しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

大学に5年いて腹がたったこと

博士前期・後期課程で計5年間、大阪大学にいた。

大学で過ごしていてとても腹がたったことが2度あった。

とくに面白い話ではないけれど、そのうちの1つを、大学を出る前にここに書いておくことにする。

 

それは豊中キャンパスのドンドンという今はなくなってしまった食堂で遅いお昼を食べていたとき、その食堂の隅っこに座っていた2名か3名の男子学生が、合コンのことを話していたことだった。

かれらは、合コンにやってきた近隣の女子大の学生のなかで、どの女子大の子が一番頭が悪かったかということを話し始めた。そして具体的な大学名をいくつか挙げて、某大の子はアホだ、某大の子はアホだが顔は良い、某大の子はお金持ちが多い……と続けた。

話題がいつのまにか大学の偏差値といったことにズレたというのではなかった。「頭が悪い女子大(生)」という語り方が突然設定され、そこから盛り上がり始めた。

 

仲間内で楽しそうに話すというよりは、自分たちの会話の内容が周りに聞こえるように声量を調節しているような話し方だった。たぶん、かれらは公の場でその話題を展開できること自体に快楽を感じていたのだろう。ある種の権力欲である。

 

わたしはそのとき、この男の子たちは、集団暴行事件を起こした東大の医学部生たちとスレスレのところにいると思った。まず最初に「頭が悪い」というカテゴリで同年代の女性を捉えて、次いで容姿や「キャラ」を貼り付けてゆく。自分とひとしい尊厳の相手として承認してから、たまたまそのひとが自分より「頭が悪い」ひとだったというのではない。「格付け」を最初にして、その最上位にいる自分たちは相手を好きにしてよいという振る舞い。このことが、あの医学部生たちと、あのとき食堂で話していた男子学生たちには共通しているように思えた。

 

大学は本来、学生が入学前までに身に着けていたそうした歪んだ認知を、完全に「修正」するのではないにしても、いくぶんかほぐしてから社会に送り出す場所であるべきだとおもう。しかしむしろ、そうした認知の歪みを保持し強化するような文化が「頭の良い」大学には少なからず埋め込まれて放置されているのではないか。おそらく食堂で話していた男子学生たちも、部活の先輩などからそうした語り方をコピーするようになったのだろう。

 

鬱陶しい話題だけれど、思い出したので書きました。 

 

 

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 

臨床哲学と「方法」

臨床哲学に固有の方法はあるのかと問われることがある。これはおろそかにできない問いだけれど、これまで自分はうまく答えることができなかった。いま完全な答えを出すのではないけれど、その手がかりを考えてみようとおもう。

なおここで言う臨床哲学は、さしあたり大阪大学の文学研究科の臨床哲学研究室でのことに絞っている。狭い範囲である。

 

普通、ある学科や学問、講座や研究室はそれぞれ固有の方法をもつ。その内部ではさまざまな分化や更新があるにしても、おおまかな基本理念や、あるいは微細な技法については一つの枠がある。

これに対して、臨床哲学は、これが当然でしょうという固有の方法や技法をほとんど持たない。しかし支離滅裂行き当たりばったりではない。

固有の方法は無いのだけれど、傾向はある。それは複数の方法を自由に採用する、組み合わせるということだとおもう。

「複数の方法」と表現すると論が混乱してしまうのだけれど、たとえて言うと「カード」がたくさんあるようなかんじだろうか。現在、臨床哲学研究室にある「カード」は、たとえば「現象学」「精神分析」「フェミニズム」「ジェンダー」「心理学」「哲学対話」「インタビュー調査」「参与観察」「看護」「ケア」「生命倫理」「文献研究」「表現活動」「学校」などである。

いま挙げたカードは微妙にレベルの異なるものが混じっている。たとえば「ケア」と「インタビュー調査」と「現象学」はお互いに取り替えてもほとんど意味が無いが、ここではとりあえず混ぜておく。(また、「現象学」といってもフッサールレヴィナスとガダマーでは当然同じにはできないので、要するに無数にカードがあるということにしていただきたい)

臨床哲学の「方法」は、これらのカードを自分で自由に組み合わせるところから始まる。「現象学」と「フェミニズム」、「哲学対話」と「ケア」と「インタビュー調査」のように。「デッキを組む」という表現がわたしにはしっくり来る。

院生や研究者はそれぞれ自分のテーマや好みに合わせてカードを選び、組み合わせを試してゆく。だから同じ研究室にいるひとであっても、それぞれデッキは異なる。しかし個々のカードについてはそれぞれそれなりに理解し勉強するので、話が噛み合わないということはない。

