しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

学会で発表賞をいただきました

先週土曜日の災害情報学会・若手研究発表大会で会長賞をいただきました。

発表題目は以下です。

  • 高原耕平「判断は実在するのか 避難研究の多角化のために」

聴講、コメントいただいた皆様、これまで研究活動を支えてくださった皆様にお礼申し上げます。津波や水害時の「避難」の研究は情報のインプット・判断・行動という素朴なモデルを前提として良いのか、むしろ物語論の立場から避難研究を考えるべきではないか、という筋でお話しました。

 なお勤め先の「人と防災未来センター」からは特別研究調査員の福本晋悟さんも同賞を受賞で、同じ部署から2名の受賞となりました。福本さんは現役のTV/ラジオアナウンサーでありつつ、昨年度末に関西大学大学院博士前期課程を社会人修了されています。多忙な中で丁寧に積み重ねられた研究成果を発表され、今回の受賞に帰結しました(職場内の研究会などで途中成果をお聞きする機会がよくありましたが、誠実な研究だと感じます)

コロナがこわい

コロナがこわい。というか、どう捉えたものか、まよっている。

 

自分がコロナで死ぬのがこわいのだろうか。それはもちろん避けたい。避けたいが、死ぬときは死んでしまうのだろう。むしろ後遺症のほうがこわい。呼吸器の機能がひどく落ちたり、不可解な強い疲労感に冒されたりという事例を読んだ。後遺症を抱えて生きることを想像してみる。自分がいま抱えている多くのものを手放すことになるだろう。心身の苦しみよりも、いま自分が持っているものを失うということの不安のほうが想像しやすい。

 

しかし恐怖や不安は、この不可解さの核心ではない。

どれだけ恐怖や不安を覚え、また想像をしても、さしあたり今日ここまでのところは自分がコロナに感染していない、という事実がある。このことがものすごく不可解だ。

もちろん手指の消毒は続けているし、マスクも付けている。変な人混みに入ることも、長時間の会食や飲み会に興じることもない。けれども、こうした「努力」はある程度の蓋然性しか保障しないだろう。感染してしまうときは、こうした努力をウィルスがするっとすり抜けて来るのだろう。

 

多くのひとが感染し、とりたてて悪化しないひともいれば、命を落とすひともいれば、重たい後遺症を負わされるひともいる。感染したひとのなかには、なるほど「自業自得」のような原因があるひとも含まれるかもしれない。事態を甘く見て、消毒やマスクを徹底しなかったのかもしれない。

しかしそうしたわかりやすい事例はおそらく少数例ではないかとおもう。おそらく大多数は「それなりに徹底していたつもりだったのに」「そう甘く見ていたつもりではなかったのに」感染した、というひとびとではなかろうか。

 

そういったひとびとと自分のあいだに決定的な差は無い。そこに異様な不可解を感じる。そしてこの不可解がわたしの明日の健康をなんら保障してくれないということに、さらなる理不尽と不可解を感じる。

久しぶりの授業

非常勤講師で近隣の大学に行った。学部生相手の授業は数年ぶり。

 

受け持つ授業の受講生は全員2回生。

昨年はほぼすべてオンライン授業で、かれらは大学に来ての授業は実質的に今年からはじめてだと言う。

 

良い授業をしよう、と改めておもった。

自分にとっては「仕事」「業務」の一部にすぎないと言える。研究者として生きてゆく以上、こうした授業はずっと続く。今年のこの授業も、そうした仕事のうちの一つにすぎない。

 

けれども彼ら学生にとってはそうではない。

かれらの長い人生のなかで、大学で学ぶのは(一般的には)この4年間だけだ。しかもこの環境下で、その4年のうちどれだけの期間、大学で友人たちといっしょに学べるかわからない。実際、今学期も途中からまたオンラインに戻るかもしれない。

 

自分の時間感覚とかれらの時間感覚には、あきらかに非対称性がある。

別にコロナでなくてもそうなのだけれど、とにかくいまはこのことを意識しなおして、いまできる限りにおいて最良の授業をしようとおもう。

兵庫県庁の抜き打ち防災訓練

 大震災から2周年目にあたる平成9年1月14日、兵庫県は初めての完全抜き打ちの防災訓練をしました。(中略)

