先輩研究員が出した避難所感染拡大レポートが好評で、読売新聞、朝日新聞、NHKに取り上げられている。よかった。
***
起きる。窓を開ける。ゴミをまとめる。洗面所の排水溝を掃除する。ゴミを出す。ポストに郵便が届いている。李静和先生からのご献本だった。
手に持っているだけで、すごくつやつやしていて、きれいで、そして手にウニを載せているように、ひりひりじくじくする。読むことも本棚に収めることもできずに、ぼうっとしている。
先輩研究員が出した避難所感染拡大レポートが好評で、読売新聞、朝日新聞、NHKに取り上げられている。よかった。
***
起きる。窓を開ける。ゴミをまとめる。洗面所の排水溝を掃除する。ゴミを出す。ポストに郵便が届いている。李静和先生からのご献本だった。
手に持っているだけで、すごくつやつやしていて、きれいで、そして手にウニを載せているように、ひりひりじくじくする。読むことも本棚に収めることもできずに、ぼうっとしている。
片付ける場所がそろそろ無くなってきた。
トーチカ生活が始まっておよそ1ヶ月になる。出勤しない、週に2,3度の食料品買い物の他はできるだけ部屋から出ないということで、自宅を少しでも快適にしようという方向に体が差し向けられる。1年前に引っ越してちょくちょく片付けはしていたのだが(前の住人の家具がかなり残っていたので、その処分に時間がかかった)、この機会にということで部屋の片付けをむしろ楽しんで進めた。
ところが片付け始めると片付いてしまうもので(当たり前である)、だんだんと未片付けの処女地が狭まってきた。部屋とは不思議なもので、片付いていない状態では雪だるま式にモノが散らかってゆくが、ある閾値を超えて片付けが進むと、多少のモノの散らかりでは本格的な散らかり状態には陥らなくなる。表面的にはモノが散らばっていても、すぐに整頓状態に戻ってしまう。いわゆるゴミ屋敷はこの反対の状態で、多少片付けてもどうにもならずにひたすら散らかってしまうのだろう。現在、我が家はゴミ屋敷と正反対の、どうしてもモノが片付いてしまう奇妙な状態にある。それは確かに心地よいのだけれど、いったん完成形に近づくとどうしてもstaticになってしまい、ただその空間を見て満足するしかなくなる。minecraftやrimworldのように、いっちょ最初からワールドを創りなおすかーということもできない。
***
きょう読み終わったほん。
まちを出歩くひとの数が少しずつ増えている気がする。そりゃそうなるよなぁとおもう。
以下は印象論に過ぎないけれど、この国では有権者も政治リーダーも科学的な対応ということを一般的に好まないのではなかろうか。ここで言う科学的な対応とは、「AをしたらBが起きる」「CをしなかったらDは起きない」という論理的な関係を徹底させることである。今回の感染症対応に関して言えば、「社会的接触を減らせば、感染拡大を防げる」ということになる。
日本でもたしかに対人接触は減った。しかし「ある程度」にとどまった。科学的であるためには、「Aであれば、Bとなる」の「A」に当たる部分をできるだけ徹底して、純粋にする必要がある。すなわち可能な限り徹底的に・厳密に・厳格に外出を制限することが求められた。ところが社会全体の動向を見ると、「まあまあそこそこ減らす」というところで妥協した。だから、「Aであれば、Bとなる」という論理関係が曖昧になって、「それなりに社会的接触が減ったから、どうやらそれなりに感染拡大が収まっているっぽい」というぼんやりとした把握にとどまった。結局、何が成功で何が失敗だったのか、明晰な知識を社会に沈殿させることには失敗した。
もちろん、封鎖は多くのひとの生業を奪うので、厳密であればあるほど良いということにはならない。たとえば接触を99%断つのではなく、75%減らすことが最良の塩梅なのかもしれない。だがその場合も同様で、「社会的接触を75%にしつつ経済活動も最低限維持することで、最終的な利得(感染拡大抑止と経済温存)が最大になる」という仮説を確認するために厳密な条件の統制を行ったのではなかった。「なんとなく」で75%ぐらいになり、同じく「なんとなく」最終的な利得が最大化されるのかもしれない、そのうち75%が65%になり50%になるんだろうね、という雰囲気が広がる。やはり同じことで、条件も結果も曖昧にしてしまっているので、何が成功で何が失敗だったのか、その知識をわたしたちは得ていない。
別の言い方をすれば、現在の政治は賭けを避けている。理念上は何度でも条件を揃えて同じ実験を繰り返すことができ、それが人間の社会生活に影響を及ぼさない通常科学と異なり、「都市封鎖をする」という条件統制は一つの社会的な賭けである。賭け金は市民の生命である。都市封鎖をすることで感染拡大が止まるという確証は無い。結果を事前に知ることはできないので、どのような選択をするにしても賭けになる。だが賭けをせざるをえないし、賭ける以上は全額を賭けなければならない。それが裏目に出る可能性もある。スウェーデンは賭けに負けている。だがそれによって、少なくとも、何に失敗したのかが明確に理解されている。他方で日本では何に賭けているのかがわからない。全ての馬に等額ずつ賭け金を置いているようにも見える。ブラジルは「何もしない」という馬に賭けているが、日本はそれとも異なる。