 

ただし、デッキを組むこと自体が目的ではない。臨時に寄せ集めた即席の「方法」によって、別の具体的なテーマに取り組んでゆくということが「臨床」の勘所になるのだとおもう。

だから、たとえば「フェミニズム」と「倫理学」、「現象学」と「ジェンダー」を組み合わせるといっても、2つの分野の文献の解釈を噛み合わせて新たな考え方を探るということではない。この場合、あくまで方法は「文献研究」であり、そのサブセットとしてフェミニズム現象学があるということになるだろう。そうした研究はもちろん学問と社会の全体にとっても大切だし、臨床哲学でもずっと必要である。ただ、「臨床」が持ちうる独特の不安定さやライブ感からは少し距離があるかもしれない。

わたしが思うことは、複数のカードのすり合わせ自体を目的にするよりも、そのことに時間をかけるよりも、とりあえず選んだカードを使って具体的なテーマに四苦八苦して取り組んでゆくうちに「デッキ」がだんだん有機的に機能し始める、そこに臨床の醍醐味があるのではないかということだ。呉越の兵同士に舟上で議論させてから対岸を目指すのではなく、舟が沈まないよう共に帆を操作させたほうがかえって速く対岸に着く、すると呉の兵も越の兵もいつのまにかお互いの長所短所を理解している。そういうこともあってもよいのではないか。

(なお、わたし自身の博論での発見というか提案は、上記のカード群のなかに「神学」をこっそり混ぜてみてもいいんじゃないかということだった。このことについてはじわじわ考えてゆこうとおもう)

 

からだが触る

 今はもう昔のことになってしまったけれど、学部生のとき、全盲の学生と共に授業に出て板書内容をノートPCに打ち込んでゆくという有償ボランティアをしたことがあった。授業後、その学生が白杖で足元を探りながら教壇上の老教授のもとに近づいた。そのとき、老教授は、学生の手の指の骨が盛り上がっている部分に、自分の手の同じ部分をすっと近づけてすっと触れた。外見上は「拳と拳を打ち付ける」ようなかたちだったと言えなくもないけれど、「拳」というほど力強いものではなく、お互いにすこしだけ丸めた手の、人差し指から小指までの背の部分をそっと、すっと触れ合わせたようなかんじだった。そうして触れることで距離がじかに感じ取れたらしく(たしかその老教授は「ああ、もうちょっとこっち来なさい」と声をかけていた)、学生はゆるやかな磁力に誘引されるように疑いなくあゆみでた。

 これ以上にやさしい「触れ方」というものをわたしはその後も見たことがない。手と手が触れ合っていたのはほんの一瞬の、さらに十分の一くらいの瞬間で、けれどもそのとき真に確実ななにかがそこに生まれていた。「こつん」というかんじですらなく、「すっ」とか「ふっ」といった様子で一瞬だけ触れて、すぐに引き取られた。押し付けすぎることも距離が足りないこともなく、速すぎるのでもおどおど迷って出すのでもなく、絶妙に触れた一瞬で全てが成立した。つまり、ここにいるよ、という応答である。それだけで、その学生の存在全体が受け入れられ、授業後のざわざわした広い教室内の、教壇上の小さな空間が特別な場所になった。おそらく教室内のほとんどだれもこの奇跡的な日常動作に気づいていなかった。触れるということには、ときに、こうした特別なことがある。

 

 これはまた別の話であるけれど、先日、わたしの妹が赤子を抱いていたとき、彼女のかつての同級生の母親が、妹に出会うなり、彼女の頭をなでた。そのまま頭をかき抱いて、抱きしめるかのような動作の入り方だった。実際にはそこまで密に抱きしめるのではなかったけれど、外見上は頭にそっと触れる(いま思い出すと「撫でる」ほど大きな動作でさえなかったかもしれない)だけで、あとは見えない身体が抱きしめているかのようだった。

 その様子は「ひどい目にあった人を慰め、ともに悲しむ」という雰囲気にも似ていた。実際に悪いことがあったのではない。むしろ新生児の出産はこのうえなく「良い」出来事であるし、妹も同級生の母親もネガティブなものに打ちのめされていたのではない。一方で、出産と育児の大変さや疲れは妹の体力をごっそり奪っている。その顔色をそのまま見て、同級生の母親はそっと髪に手をむける。慰めというより「いたわり」に近いかもしれないけれど、「労をねぎらう」というのとも違う。たいへんだったね、今もたいへんだね、という応答が一瞬で伝わっている。その間、彼女は妹が抱く赤子は見ずに、妹の顔だけをまっすぐ見ている。