 この訓練では、訓練の関係者、関係機関には、「1月10日から30日までの間で姫路市内を訓練会場として抜き打ち訓練を実施する」ことだけを事前に伝え、それ以外のことは知らせないようにしました。(中略)

 訓練担当者3人には別室での作業を徹底させ、防災局職員にも分からないようにするとともに、訓練会場が予め分かると実働部隊の事前調査や予行演習が実施される可能性があるため、会場確保には同市内の大体育館をダミーで借り、あたかもそこで行うように見せかけ、実際は、同じ市内の取り壊し直前の県営住宅を会場としました。県営住宅には被災者役のボランティアを閉じ込めて、電動カッターなどを使用して救助隊が救出するよう仕組みました。(中略)

 緊張が続くなか、訓練当日を迎えました。

 その結果、大混乱が発生しました。訓練とはいえ2年前の大震災の際の初動と同様の混乱が生じたのです。(中略)二度とあのような混乱は生じないと確信しての体制検証のための訓練でした。それなのに大混乱が生じてしまったのです。

 訓練会場では、最初に到着した部隊の車両が狭い道路を塞ぎ後続の部隊が進めなくなり、一部の部隊は地理不案内で会場を通り過ぎ、相当遅れて会場に到着する有様でした。また、建物内の被災者役のボランティアが、迫真の演技で救助隊へいろいろと注文をする場面もあり、救助隊員が狼狽えることもありました。

 現場が大混乱ですから市役所や県庁に被害情報が届くはずがありません。こともあろうに、姫路市役所と県庁を結んでいたフェニックス防災情報システムの市役所端末がダウンし、県庁との情報連携が取れなくなるというアクシデントまで発生してしまいました。(中略)

 しかし、この訓練は大成功であったと今でも思っています。大震災直後から一心不乱に再構築してきた兵庫の防災体制の検証ができたからです。

(斎藤富雄『「防災・危機管理」実践の勘どころ』晃洋書房、2020年、pp.67-70)

 

著者は兵庫県の初代防災監。兵庫県は全国で初めて防災監を置いた自治体なので、日本で最初の防災監でもある。ダミーの会場を予約というのがスゴイ。ロンメルみたいなひとだとおもう。

組織が本気で危機管理に取り組んでいるか否かは、抜き打ち訓練を避けていないかどうかで見分けられると思う。全国の自治体でも丸ごとの抜き打ち訓練をしている事例はやはり少ない。

ただし抜き打ち訓練をいたずらに連打しても意味は薄い。訓練の目的を定めなければならない。抜き打ち自体が目的になっては意味がない。著者が「この訓練は大成功であったと今でも思っています」と述べているのも、訓練の目的をはっきりさせており、その目的に対して最良の手段が「抜き打ち」だったということ。 

「防災・危機管理」実践の勘どころ

「防災・危機管理」実践の勘どころ

  • 作者:齋藤 富雄
  • 発売日: 2020/12/20
  • メディア: 単行本
 

 

江戸時代の被災者生活再建支援法

『武江年表』によると、焼失した町屋に対する下賜金の支給額は間口一間(182センチ)当たり金3両1分と銀6匁8分であった。匁に換算すると、一間あたり169匁3分(約34万円)になる。これだけの額の下賜金の支給は、江戸の復興を大いに後押ししたはずである。

(フレデリック・クレインス、磯田道史『オランダ商館長が見た江戸の災害』講談社現代新書、pp.99-100)

最大10万人が死んだと言われる「明暦の大火」のあと、江戸幕府が焼失家屋に対し面積当たりで下賜金を支給していた、という記述。

 

江戸時代の長屋は一部屋2間、それが5部屋あるいは10部屋で1棟であったというから(下記リンク参照)、長屋1棟あたり340万円~680万円が家主に支給されたという換算になるだろうか。