***
きょうはすごく幸福なことがあり、すごく自分に失望することがあった。
個人的に続刊を待っているコミックをならべてみる。
もはや「ファンタジー+食」というジャンルすら拓いてしまった感がある。
こちらも鉄板の一冊として。ぱりんと砕ける鉱石たちのドラマ。単純な「せつない」系の物語になってしまわないのは、作中の独特の時間感覚によるものが大きいのだろう。じぶんは金剛先生が好きです。
1巻からずっと一冊ずつ買っている。単純におもしろい。「空気の読めなさ」をギャグの基本にしていたのだけれど、そこに主人公の成長物語を微妙にブレンドして、「それなりに読めるようになってゆく」過程の物語としても成立している。
先月新刊が出たばかりだが、次巻で完結とのこと。
著者の前作『女子攻兵』はこれ以上ないだろうというぐらいの完結だった。次もSFだろうと待っていたら、いきなり幕末モノが来た。
「宮崎駿ふうの画風で書き始めるが、話が進むにつれて掘骨砕三に寄ってゆく」系の著者の新シリーズ。著者の前作『シドニアの騎士』はこれ以下はないだろうというぐらいの雑な終わり方だった。次もSFだろうと待っていたら、全く期待を裏切らない正統派弐瓶ワールドで嬉しい。
いやもう、むちゃくちゃ好き。むかし『プリニウス書簡集』 (講談社学術文庫)を読んだとき、「叔父のプリニウスは火山の調査に行ったとき巻き込まれて死んでしまい~」という下りがあってなんじゃそりゃとおもった記憶があるのだが、その死んでしまった叔父の方(大プリニウス。書簡集の書き手は小プリニウス)を主人公とした作品。
同じ著者の『ジョブズ』も面白かったのだが、本作のネロとジョブズが重なって見えるのが面白い。
ニンジャスレイヤー・キョート・ヘル・オン・アース 5 (チャンピオンREDコミックス)
ツイッターアーだけ追っていると案外読み落としているストーリーの重要要素が多く、復習としても意味がある。
本作については当ブログで紹介記事を書いた。
面白いのは間違いないのだけれど、アイヌの描き方が「3F」のように感じてしまい、なんとなく読むのをやめている。
『メイドインアビス』と『ハクメイとミコチ』を並べたときの、あー同系列の作品でしょ感がすごいが、むしろ『アビス』は『衛府の七忍』の方がまだ近い。近くない?
ジンやヒソカや会長の息子さんたちは『メイドインアビス』世界に移住した方が幸せなんじゃないだろうか。
注文していた棚が届く。組み立てる。机の横に置く。机の周りがだいぶ整理されて広くなる。うれしい。
買い物のために外に出ると、歩き方がよくわからなくなる。身体動作としての「歩行」はできているのだけれど、街を歩いているということ自体に奇妙さを感じる。視界がひらけていて、その中心のすぐ奥に自分がいる。その感覚がひどく奇妙。
きのう、突然、わけのわからない飢餓感のような感覚に陥った。社会的なもの、ひとと話すこと、電車に乗って通勤すること、天気を気にすること。そういった、普段は余計なものと感じていたことが完全に自分からこそぎ落とされていることに、体が気づいたというような。
バターがスーパーに売っていなかった。
じぶんが平常な状態であることに驚く。錯乱したり、不健康な嗜癖に陥ったり、行動の方向性を失ったり、社会的に非難されるような行動をしていない。たぶん。奇妙であるけれども、平常にしている。良いことにちがいない。
48時間で外出15分。だんだんゲームみたいになっている。
混んでいる時間帯を避けようと思い、少し遅くにスーパーに行ったら、こんごは20時で閉店という掲示が入り口に出ていて回れ右した。コンビニも朝6時から午前1時までの営業だという。社会がどんどん縮こまっていると言うべきか、これまで背伸びしていたのをやめたと言うべきか。
けたけたと笑いながら歩く4人連れの若者2グループとすれ違う。正直なところ、ティーンエイジャーや20代前半のひとにはこの環境はしんどすぎるだろうとおもう。友達と出歩きたいと思うだろう、しょうがないよな、とおもう。国家の非常大権として警察力をもって封じるのでないかぎり、いまの状態が限界だろう。
自粛も封鎖も三密もぜんぶ捨ててしまって、数万の群衆がエエジャナイカエエジャナイカと街道を練り歩くような事件が起きても、わたしはあまり驚かない。驚くけど。
読んだ本:
明治以降と戦後の日本人は50年や100年くらいの視界で治水事業を進めた。それは毎年1000人規模が亡くなっていた水害を鎮める効果がたしかにあった。だが同時に、短期的視野での治水は土砂流出を減らして海岸を荒廃させ、平野から氾濫調整能力を奪った。川本来の生命力は、より長期的なタイムスパンで理解しなければならないのだ。
新しい論文の結論部分を書き始める。ちょっとゴリゴリに書きすぎかなぁとおもう。
共著論文の査読結果が返ってくる。
読んだもの:
先週買って花瓶に挿していた切り花の枝の根本から細い根が水中に生えだしていた。すごいなーとおもう。