 

 これもまた今となっては昔の話になってしまったけれど、東北地方のある小さな町で、地元の人たちのほがらかな宴の場に混じっていたとき、ひとりの男の子が大人たちの間に入ってきた。この少年とその家族は、あの大海嘯のあとにこの町に移り住んできていた。だから町のひとたちは、この少年を、地元で生まれ育った子どもたちと同じように、そしてさらに増して大切に大切にしていた。ところでその町の寡黙な写真屋さんが、この少年が通りがかったとき、突然Tシャツの背中に腕を入れて、手のひらでごしごしごしっと数度、かれの背中を強く摩擦した。少年はこの扱いに慣れているらしく、こそばそうに身をよじり、笑って逃げた。

 このときの「ごしごしごし」は、「そっと」とは全く対照的な、力のこもった動作だった。とはいえ大人の力が本当に子供の身にまともにぶつかっていたなら、かれは痛がっただろう。腕に力がまっすぐ入っているのだけれど、手のひらは大きくやわらかく広がって背中をつつみこむ。じっと見ていたわけではないのだけれど、そういった動きであったようにおもいだされる。お、ここにいるなあ、おまえがいるなあ、ここにいるのがおまえなんだぞぉ、というかんじ。

 

 これもまた今はもう昔のことだけれど、行為を終えた若い恋人たちが、何を話すでもなくお互いの手のゆびを軽く絡めあって、指の腹で相手の手のひらを探り合っていたのだけれど、そうしていたこと自体にしばらく気づいていなかった、という描写をなにかで読んだ記憶がある。指先が相手の手のひらに触れる、すると相手の指がそれに応えてうごき、探り返してくる。同じ動作をオウム返しにするようでいて、お互いに微妙に応答を変えながら触れ合っている。それは信号の交換のようでもある。しかしその間、意識はほとんど無音である。指を絡ませあっていること自体を意識のもとで言語にしていない。指と指がなにかを語り合っている。ふとした拍子に我に返り、2人の指がきわめて複雑なことをしていたことに気づく。その瞬間に言葉が意識のほうに戻ってしまい、もう同じように指を触れ合うことができなくなってしまう。たしかそのような文章だった。

 なぜか、思い出すままに書き連ねました。

豚肉の塩漬けをつくる

豚の塩漬けをつくった。

以下のサイトの工程を完全にコピーした。そしたらできた。

 

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2月5日。まず最初に岩塩をすりこんだ状態。ここから冷蔵庫へ。

 

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2月8日。3日経ったのでいちど水洗いして塩を抜く。(写真は水洗いする直前)

全体的に少し縮んでいるが、まだ赤みがみずみずしい。

ちなみにこの日、博論審査会があって、その打ち上げの後に一人で豚肉の塊を水洗いしていた。わたしは何をやっているんだろうとおもった。豚肉を洗っているのである。

 

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2月15日。ペーパーを毎日取り替えて1週間経った状態。少し「干し肉」っぽい。

上記サイトでは冷蔵庫での熟成は1週間で完成、2週間が限度と書いてあったので、この時点で調理することに。

 

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切ってみたところ。不思議なテラテラ感がある。

 

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焼く。味付けは無し。これだけでOK。

 

食べた感想:

おいしい。わりとコリコリした食感。強いて言えば「タン塩」に近い気がするが、もっと味が濃い。脂気があるはずなのだけれどドロっともたれるかんじがなく、ぱくぱくもぐもぐ食べてしまう。

 

加工時の発見:

ドリップは最初の1日、というか最初の数時間に多く出て、その後はほとんどなかった。なので最初の1日はこまめに観察して、ドリップが溜まるとすぐ捨てるようにした。後半はペーパーがすこし湿る程度で拍子抜けした。

長生きケレンスキー

 ケレンスキーというひとはロシア革命後に政権を担い、その後レーニンに負けて亡命した。ボリシェヴィキからの視点ではかれはここで表舞台から退場するのでその後の消息をわたしは考えたことがなかったのだけれど、先日Wikipediaを見ていたら1970年まで存命だったと知って驚いた(1881生−1970没)。亡命後はニューヨークで活動していたという。アポロ11号の月面着陸の翌年ということになる。祖国の激動を生身で受け止め、世界史の舵をみずから切ろうとして途中で奪われ、逃げて命をつなぎ、宇宙開発競争でアメリカがいったん勝利を収めたところまでを見届けて亡くなった。

 溥儀もいくぶん似た立場のひとであるかもしれない。1906年生まれ、1967年没ということなのでケレンスキーより寿命は短かったが、大清国滅亡後も人生をまっとうしたというべきか。