江戸庶民の暮らし-江戸の水道(水道井戸)、江戸の水売り|江戸の外食文化資料|日本食文化の醤油を知る

 

現代の被災者生活再建支援法では建物全壊+新築の場合、1世帯に最大300万円が支給される。あくまで世帯単位の支給であるのでこの下賜金と単純比較はできない。ただ、被災者生活再建支援法が成立したのは1998年であるので(阪神淡路大震災では私有財産への補償はできないと大蔵省がつっぱねた)、見方によっては江戸時代の方が進んでいたと言えなくもない。

 

 

 

お前もそこに寝ろ/謙虚な身体

赤坂 ぼくは聞き書きというのは、これがまったく初めての体験だったし、これまでにじっちゃんばっちゃんの話をまともに聞いたことがなかった。だから、いろいろ不安もあったけれども、聞き書きを始めたときには、もう裸になるしかないと覚悟を決めていました。最初に出てくるカンジキ作りの中島さんに会いに行ったとき、一時間くらい話を聞いたら、突然、中島さんが「昼寝だ、お前もそこに寝ろ」って言いだした。思わずこっちも、そうかと思って、日溜まりに寝たんですよ(笑)。

森 あれはすごく印象深かったです。

 私が遅れて中島さんの家に行ったんですけど、赤坂さんが昼寝からフッと起きて玄関先の私を見たんです。裸と言いましたが、失礼な言い方ですが謙虚な身体と言ってもいいような、そういうものにその時、出会いました。

(赤坂憲雄『東北学へ 2聞き書き・最上に生きる』作品社、1996年)

ザワークラウトを漬ける

3月31日の深夜にザワークラウトを作っている。

先週の土曜日に春キャベツ半個分を漬け込んだ。うまく発酵が始まったので瓶ごと実家に持っていった。先々週、母からイカナゴの佃煮を送ってもらったのでその返礼だった。神戸ではこの季節になるとイカナゴの佃煮の郵便が行き交う。北摂出身のパートナーに春先の風物詩だと説明すると驚いていた。ザワークラウトを漬けた瓶は一人暮らしを始めたとき母が砂糖を詰めてくれたものだ。先月、その砂糖を使い切った。10年かかってカラになった瓶はキャベツが詰め込まれて実家に戻った。

だからザワークラウトも瓶も手元になくなった。スーパーで瓶と春キャベツを買ってきた。そして3月31日の深夜にザワークラウトを作っている。

 

数度の成功と失敗を繰り返してザワークラウト作りのコツはわかってきた。キャベツを細かく切る。重量の2%分の塩を振って揉み込む。すると間もなくキャベツの細片が輝き始める。塩分により葉内部の水が浸出したのだが、独特のやわらかなつやつやが自然と現れるのが好きだ。

コツの一つは、ここからしつこく圧することである。ラップをかけて、その上から手で押す。水分がさらに滲み出す。そうして1時間ほど押して滲みてを断続的に繰り返してから瓶に詰める。詰めるときもまた圧する。そうすると、あの大きかったキャベツが瓶におおむね収まってしまう。なお元の容器に溜まった水分も瓶に戻す。

 

瓶の蓋を少しゆるめて一晩置くと、翌朝には漬け汁が瓶から溢れている。発酵のガスのためである。瓶のなかを見ると大小の泡がキャベツの葉の間に溜まっている。自分の意識や文明の時間とは異なる機序が静かに進行していたのだ。その発見にふしぎな愉悦を感じる。

瓶を拭いて、またスプーンなどで圧する。泡がぶくぶく上がってくる。このとき水位が葉をひたひたにすることが大切である。水位が低く、葉が空気に触れていると失敗することが多い。

 

3日も経てば春キャベツ特有の甘味と発酵による淡い酸味がまじりあい、早くも食膳の要衝を占めるに至る。だがこの時点ではまだ塩味が強い。発酵はまだ途上である。塩分自体は変わっていないはずなのに、発酵が進むに連れて塩味が退いてゆく。

 

そういうことを3月31日の深夜にやっているところです。

久しぶりに母と父と犬の顔を見て安心していたのに気づいた。