しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「レトリーバーライフ」動画からレトリーバーを弁護する

 実家でラブラドール・レトリーバーを飼っており、レトリーバーの動画が上がっているとついつい見てしまう。ところで「レトリーバーライフ」という特化サイトがある。そのなかに、内外のレトリーバーの動画を紹介して動画内容に解釈を付け加えるというコンテンツがある。しかし10年以上レトリーバーと生活してきた者としては、この解釈の仕方に首をかしげることがおおい。

 

 たとえば以下のページでは、定番の「赤ちゃんとレトリーバー」モノの動画に対して、「赤ちゃんのシッターをしているようで、ついついヌイグルミを奪ってしまう、優しいけどちょっとおバカなゴールデンレトリーバー」という流れで説明を付け加えている。だが動画を仔細に見ると、この動画のレトリーバーがやっているのはそんな「おバカ」キャラではない。

 

動画本体は↓

 

 

 以下、どこかの国でどこかの赤ちゃんにベビーシッターを担当しているどこかのレトリーバーの名誉のために、この犬が何をしようとしているのか「弁護の解釈」を書いてみたい。

 

ゴールデンレトリーバー,動画

見てください、この穏やかな光景を。

きっと自分の妹か娘か…そのような存在に思っているのでしょう。

眼差しも、とっても穏やかなのです。

 

 

 まずこの記事が見落としているのは動画撮影者の存在である。女性の声がわずかに入っているので母親だと仮定しておく。この赤ちゃんもレトリーバーも、母親を意識しながら遊んでおり、動画を撮られている。とくにレトリーバーはほぼ最後まで母親の方を意識しながら赤ちゃんと接している。

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 静止画にするとわかりづらいが、レトリーバーは定期的に撮影者に視線を送っているように見える。母親の反応を観察して、自分の行動が「OKかNGか」を確認しながらコトを進めようとしているように思える。

 なお赤ちゃんの方も最初に撮影者を確認してからレトリーバーへの接触を本格化させており、そもそも両者が撮影者の意向に沿って遊んでいると言うと見方がうがちすぎであろうか。

 

 

ゴールデンレトリーバー,動画

その後、赤ちゃんがヒョイッとぬいぐるを持ちました。

それを目にしたBaileyは思わず…

(アグッ)

「ぬいぐるみだぁ…」とばかりに奪ってしまいました。

もう無意識のような動きなので、きっとぬいぐるみには目がないのでしょうね。

ということで、たとえ赤ちゃんが持っていても進んでアグッ。

 

 この解釈にはわたしは非常に抵抗がある。このレトリーバーは、赤ちゃんとどう接すればよいかを(擬人的な表現になるが)「かなり迷いながら」行動している。遊び方のルールを赤ちゃんと合わせようと試みているのだ。

 一連の動きを再確認しよう。まず撮影者がぬいぐるみをソファに投げ入れ、それを赤ちゃんが見つけて手に取り、レトリーバーの方を見る。レトリーバーは自分の体を舐めるのに集中しており、ぬいぐるみと赤ちゃんの動きにこの段階では気づいていない。

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 赤ちゃんはこのとき、ぬいぐるみを犬に対してどうしたいのか、細部までは考えていないように思える。「なにか(ぬいぐるみ)をなにか(犬)のそばに近づける」というふうにしか身体がまだ動かない。「わたす」「ちらつかせる」「投げる」といった行動を選択できない。

 一方、犬のほうはいきなりぬいぐるみが知覚にとびこんできたのでわずかにとまどい、まずぬいぐるみを観察している。元記事が言うように「もう無意識のような動きなので、きっとぬいぐるみには目がない」のであれば、この時点でぬいぐるみに飛びついているだろう。だがそうしない。ぬいぐるみがここにあることの文脈を捉えようとしているのではないか。

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 そこで撮影者の方にいったん視線を送る。赤ちゃんは犬とぬいぐるみを注視しているが、犬は赤ちゃん+ぬいぐるみに加えて撮影者の意向を自分の行動圏に収めている。場面場面で最適な行動をつねに意識している。