 エチオピア最後の皇帝ハイエセラシエ1世は1892年生まれ、1975年暗殺された。ムッソリーニに侵略されたが亡命して戦後帰還した。まだ皇位にあった1970年、大阪万博に来ていたのを、当時中学生だったわたしの父が眺めたという。背の高いひとだった由である。

ロシア革命史〈1〉 (岩波文庫)

ロシア革命史〈1〉 (岩波文庫)

 

五つ玉のそろばん

おばあちゃんの部屋を整理していたら、すごいものが出てきた。

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大きな算盤。玉が下側に5つ付いている。自分が小学校で習ったのは4つバージョンだった。子どものころにも同じ算盤を手にとった記憶がある。

 

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裏の書き込みを見てびっくりする。

「明治四十年十月求之」(これをもとめる、かな?)とある。祖父の兄が生まれたのが明治45年なので、さらにその5年前ということになる。

旅館自体は20年以上前に閉じてしまったのだけれど、この算盤は我が家の来歴の一端を伝えるものとして大切にしよう。

 

他にも昭和26年交付の、おばあちゃんの調理師免許(「兵庫縣知事認定」みたいな表記がある)もあった。これも紹介したいのだけれど、おばあちゃんの若いころの写真が貼ってあるのでちょっと遠慮する。

90年代カンボジアPTSD調査の失敗(新福尚隆「阪神大震災 私の体験と心のケア」)

被災者の心の問題の調査という点では私がWHO在籍中に経験したカンボジアにおけるPTSDの調査団のことが頭に浮かぶ。1991年以降、カンボジアにおいて外国からの支援が始まるようになったとき、急速に増大した申込みの一つはカンボジアにおけるPTSDの調査、研究であった。私の目から見ても、欧米からのグループの中には非常に研究色の強いチームの派遣が少なからずあった。そうしたチームはカンボジアに入って、現地の医療陣とさまざまなトラブルを起こす結果となった。結局、カンボジア政府はPTSDの調査のためにカンボジアを訪問する研究班の入国を拒否するようになる。カンボジア政府にとって、外国の研究者がカンボジア内戦を経験したカンボジア人の心理的な外傷に対して調査を行うということには耐え難いものがあったのである。

(新福尚隆「阪神大震災 私の体験と心のケア」)

 

 これはなかなか恐ろしい話で、一国の政府が外国の医療研究班を研究テーマによって一律に入国拒否するという例は珍しいのではなかろうか。それだけむちゃくちゃなことを派遣チームがやらかしていたということなのだろう。文中では「現地の医療陣とさまざまなトラブルを」とあるが、単に外国/現地の医療チーム間の軋轢といったことだけでこうした処置に至るとは思えない。これは全くの推測だけれど、現地医療者が本当に怒ることがあるとすれば、現地カンボジア人に外国の医療チームが直接関わる仕方がひどすぎたということなのだろう。調査行動が「研究」のみに完結していて、ひとりずつのカンボジア人への振る舞いがあまりに侵襲的であり、見かねた現地医療者が身を張って同胞を守ろうとした、というような出来事があったのではなかろうか。推測にすぎないけれど。

 このようなことはPTSD(に限らないが)という研究課題や概念が先行するときに起こりやすいように思われる。PTSDであれ何であれ、どのような症状や力動が観察されるにせよ、結局存在するのは身体と精神と感受性と歴史をもったひとりずつのひとである。そのひとの在り方や苦痛を理解する際に、もちろんPTSDという概念は役立ちうる。しかしひとより先に概念や研究課題が置かれると、なぜかひとそのもののことは見えなくなり、データ採取の素材としての「対象」としか認識されなくなる。

 外国人/異文化人が調査を行うとき、最後までわからないのは歴史と地理である。カンボジアであれば、ラオスベトナム、タイに囲まれ、さらにアメリカ、ソ連、中国のかかわりも大きいにちがいない。ひとびとの症状や言動には、そのひとの数十年分の個人史に加えて、100年単位の家族史、そして1000年単位の地域史・国家史が書き込まれている。外国からの医療者や研究者がさしあたり把握できるのは、個人史と家族史の一部だろう。しかし症状や言動の微妙なニュアンスや襞の部分は、地理的・郷土史的・地域史的な背景まで体得していなければ看過してしまう。つまるところ、とくに心的外傷に関わるような医療や調査研究は、現地のひとがみずから行うのがベストだということかもしれない。外国からのチームはその後方支援や助言にあたるのが本来の筋なのかもしれない。