の水門。海が意外と近くであることを知りました。謎な絵が描いてあって、ちょっと怖い。中央のゲートの石柱には金具がいろいろ埋め込まれているのですが、ほとんどはもう使われていないのではないか。

 

駒ケ林の駄菓子屋さんと、その向かいの空地。震災で家屋が倒壊して空地になる前は当然フェンスもなく、フェンス内側に横倒しにされている石に保育園帰りの子どもたちが鈴生りに座っていたそうです。いまは保育園も統合されて、石に並んで座るこどもたちはいません。駄菓子屋さんは経営を続けられていて、わたしが訪れたときは幼いきょうだいとそのお父さんが訪れてたこ焼きを焼かせてもらっていました。ちなみにたこ焼きは7個200円。おいしかった。保育園が終わったあと、石に座る30人のこどもたちのすがたを想像しました。「道が細いから車が入れへんから、こどもが遊ぶにはええ」と駄菓子屋さんのおじさんが話しておられました。





 

「安倍氏の国葬、どう考える?」:地元紙・神戸新聞からインタビューを受けました。

地元の神戸新聞さんからインタビュー取材を受け、その内容が記事になりました。

 

「国葬」は自分の研究テーマの中心ではないのですが、本来の研究テーマである災害の追悼と国葬の違いなどを、取材いただいた田中記者と議論しながらお話させていただきました。

ご批評・ご意見いただけましたら幸いです。

『力の指輪』雑感

  • ゲーム・オブ・スローンズは面白かったんだな、と改めて感じた。
  • 本『力の指輪』とGoTは、『西遊記』と『鎌倉殿の13人』ぐらい違う作品のはずなのだけれど、なぜかGoTを思い出してしまう。寄せているんだろうなという感覚を持つ。言い換えれば本作は「指輪物語」世界の魅力で勝負できていない。

 

  • 魅力的な悪役がいない。『ウォーキング・デッド』にはニーガンが、『スターウォーズ』にはダース・ベイダーが、GoTにはタイウィン・ラニスターやベイリッシュ公やラムジー・ボルトンが、『バットマン』にはジョーカーがいる。『The BOYS』はアニーとメイヴとキミコ以外ほぼ全員が悪役のようなものだが、なかでもやはりホームランダーの悪役ぶりは圧巻である。そして映画『指輪物語』はサウロンは悪役としての魅力はほぼ無いが、代わりに「指輪」そのものの不気味さはきちんと描かれていた。
  • 翻って本作にはこれといった優れた悪役がいない。

 

  • 俳優の人種多様化については、アロンディルはあまり違和感が無い。一方、ハーフットの長が黒人のおっちゃんであるのはどうしてもしっくりこない。
  • というのも、肌の色や顔つきがさまざまであることの、物語世界における理由がよくわからないからだ。
  • エルフならばなんとなく「なんか歴史的にいろいろあるんやろうな」と考えることができる(かれらに「歴史」の観念があるのかは別として…)。トールキンの著作にそういった記述があるか否かは別として、分厚い物語世界の設定のなかに「肌の黒い精悍な顔つきのエルフの一支族」が世界のどこかで生きていて…という背景が書き込まれており、その語られない背景を背負いつつアロンディルが紆余曲折を経て物見の塔で勤務するようになったのだという想像が可能である。
  • 対して、ハーフットはずっとみんなで寄り集まって楽しく厳しく生き抜いてきましたという描写がなされている。とすると集団内では身体上の差異は小さいだろうと半ば無意識に推測してしまう。言いかえると、なぜあのハーフットの長だけが他のハーフットと違って肌の色が濃いのだろうという問いに、物語世界の側から答えが返ってくるという感覚を持てない。
  • いや、離れた地域に肌の黒いハーフットたちの集団がいて、あの長はそこから追放されるとかはぐれるとかしたのだけれど、なんだかんだいろいろあって肌の白いハーフット集団の一員となり、信望を得て長となったのかもしれない。
  • しかしハーフットってやはりそんなあちこちにたくさんいない気がするんですよね…
  • わたしたちの現実の世界では、肌の色や顔つきはそのひとの「ルーツ」と深く関係しているものだという感覚が共有されている。肌の色とルーツを同一視したり、個人とそのひとのルーツを同一視することは善くないけれども、あるひとのある身体上の特徴が、そのひとの系譜的・歴史的背景と相関するものだという理念をさしあたり維持・構築している。
  • ところが「指輪物語」世界は、種族とルーツがほぼイコールである。エルフはエルフ、ドワーフはドワーフであり、かれらの神話的起源は物語世界のなかで確定してしまっている。そこに肌の色という現実世界のルーツの徴表が重ね書きされるので、まぁ混乱はする。
  • さらに『指輪物語』『ホビットの冒険』では種族と美醜の感覚が重ね合わされていた。エルフは美しく、エルフと共闘する人間も美しく、ホビットとドワーフはもこもこぽこぽこ愛嬌があり、オークは醜い。そして正しく美しいエルフや人間族は高身長の白人俳優が演じており、醜いオーク達は正義の有志連合に毎回タコ殴りにされて最終的に種族浄化されるので、これはもうそういう世界観のものなのだといったん受け入れるほかなかった。
  • この「まぁ、そういう世界観ですわな」という前提を本気でひっくり返したり脱構築するためには『家畜人ヤプー』みたいな極端な仕掛けが必要で、俳優の人種をいろいろ混ぜ混ぜしてみましたというレベルではうまくいかないのではないか。
  • あるいは、ガラドリエルをアジア系女優が演じるとか。核心的な主要人物については「(物語世界の)種族」=「(現実世界の)人種」という前作映画の図式を維持しているところも不徹底の感を与えるのだとおもう。
  • 根本的には、良い・正しい側を美しい姿形で、悪い・恐ろしい側を醜い姿形でカテゴリ的に描くというのが、もう結局どうしようもないのだろう。