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 その後、赤ちゃんの手にあるぬいぐるみを軽く咥える。ここで注目したいのは、レトリーバーは、咥える動きを赤ちゃんの手の動きにしばらく合わせていることだ。決して「無意識のような動き」「進んでアグッ」ではない。おそらく赤ちゃんが引っ張れば口を離しただろう。実際に犬を飼っているひとは体験があるだろうが、犬が人間の存在を顧慮せずに「アグッ」と行くときはもっと勢いがある。

 再び擬人化して言えば、レトリーバーはできるだけ赤ちゃんの意向に合わせようとしている。さらに言えば、赤ちゃんの意向に合わせるという撮影者の意向に合わせている。具体的には、渡すのか、受け取るのか、それとも引っ張り合いっこをするのかを赤ちゃんに「聞きながら」ぬいぐるみを咥えているのである。

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 ところが赤ちゃんのほうは、そうした行動のオプションをまだマスターしていない。それでも犬に対する一次的なコミュニケーションは成り立っており、おそらくここで赤ちゃんがぬいぐるみを手放したのは、犬の口がぬいぐるみをすこし引っ張ったので、それにとりあえず合わせたのだろう。だが「力を感じた→手放した」という次元にとどまっており、「ぬいぐるみを犬に渡してあげる」という理解はまだできていない。そのため、犬の口の動きに身体レベルで合わせたら「なぜか」ぬいぐるみが手から奪われたという体験をしている。悲しみの感情が生じて母親の庇護を求める。前後の出来事の文脈がわからないので、泣くしかないのだ。

 レトリーバーの方もやや困惑しており、赤ちゃんとほぼ同時に撮影者を確認している。そういうルールの遊びかなと思って受け取ったけれども、間違っていたのか?と。

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もういちど撮影者を確認する。

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 動画はこの後も少し続き、動画解説ページは「赤ちゃんのことよりも自分の遊びを優先させるレトリーバー」という文脈で解釈している。だが、やはりわたしはこのレトリーバーに「子どもっぽさ」よりもかなり有能な子守役という印象を感じ取る。

 動画後半ではレトリーバーがぬいぐるみを抱え込んで赤ちゃんに渡さないような姿が見られるが、いったん確保したモノを意識がそこに集中している限り手放さないのは犬の(というか哺乳類全般の)基本ルールである。動物は動物の習性に従うのだから、そこに「子供っぽさ」や「わがまま」を読み取るのはフェアではない。赤ちゃんがぬいぐるみに手を伸ばしてもこのレトリーバーが赤ちゃんに噛み付いたりうなったりしないのは、この動物としての基本ルールに加えて、子守という別の基本的文脈をこの犬が取り入れているからである。

 もう一点考慮に入れておきたいことは、赤ちゃんの発達段階である。発達心理学については不勉強なのだが、おそらくこの時期の幼児はまだ自己と他者(犬)とモノ(ぬいぐるみ)が分化しきっていない。同じではないということは実存レベルで理解しているけれども、どう違うのかというところまではまだ身体にゆきわたっていない。もう少し発達が進めば「犬にぬいぐるみをわたす」「犬からぬいぐるみを受け取る」といったことが可能になるだろう。だが動画撮影時点では自己-モノ-他者という3項関係が成立しきっていないように思える。だからぬいぐるみをにぎっているときはぬいぐるみは自分の運動感覚や皮膚感覚の外縁かつ内側にあり、ぬいぐるみを投げてしまったときは自分の一部でなかった自分の一部が自分から突然離れてしまったという驚きを感じている。そのぬいぐるみが、じぶんよりも巨大で暖かくて自分からはなれたりくっついたりする謎の両目と冷たい鼻先と舌とぱたぱた左右に動くしっぽが混じり合うもこもこ存在の方に移動する。この犬も自分と同様に母親の意向と保護の圏内にあるが、こいつが自分や母親と同じなのか別物なのかもはっきりしない。そうした領域では元記事が言う「奪ってしまう」「譲ってあげない」という行為がはたして存在するのだろうか。

