しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

2行目は聞いてもらえない

社会人になって気づいたことに、世の中のひとは必ずしもわたしの発話の「2行目」を聞いてはくれない、ということがある。

聞いてくれるひとと、そうでないひとがいる。


2行目というか、2文目というか、たとえば「一般的にはAです、ただしこの場合は特殊例としてBです」というように文が続く場合に、「一般的にはAです」と言った時点で「AだというならXが必要ですね」と切り返されることが、たまによくある。いやそうではなくて、肝心の結論部分は「この場合はBです」なのだが、そこまでたどり着かせてもらえない。

前半の文と後半の文が順接で続くなら問題はあまりないのだけれど、逆接、限定、留保で続く場合は文意がサカサマになってしまうため面倒である。後半部があるのを示すために「一般的には」「まずは」といった後半文が続きますよサインを入れて話しているつもりなのだが、それをキャッチしてもらえてないなと感じる。

「2行目」を聞いてくれるひとも普通にいるので、わたしの話し方の悪さとは別に、相性があるのだろう。結論をまず先に話す癖を付けるべきかもしれない。(たどってみると、ドイツ語のsondernという接続詞の影響な気がする)


周囲のひとを観察してみると、「ただ」「でも」「とはいえ」などの逆接の接続詞に独特のアクセントというか、間髪入れず後半文につなげる話し方をしていることがある。これなら誤解はないが、「押し」がだいぶ強い印象がある。語調を強めるのはできるが、間髪入れずというところが自分には難しい。相手の確認を待って、一呼吸置いて、というかんじの話し方をしてしまう。

ことばを覚える前の夢

英語で話す夢を見た。とても流暢というのではなかったけれど、わりとすんなりとやりとりしていた。起きてから、現実でもあれぐらい話せればとりあえず助かるのだけれどなあと思った。

英語を話せないのに、英語で話す夢を見た。とすると、わたしは母語を話すようになる前にも、それを話す夢を見ただろうか。そのような夢を実際に見たという記憶も、見なかったという確信もない。そもそも乳児期に見た夢の記憶そのものが無い(仮に夢を見ていたとして)。

乳児も夢を見ると仮定すると、まだ覚えていない母語を自在に話す夢を見ているという可能性はありうる。一般に、ひとは子供のころから、また大人になっても、実際にはできないことや未熟であることを難なくこなすという夢を見ることがある。もしこの一般性が乳児の夢にも拡張できるとすると、乳児はたとえば夢の中で二本の脚で歩いたり、高いところにあるものを手で取ったり、母親に食事を与えたり、堅いものを噛み砕いて食べたり、排泄を自在に行ったり、性にまつわる行為を試しているかもしれない。いずれも仮定に仮定を重ねた想像だけれど、こうした夢のレパートリーが存在するとすれば、そのなかに「ことばを話す」という夢が含まれても不思議ではない。

しかしその夢は乳児にとって非常な困難と混乱をもたらすだろう。というのも、夢から覚めると乳児は入眠前と同じようにことばを話せない状態に戻るからだ。しかも、ことばが話せない、理解できないということもほとんど理解できない。わたしたちは奇妙な夢を見たあと、その内容を言語化し要約する。「英語を話せないのに、英語で話す夢を見た」というように。それによって夢と現実の境界を確認する。ところが乳児はそれができない。夢を見ていて、目が覚める。ところがその夢の内容をいったんことばで把握して、現在の現実と切り分けることができない。したがって双つの世界は奇妙になめらかにつながっている。つながっているのだけれど、風景は完全に切り替わる。その境目を自分で言い定めることができない。泣くしかない。

ことばを話す夢を見たあと、ことばを話せない現実に目覚めたとき、何が起きていただろうか。もはや夢には戻れない。戻るという理念自体が言語に支えられている。夢のなかの、ことばを話していた自分が現実に進出しようとしているように感じるのかもしれない。しかし身体や精神は全くついてこない。

おそらく境界線を作るのは母親やその他の保育者なのだろう。抱き抱えられあやされることで、現在の目覚めている現実の方が先に固められる。しかしそれと同時に、もしかしたら、夢のなかのことばを話していた自分の方が夢と現実の境界線を引くのかもしれない。現実が夢を切り離すのではなく、夢の側が現実を切り離してこちらに寄越すのだ。そうした境界線が意識の古層としていまのわたしの現実の直下にひそむ活断層となっており、現実でことばを話すようになってからは、ことばを話す前に話していた夢のなかのわたしはしずかに眠っているのかもしれない。

 

「人も荷物もごっちゃに」(アーサー・ビナード編著『知らなかった、ぼくらの戦争』)