 

 元記事には「レトリーバー=賢いけどたまにおバカ」というキャラ設定が先にあって、それを当てはめるようなやり方をわたしは感じる。だがレトリーバーはこの元記事が想定しているよりもずっとずっと賢いし、そしてレトリーバーを含めた犬一般は人間が期待するよりずっとずっと動物的である。わたしの解釈も結局は主観的な擬人化にすぎないかもしれないけれど、専門サイトを謳って動画を紹介するなら、もっと丁寧に観察してほしいと思う。以上、レトリーバーの弁護を試みた。

論文が公開されました

災害復興学会に投稿していた論文が公開されました。

査読無しではありますが、自分で書きたいものを書いたという実感がある論文です。

お気に入りの一本です。

 

高原耕平、山村紀香「オルタナティブ遺構論 小さな遺構と出来事への近づき方」、日本災害復興学会誌『復興』第24号、pp.37-46

 

以下からDLできます。

第24号 熊本地震から4年 -復興にむけたくらしやまちづくりへの取り組み- | 日本災害復興学会

 

 

仕事をする

仕事が雑になってきているな、と感じる。

「なんであれ丁寧な仕事をする」というのが自分のポリシーだと思っていた。昨年はある程度、自分なりにそれを達成できていた。

いまはかなりダメで、質が落ちていると感じる。〆切も守れていない。

 

いま考えてみると「丁寧な仕事をする」というのはポリシーでもなんでもなかった。丁寧な仕事を続ける〈ための〉、譲れない部分とか自分なりの方針や経験というものを持っていなかった。それこそが仕事のポリシーに該当するもののはずである。自分で後悔しない、きちんとした成果を重ねてゆくためには、日常的に何を保持しておくべきか。その答えを手に入れられていない。

いったん立ち止まって考えたほうがいいとおもった。忙しい忙しいでは、けっきょく仕事が雑になって最後に信用を失う。

 

先生達が忙しいらしいから

 学部1回生のとき、夏休みが9月いっぱいまであってこれはさすがに長いなと思った。有効活用しようという計画もなく、ぼんやりと過ごしていたのだとおもう。

 10月1日から後期の授業再開だと思っていたら、工学部の授業はまだ始まらないらしいとクラスメイトが言う。「らしい」などと適当なことがあるだろうかとおもうが、公式の掲示などがあったか無かったか、記憶が無い。

 いつから再開なのかもよくわからず、クラスメイトに聞くと「なんか工学部の先生達が忙しいらしいから、開講はしばらく先だって」ということだった。忙しいらしいから延期らしいというのもいよいよアバウトな話だが、実際に10月初週はたしかに工学部の授業は無く、いつから始まるというのも「らしい」でぼんやり話が伝わってくるだけで、10日か2週間か経って教室に行ってみると第1回目の授業が始まった。

 その後は同様のことは起きなかった。いまではほぼ考えられないだろう。15年以上前の話だが、ぼんやりした時代もあったものだとおもう。

共著論文が地域安全学会の論文奨励賞を受賞しました

共著者として参加した地域安全学会の論文が学会の論文奨励賞を受賞しました。

 

藤原 宏之,佐藤 史弥,松川 杏寧,寅屋敷 哲也,高原耕平,竹之内 健.

「災害マネジメント総括支援員等が執る災害対応プロセスの分析」『地域安全学会論文集』37, pp.327-338, 2020.

 

主著者の藤原さんは三重県伊勢市の職員で、人と防災未来センターに研究調査員として出向されてこの研究をまとめられ、一昨日の学会で発表し、見事受賞となりました。行政職員としての視点と研究者としての視点がバランス良く融合した、他に無い研究だとおもっています。藤原さん、おめでとうございました!

自分の書いたものにきづく

近日の発表で過去のスライドを1枚くらい再利用しようかなーと思い、昨年の復興学会で自分が発表したときのPPTを見直すといろいろと面白いことを書いていてちょっと驚く。

去年の自分はこんなことを考えていたのか… やるやん… というか発表したんやったらマジメに研究つづけろよ… という気持ちになっている。

 

というか一回ネタ出しに使っただけになってた九鬼周造、マジですまん……勉強するわ…

安倍(前)政権とは結局なんだったのだろうか

安倍(前)政権とは結局なんだったのだろうか。いまさら自分なりに言語化してみようとおもう。

ことばを大切にしないひと(たち)だな、というのが前政権に対するわたしの評価である。それは言行が一致しないとか、過去の法規や歴史を蔑ろにするとか、答弁が不誠実であるとか、端的に嘘をつくとか、そういったもろもろのアクションとして現れることであるけれど、わたしが言いたいのはもうすこし根本的な意味で、「ことば」そのものを深く侮蔑したひとびとであっただろう、ということである。人間はことばと共に生きる。政治家はさらに深くことばのもとで生きる。それを拒絶したひとびとだなという評価をわたしはもっている。

ところで前政権がきわめて興味深いのは、かれらがことばを蔑ろにして、ことばを馬鹿にして、ことばを深く傷つければ傷つけるほど、政権基盤が安定したということである。これは日本の憲政史上、類例を見ないことだろう。これこそが前政権の、安倍晋三という政治家の強烈で唯一の個性だったとおもう。

 

本来、政治家は自分のことばに賭ける生き物である。ことばがかれらの職業生命そのものである。その意味で政治家は作家や教師や詩人と実は近いところにいる。政治家が作家と異なるのは、ナマモノの流動する公共世界でこそ自身のことばが生命を持つ点である。演説、説得、弁明、雑談、討論、傾聴、交渉、こうしたすべてが公共のことばの生命の現れであって、政治家はそこでこそ輝く。

したがって過去の政治家はその功罪・清濁・優劣・大小を別にしても、いずれも自身のことばに自信と信頼を持っていた。前政権より前の総理大臣はみないずれもそうであって、かれらがいかなる技能や家系や幸運や胆力や財力でもって政治生命を延伸していたにしても、最終的にそれはすべてかれら自身のことばによって担保されていた。かれらはことばによって権力を勝ち取り、ことばによって権力を失った。

それはかれらがことばに対して一貫して誠実だったということではない。むしろ逆で、かれらはことばをぎりぎりまで搾取していた、と言ってもいい。ただ、ことばを搾取することができるのは、ことばというものを、そこから自分が利益を得ることのできる存在であると考えているからだ。それはことばに対する一定の信頼の現れでもある。

小泉純一郎氏が現役の首相であったとき、委員会で「自衛隊の派遣されるところが非戦闘地域」とか、年金未納を問われて「人生いろいろ、政治家もいろいろ」と開き直るように言ったことがあった。このように言うとき、かれは不誠実であったけれども、同時に、自分の言っていることが論理的におかしい、政治的・倫理的に危ういことだという自覚を持ちながら話しているようでもあった。表情の端っこにはにかみや気まずさがあった。それは政治家と市民のあいだに最低限の紐帯をたもつ余地にほかならなかった。同様に、郵政民営化を問う総選挙で小泉氏は「自民党をぶっ壊す」というフレーズによって有権者を「劇場」にいざなった。そのとき小泉氏は有権者の熱狂とは正反対の、あまりに冷徹な票読みと戦術戦略を貫徹していたはずである。 だがその一方で、有権者を冷徹に扇動しつつも、小泉氏自身がその扇動のなかに自分を叩き込んでいた。伸るか反るかの賭けに国民の生命を運命を投じ、自分自身の政治生命をも賭けた。それもまた戦術の一つにすぎなかったかもしれないが。 