 ご飯なんか一日に一回くらいなので、お腹は減るし、死ぬ子が何人も出たんです。

 ある親は、死んだわが子を何日も置いていたけど、周りから「臭い」っていわれて、海にザブーンって落として、泣いていたそうです。子どもを亡くした親の泣き声で、船中いっぱいでした。だからうちの母は、わたしに「がんばって生きねば、おめも海さ投げられるよ」って。わたしは海さ投げられるのがやでな、子どもながら、よくがんばって生き延びたと思います。

 まず樺太の真岡へ運ばれて、今度は樺太にもともと住んでた日本人といっしょに、函館に送られたんです。船への乗り降りのときには、人も荷物もごっちゃに、縄で編んだ網みたいなのに入れられてクレーンでつり上げられたの。

(…)函館にたどり着いたとき、感激とかそういうのはなんにもなかった。ただ荷物のように降ろされたかんじでした。引き揚げてから二年ほどして、父は亡くなりました。(pp.56-57)

 

 

アーサー・ビナード編著『知らなかった、ぼくらの戦争』(小学館、2017年)より。

 

知らなかった、ぼくらの戦争

知らなかった、ぼくらの戦争

 

 

 

工業的であるとはどういうことか 小綺麗版ガンダム雑感


このエントリで紹介されている「小綺麗版ガンダム」↓の映像を見た。


たしかに

 わりとカット頭が止まっていて、止絵が多くて、セガサターンの特典アニメかよ!というレベル

 というかんじ。ショートフィルムやムービーではなく、あくまで「途中でレンダリングしてみた動画ファイル」として受け取った方がいいのかもしれない。

 いちばんひどいと感じたのはシャアザクが突然登場するところで、前後の作劇が無いために「なんか赤い別のロボットが出てきて、なんか強い」という流れになってしまっている。最低限、シャアが「デニムが部下を抑えられんとはな…」というセリフをファルメルの艦橋かザクのコクピットで(手袋をはめなおしながら)ニヤついて言うシーンが必要だっただろう。そうすれば、この変なヘルメットの青年将校がコロニーへの襲撃を指揮していて(ヒートホークでビルを壊すザクがファイアーエムブレムの山賊にしか見えないのだが)、戦場の状況に余裕で対処する有能キャラで、実際になんだか強い、という前後の流れが立ち上がる。それが無いのでシューティングゲームに突然カットインしてくる中ボスみたいな扱いになっている。もちろん、この動画を見るひとが100人いたら150人はそれがシャアだとわかるのだけれど、それを前提にしてしまったら作品ではなく二次創作だ。

 

 動画を批判しているだけなのは生産的でないので、上記の企画でうたわれている「工業的デザイン」について考えてみたい。正確には、そもそも工業的とはいかなることなのか、ということをロボットアニメを題材にして考えてみたい。

 工業的であることには、おおざっぱには2つの本質があるとおもう。一つは、操作から結果までの中間に、時間や論理の面でラグがあることだ。工業的であることは、そのラグに人間が従属して、人間がそれに合わせて自己の行為を調節してゆかなければならない、ということでもある。さらに別の言い方をすれば、いわゆる「フィードバック」を意識しながら操縦・操作するということ。自転車のブレーキを握ったり、自動車のアクセルを踏み込んだときを想像してみればよい。身体のアクションから、半呼吸、間を置いて装置が動作する。その動作に合わせてまた身体がアクションを送りこむ。長期的にも同様で、家庭で電気を使うというアクションに、発電所が応答して、煙突からススが出たり放射性廃棄物が溜まったりする。工業的とはラグがあることだ。

 一般のよくできたロボット作品やSF作品は、このラグの感じをうまく出している。

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ガバガバ警備トリントン基地

 たとえばこの0083冒頭の、ガトーがサイサリスを強奪するシーン。核攻撃用の巨大MSの脚部がもったりと動く。操縦席に勝手に入った男が何か操作をしたことで、MSの左足がまず動いたのだなという作劇になっている。手前に走るコウは、その動きの鈍さを把握したうえで試作2号機のつま先の前をよこぎる。

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ガバガバ警備アケロン基地

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ガバガバ防備第3新東京市

 もう少し近年の作品から。エヴァ試作5号機を操縦する真希波は操縦席のスライドを目一杯引くが、エヴァの巨体が持つ慣性はそれに応じきれず派手なドリフト走行になる。その後に乗り込んだ2号機では真希波の手の動きにエヴァの動きが追随する。ただしこのときも動きには半拍ほどのラグがある。それをわざわざ見せているシーン。この演出が巧いのは、単に操作から動作までラグがあることを示しているのではなく、操縦者がそのラグを意識しながら操作していることが観客に自然とわかるようにしていること。