このようなことばへの信頼関係(それは搾取も含む態度であって、詩人のような純粋なものではないが)は、その政治家の立ち居振る舞いや性格や顔つきに反映した。だから政治家の立ち居振る舞いを知ることは、かれのことばへの関係を推測することにもつながった。ひらたく言えば、どの政治家もそのひと特有の「キャラ」を持っている。そのキャラ自体はひとによって好き嫌いがあろうけれど、たとえば福田康夫というひとがその人のキャラを、麻生太郎というひとがその人のキャラを持っていることはたしかであって、そうしたキャラとかれらのことば使いが共振していることが信じられている。

 

こうしたひとびとに対して、安倍政権は、また安倍晋三氏は、ついに自身のことばを持たなかった。したがってかれ固有のキャラクターや表情の陰影を持たなかった。表情といえば眉間のシワだけだった。

かれは自分のことばやキャラを全く必要としていなかった。かれが実行したのは自分の政権における言語活動を徹底的に無意味にしたことである。首尾一貫性や、共感や、論理性や、対話性をかれは完全に廃した。それによって政権運営は盤石になった。これはものすごい発見であったとおもう。ことばを無意味にすれば、ことばに縛られる必要もなくなる。ことばに縛られることがなくなれば、行動が自由になる。行動が自由になれば、ことばによって国民とつながらなくても支配を強化できる。支配を強化すれば、ことばを無意味にしても問題が無くなる。これは日本の憲政史上初めてのことだったはずである。

ことばを完全に侮蔑し、消失させることで、官邸と政権は日々の行動の意味を失い、機能に徹した。これは安倍氏にとってもそれなりに辛い交換だったかもしれない。憲法改正といった、かれ自身が希求していた意味も手放すことにつながるからだ。しかし実際にかれはそれも手放した。ことばに価値や意味が無くなるのであるから、現憲法も無意味になるし、その改正も無意味になる。「憲法改正」や「戦後レジームからの脱却」といったフレーズはいちおうは発声され続けたけれど、実際のところ言語上の意味は完全に形骸化していたのだとおもう。あくびの伝染とか、アリ同士の触角の触れ合いとか、画面に指で触れるとATMのお札入れの蓋がびーっと開くとか、そういったぐらいの「AといえばB」の次元に転化していた。

左派や知識人はこのパラダイムシフトに対して完全に無力だった。かれらはことばの力を信じる人びとだからだ。滑稽なことだった。

 

なぜ安倍氏は自分のことばをそこまで侮蔑することができたのだろうか。この侮蔑という営為にかれの精神的・身体的能力のすべてが賭けられていたように思われる。

ことばを馬鹿にすると支配を固めることができるということのほかに、安倍氏のもうひとつの発見は、ことばを馬鹿にすると意外と多くの味方を直接獲得することができるということである。そうしたフォロワーの多くは、ことばから直接に力を得るという習慣や経験を持たないひとびとだったとわたしは推測する。かれらはことばに信頼を置くひとびとからしばしば見下されてきた。安倍氏はことばを馬鹿にすることで、ことばに信頼を置くひとびとを(その多くはやはり左派である)も馬鹿にし、支配できることを見せつけた。いまや優劣が逆転したのだ。ようやく奴らを馬鹿にし返すことができる日が来た、というわけである。

そうして、全く無価値な侮蔑の応酬が10年近く続けられた。左派は右派を、右派は左派を馬鹿にした。その多くが品位を失った。とりわけ安倍政権に反対するひとびとは、精神力の全てを投じて安倍氏を馬鹿にした。かれは漢字が読めなかった。かれは追及されると感情的・反射的にまくしたてた。馬鹿にするための材料はいくらでもあった。だが安倍氏は全く動じなかった。ここにかれの恐るべき強靭さ、恐るべき空虚がある。これに比べると左派は全くの甘ちゃんだった。格が違った。日本中で安倍晋三氏をもっとも馬鹿にしていたのは、安倍氏自身だった。その徹底的自己侮蔑の深みに左派は誰も及ばなかったし、政権内のひとびとも同様だった。それによってかれはことばへの侮蔑を維持した。わずかでも自己への信頼や責任や反省が残っていれば、ことばの徹底的な侮蔑は不可能である。安倍氏以上に安倍氏を侮蔑していたひとはなかった。