 おそらく、巨大ロボットやメカの重量感や加速度や慣性は、ただ「ズシーン」という効果や、手描き作画特有とされる「タメ」「キレ」だけで成立するのではない。それらはむしろ周辺的な演出で、この操作と動作のラグに対する意識が作品内で統一されていることが核心にあり、それを観客が納得しなければ「ズシーン」も浮いてしまう。エヴァとはそういう工業製品だ、ということを真希波も他のチルドレンもネルフのスタッフも共有して身動きしている。そして、この作品内で統一された「ラグ感」は、演出の規定を超えてストーリーや世界観にも連関する。たとえばダミープラグを挿入されたエヴァ初号機がそれを拒むというシーンも、操作に対する動作のこの作品特有のラグ感を前提としている(この場合はうまくいかないという動作である)。そうして、シンジ君がゲンドウの元に現れ、最強クラスの使徒と戦うという見せ場につながる。

 

 ところで、このラグ感の演出が日本とアメリカでは方向性がやや異なるような気がしている。といってもアメリカでの例はひとつしか思い当たらないのだけれど、『パシフィック・リム』のグォォォンズズゥゥンうわぁぁ感である。

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ガテン系ロボットヒーロー

 『パシフィック・リム』のラグ感は極端なまでに強調されている。人間がひとつ操縦する、イェーガーがひとつ動作する、その反動が人間に返ってくる、という一連のプロセスが、これでもかというほど揺れや叫びやよろめきで表現される。しかしそれはけっして過剰な演出ではない。イェーガーとカイジュウはそれほどまでに巨大なのだ、人類の危機も同様に巨大なのだという世界観にもとづいており、それが丁寧に一貫されているので観客もそれにのめりこむことができる。グォォォン、ズズゥゥン、うわぁぁぁ、グォォォン、ズズゥゥン、うわあぁぁ、グォォォン行くぞ、ズズゥゥン、うわぁぁぁ、グォォォン食らえ! キシャァァ、ズズゥゥン、ドガァァン、USA!USA!(エンドロール)。そういう作品。

 これに対して、日本の多くのロボットアニメは人間の操作からロボットの動作までのラグをできるだけ圧縮して描く*1パシフィック・リムと反対に、人間の操縦や意識にできるだけぴったりとロボットが追随するのが「かっこいい」のだという基本理念のようなものがある。この場合も、ラグを無くすのではなく、最低限のラグは残っていてパイロットはそれを意識しているという仕方でむしろ強調している。「あたかも手足のようにロボットを扱う」のが日本のロボットパイロットのあるべきすがたである。ただしこのとき、ロボットを本当に身体のように表現すると、ただの着ぐるみになってしまう。「あたかも」がどう実現されているのかを描き出すのが作品の造り手の腕の見せどころというわけだ。

 正統の宇宙世紀サーガでは、この「あたかも」が作品内の技術発展として描かれているのが巧い。マグネット・コーティング、サイコミュ、全周モニタコクピットサイコフレームというように、ロボットが次第に衣服に近づいてゆく(モビルスーツはそもそもパワードスーツなので当然なのだが)。「ラグ感」の統一が作品の支柱をなしていることがわかる。日本の巨大ロボットは衣服であり、延長された身体である。アメリカの巨大ロボットはトラクターに近い。動作の演出としては『アイアンマン』もスーツに見せかけたトラクターである。

 

 第2に、工業的であることとは、端的に、ひとが無造作に死ぬことである。工業以前の社会でも、ひとは不条理に死んでいた。ただしそれは、明確な悪意や暴力にさらされた結果であったり、権力の横暴であったり、不運や運命や、あるいは神々のたわむれの結果であった。ところが工業的なものはもっと違う仕方で人間を殺してゆく。単純にいえば、工業的なものはそこに人間がいることを全く気にせずに作動し、殺してゆく。

 わたしが冒頭の小綺麗版ガンダムの動画を見てはっきりと違和感を感じるのは、この工業的デザインなるものが人間の死とどういった関係にあるのか、ということを何ら示していない点にある。f:id:pikohei:20200102085718p:plain

 たとえばこのシーン。ガンダム無人のままアムロを追い、かれに搭乗するよう迫っているらしいのだが、富野=サンならこのあたりで無関係の市民を2,3人まきぞえで殺すだろう。

 

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スヴァトラーナ・アレクシェーヴィチの作品に出てきそう

  F91序盤の、上から落ちてきた薬莢が幼児を抱く女性の頭にあたる有名なシーン。この薬莢は、この女性を殺すためにこのサイズであるのではない。この女性を殺すためにここで撃っているのではない。それが動作しているだけで全く無意味にひとが死んでゆく。そこに工業的なもののもう一つの本質がある。そうした死は、その工業製品や工業社会が、より多くの利益や保護や幸福を生み出しているからという理由で正当化される。それは絶対に違うはずだ、正当化されてよい死など無いはずだ、という思考が、工業的なものを描く作品の、主要テーマでなくとも、前提のひとつでなければならないだろう。

 この第2の本質は、ラグ感という第1の本質と関係している。つまり、ひとが殺されるのは、操縦から動作までのラグの間に巻き添えになるということだ。ブレーキを踏んだが間に合いませんでしたという話。

 

 冒頭の動画に戻って考えてみると、工業的デザインとは結局のところ「どうしたって人がそれで殺される」デザインであるほかない。それは兵器として弾を撃つから殺すのではない。ただ歩いているだけで、あるいは整備されているだけで、そこに人間を巻き込み、鋏み、引掛け、飲み込んで、轢き潰す。アストナージはヤクト・ドーガの手で潰されたケーラの遺体を見たが、整備士としては見慣れたものに違いなかっただろう。もちろん、すぐれた工業的デザインは事故を未然に防ぐことに貢献するが、それも無造作で無意味な人間の死を前提にしている。

 してみれば、1stガンダムの「…人々は自らの行為に恐怖した」というナレーションは、この作品のまさに出発点である。コロニーという「工業的デザイン」の極致のような存在が、何億人もの人間を殺すために使われた。そこから出発した作品こそ価値があるとおもう。

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ガバガバ地球連邦軌道艦隊

  

少し関連するエントリ:

yomu.hateblo.jp

 

 

*1:国内作品では、『ビッグオー』や古くは『鉄人28号』がパシフィック・リム系列であるだろうか

書くことの格率

じぶんが時代にほとんどついて行けていない、という感触がある。

ここでの「ついて行けていない」というのは、最新のニュースがわからないとか、先端的な流行が理解できないとか、目新しい考え方に慣れないといったことではない。おそらくそうした流行にぴりぴりして、表面にあるものを舌先でざらざら舐めては次の皿を要求するといったことをしていては、余計に頭がしぼんでゆくだろうとおもう。そういうひとは、とくにネットにはおおい。

そうではなくて、もっとたいせつなもの、なんらかのかたちをとって世の中にたしかに現れているけれども、それはようやく今やっとかたちを得てわたしの耳目に接したにすぎず、そのかたちの裏には深い深い流れがかくされているような、それ。そこに静かに触れてゆくための静かさや謙虚さといったことが、日々うしなわれているような気がする。

それはおそらく、お給料を毎月うけとっている、ということと無関係ではないとおもう。それは大事なことで、なおかつ、おそろしいことだ。お給料を毎月うけとることで、人間的であることができる側面と、人間性をすこしずつ削り取られる側面がある。そうして、ものごとのかたちがわからなくなり、書けなくなる。そういう危険にやっと気づく。

 

時代、ということばを信用しないこと。時代ということばを定義できるひとはすくない。定義せずにつかうひとはおおい。時代ということばの意味をふやかしたまま、いまの時代はこれこれだ、かつての時代はこれこれだったと語るひとはおおい。ところがそれは、真っ暗な部屋で黒い紙に黒いインクであれこれ書いているようなもので、まぐれあたりに正解を書いていることはあっても、書いたものを読み返すこともできない。時代について描こうとしてかえってその中にはめこまれているだけになる。

おそらく古典的な考え方では、時代の意味をよく聞き分けよく見抜くためには、人間性がじゅうぶん休養を取られてのびのびしていなければならない。けれども他方では、いまの時代では何かを書こうとするまえに、まずそこそこ働かなければならない。

為してないことばを使わない

さいきんの書くことの格率。

実際に為していない行為のことばを使わないこと。

たとえば「紡ぐ」ということばがある。しばしば「ことばを紡ぐ」「物語を紡ぐ」といった表現が使われる。

しかしわたしは本当に糸を紡いだことがない。つまり、カイコの繭や、木綿のワタから糸を繰り出して太い糸にするといった行為を為したことがない。だから、比喩的に「ことばを紡ぐ」といった表現を用いないことにする。

それは、もともとの紡ぐ行為の感覚がわからないからで、わからないまま文字面だけを借りても、文の全体にうまく編み込めないと思うから。

「編み込む」も使わないようにしようとおもう。何かを編んだことがないから。「縫う」「染める」はやったことがある。というか、最近は昼休みに縫い物をしている。だから少しだけわかってきた。


「捌く」も、ほぼ経験がない。「焚きつける」はある。「実る」となると哺乳類を辞めないと不可能である。あまり厳密に考えると使えることばがどんどん減ってくる。なので、ある程度にしようと思う。


レタスや水菜の束を両手でねじってざっくり分割してゆくことは、何と呼ぶのだろう。長時間履いていた靴から足を引き抜くと不愉快な臭いが立ち上るので試しに足をその場で振って臭いを散らそうとする動作。満員電車の中で視線を他の人とぶつからせないように奇妙に目を裏返す(?)ことは。ことばは多いが少ない。